第二話 死にかけた生還者から生物実験対象へと
池は病室で一人ぼっちでベッドに寝そべり、画面に映し出された自身のバイタルサインをじっと見つめていた。
「心拍数80回/分、血圧69/106……何だよ、これって全部正常じゃないか~~~」
全ての数値が完全に正常で、身体にも異常を感じず、さらに強い生存本能と相まって、この若者は自分にはまだ一縷の望みがあるかもしれないと確信してやまなかった。しかも、世界屈指の医療専門家たちが手厚くケアしてくれているのだから、もしかしたら本当にこの地獄から救い出してくれるかもしれない。今、池にできることは、この専門家たちに命を託すことだけだった。
同じ頃、医療センターの会議室では、下田司令官と医療チームのメンバーたちが話し合っていた。
「司令官、率直に申し上げますが、あの量の放射線を浴びて生き延びることは不可能です。体内の残留放射性物質を除去することはできますが、細胞レベルでの損傷は不可逆的です。特にDNAが破壊されてしまえば手遅れです。」と、ある医師がそう述べた。
ところで、類地球上の人類文明は高度に発達している一方で、医学水準は科学技術のレベルほどには進んでおらず、がん、神経変性疾患、自己免疫疾患などの難病は未だに克服されていない。遅れているとまでは言えないが、様々な派手なハイテク機器(例えば池が横たわっているあの特製ベッドなど)はあるものの、全体としてはこの時代にはあまり見合わない水準である。
「君たちがすべきことは、彼の生命を最大限に延ばして、貴重な医学データを可能な限り多く記録することだ。今回の治療過程を、高線量放射線被ばくについての医学実験だと考えるがいい。」
「しかし司令官、それでは少し残酷すぎませんか……人道的に考えれば、安達さんに終末期ケアを行って、彼の苦痛をできるだけ和らげるべきではないでしょうか。」
「そうしてこそ、安達君の犠牲を無駄にしないことになる。宇宙飛行士という高リスクな職業に就いた以上、彼もすでに覚悟はできているはずだ。それに、これは君たちの今後の研究の方向性にとっても大いに役立つだろう?」
「確かにその通りです……」と、専門家たちは一斉に頷きながら賛成し、口元をわずかに上げた。どうやら合意に達したようである。
「そんなことをするなんて絶対に許さない!!!」
ドアの外から力強い怒号が響き渡り、それに続いてドアを凄まじい勢いで蹴って開け、会議室に駆け込んできたのは、先ほど中央ホールの大型スクリーンに映し出されていた中年の男性だった。
彼は、あの時悲報を伝えた人物であり、安達池の父の親友、池の大学時代の指導教員にして、51歳の万象国出身のベテラン航空科学兼生物技術専門家、リチャード・ラィアード教授である。
後ろの二人の警備員が引っぱったり押したりしても、教え子のことばかりを案じて取り乱した教授を止めることはできなかった。
「大変申し訳ございません、司令官。リチャード教授が無理やり押し入ってしまいました。私たちも止めようとしたのですが……」
「けしからん! リチャード教授は貴賓だ。よくも彼を止めようなどと思ったな!ドアを閉めて、さっさと出て行け!」 と、叱りながら、下田は警備員に目配せをした。警備員はすぐにその意図を悟り、何事もなかったかのように外へ退き、ドアを閉めると同時に、こっそりと内側から鍵をかけた。
万象国と陽の国の二重国籍を持つリチャード教授は、世界共通語である万象語と陽の国の言語を自在に切り替えることができ、コミュニケーションに何の問題もない。
「お久しぶりですね、リチャード教授。そこまで急いで来られる必要はなかったでしょう。現在の状況はすべて想定内です……」
「余計なことは言うな、下田。さっきの会話は全部聞いていたぞ。教えろ、医学実験ってどういうことだ?」
「お聞きになった通り、文字通りの意味です。」
「この狂人め……まさか私の学生をモルモットにするつもり?」
「そんなひどい言い方はお辞めください、教授。安達君の現在の状況をご存知でしょう。彼にとって、これは時間の問題に過ぎません。どうか冷静になって、この事実を受け入れてください。」
教授は猛然と下田の前に駆け寄り、目玉が飛び出そうな眼差しで彼を睨みつけた。
「お前の考えを知らないと思うな。そもそもお前の部下が、わずかな経費を節約するためにサンプリングロボットを派遣しなかったせいで、安達君がこんなひどい目に遭ったじゃないか! 彼が新人だからといって、好き勝手にこんな厄介な仕事を押し付けていいものか? これほど重大な事故が起きたのに、上司であるお前が無責任でいられると思ってやがるのか!!!」
「これこそが、私の責任を負う方法なのです。このような災害は誰にも予測できませんし、我々もこんな悲劇が起こることを望んではいません。今となっては、誰の責任を追及したところで安達君の命は取り戻せません。私が今行っているのは、彼の犠牲を無意味なものにしないためばかりでなく、医学界に貴重なデータと経験を蓄積するためでもあり、そして人類の宇宙開発事業に身を捧げた勇者として、宇宙史にその名を輝かせるのです。これより良い対処法が、教授には思いつきますか?」
下田の弁解を聞いたところ、先ほどまで怒り狂っていた教授は、少し落ち着きを取り戻した。
「それでも、安達君にそんな苦しみを我慢させたくはないのです。」
「その点についてはお約束します。もし彼が本当に耐え難いほどの苦痛に陥った場合は、直ちにその苦しみを終わらせます。あらかじめ言っておきますが、この件を外に漏らすことは絶対にしないでほしいです。さもないと、誰にとっても得になりません。」
「それは脅しなの?」
「とんでもないです。ただ、この件が収まるまでは基地を離れないでください。外部との連絡も一時的に断っていただく必要があります。正直に言えば、私はすでに上層部に報告済みで、今回の事故を処理する全権を委任されています。ですから、私たちに協力していただくのが賢明でしょう。」
リチャード教授は会議室の窓の外を一瞥した。数名の厳重な警戒態勢を取った警備員が、すでに外で待機している。どうやら自分は包囲網に囲まれてしまっているようだ。感情に任せて行動すれば、かえって自分に不利になる。
「この件を口外しないことはできますが、お前らと一緒に医学実験など行うことだけは絶対にできません。自分の教え子が悲惨な結末を迎えるのを、ただ見ているだけだなんて、絶対無理なんだ!」
「考える時間はまだあります。急いで決断することはありません。」
ちょうどその時、ドアの外でノックする音がした。
「司、司令官……検査課からの報告です。安達さんの検査が完了しました。」
「入ってくれ。」
内側から鍵がかかっていたドアが開き、驚愕と恐怖が混じった複雑な顔をした検査技師が入ってくると、下田に報告書を手渡した。
「ご……ご一読ください。」
「私は生物学の専門家ではないので、この報告書は理解できない。リチャード教授のような専門家に任せたほうがよいだろう。結果について大まかに説明してくれれば十分だ。」
下田は無関心に報告書を教授の前に差し出した。教授はそれをさっと受け取ると、眼鏡を押し上げ、緊張した面持ちで読み始めた。医療専門家チームの医師たちも一斉に集まり、教授の周りを取り囲んでは報告書を読み耽っていた。
「は……はい、司令官。実は、安達さんの体内の細胞に、極めて異常な変化が生じているようです……これまでに見たことのない変化です……」
「もっとはっきりと言え。一体どんな変化だ?」
「はい。最も目立った点としては、安達さんの体細胞に特定の成長促進剤を導入することで、大量に分裂させてから染色体を検査したところ、各細胞内の染色体対数が、なんと全て異なってるとのことです……37対のもの、16対のもの、45対のもの、29対のもの…… しかも、それらは整然と配列しており、放射線被ばくによる欠損や断裂は見られませんでした。それだけでなく、細胞核内の遺伝情報も、細胞ごとに一致していません……これまでの安達さんの定期健診記録では全部正常でした。つまり、これは今回の放射線被ばくによって引き起こされたものに他なりません。これは人間、いや、あらゆる炭素系生物において起こり得る現象ではありません……」
リチャード教授と医師たちも、ちょうどその記述を読んでいるところである。全員がまるで幽霊でも見たかのような顔をしていた。これまでの人生でこんな事態を目にしたことがないのは言うまでもなく、人類の歴史を顧みても、これほど荒唐無稽な出来事は前代未聞だった。
教授の額には冷や汗がにじみ、報告書を握りしめた両手が微かに震え、独り言を呟いていた。
「ありえない……なんてとんでもないことなんだろう……どうしてこんなことが……これはもはや生物の話じゃない……」
下田は狡猾な顔をしつつ、教授のそばに近づいてきた。
「どうですか、教授。これで私たちの観察チームに参加したくなるでしょう?」
教授は黙ったままで、このとてつもない衝撃からまだ立ち直れていない。
「それでは、教授を首席顧問として任命し、ここにいる専門家たちと共に観察チームを結成すると宣言します。異論はありますか?」
教授は依然として答えなかった。
「よろしい。それでは、皆さん、直ちに隔離アリアにある実験室へ移動し、観察任務を始めてください。」
教授を含め、全員が歩き出した。教授は相変わらず乗り気でない様子で、心の中では激しく思い悩んでいたが、足取りは知らず知らずのうちに皆についていった。科学者として、これほど価値のある研究対象を前にして、その誘惑に抗える者などいるだろうか?
「教授、安達池に状況を説明していただくようお願いしたいのです。長年の恩師であるあなたこそ、この役目にはうってつけですから。」と、下田は教授に耳打ちした。教授にとっては極めて辛い任務だが、下田が言う通り、教授はこの任務の唯一の候補者だった。
ベットに、とても退屈そうに横たわっている安達池は、専門家たちが治療に来てくれるのを待ち焦がれていた。医療スタッフが去ってから、すでに1時間以上が経っていた。
「遅いな……もしかして検査結果がひどくて、こんなに時間がかかっているのか……きっと、どうやって俺の気持ちをなだめて、プラセボみたいなもので誤魔化すか相談しているに決まっている……それとも、このことを外部に知られないように、俺を閉じ込めて死なせるつもりなのか……」と、自ずと暗い考えが頭をよぎった。
「もし本当に死ぬとしたら、親父とおふくろはどうなってしまうんだろう…… どうやって伝えればいいんだ……知ったら、親がどれほど悲しむことか……」
池は思わず涙をこぼした。
「俺が死んだら、これから誰が両親の面倒を見るんだ? あのバカな妹に頼るしかないのか?」
そうだ、俺にはとても可愛い妹がいるじゃないか。たとえアイツが嫌がろうが、抵抗しようが、この重責は結局彼女に託さざるをえないだろう。
「そういえば、もし俺がこの世にいなくなったら、彼女は悲しんだり、涙を流したりしてくれるだろうか?」
池の頭に、妹に支配されるという恐怖がふとフラッシュバックした。それは、これから直面するかもしれない死の恐怖さえも上回るほどで、まさに「毒をもって毒を制す」といったところだった。滝のように流れ落ちていた涙は一瞬で止まり、鎮静剤としての効果は絶大だった。
「まあ、そんなことあり得ないだろうけど……多分ニヤニヤしながら、俺の家を完全に自分のものにしてしまうだろうな。」
「お兄ちゃん、もう二度と帰ってこないんだね! じゃあ、この家はこれからアタシのものだ! すぐにこの家をアタシの名義に変えてね~~~オホホホ~~~」
まさか、俺の目には妹がそんな風に映っているのか……それなら、死んだ後の世界がどんなものか、もっと考えたほうが良かろう。
他のメンバーが実験室で準備をしている隙に、防護服を着た教授が池の病室のドアの前にやって来た。数十秒間黙って立ち尽くした後、あらかじめ教授の情報を登録しておいた顔認証装置を一瞥し、ドアのロックを解除すると、分厚い隔離用のドアが徐々に開いていった。
池はドアが開く音を聞くが早いか、興奮した顔でベッドから飛び起き、ゆっくりと開くドアを期待に満ちた目で食い入るように見ていた。待ちに待った救世主がついにやってくる!
「やっと治療に来てくれたのか? まったく、もう来ないって思ったよ……」
ドアが完全に開いたところ、教師と教え子の二人は互いの目を見つめ合った。池は一瞬、目を疑った。
目の前に立っているのは、彼が長い間待ちわびていた医師たちではなく、大学時代、彼を丁寧に指導してくれた指導教員のリチャード教授だ。
防護服のフェイスマスク越しであっても、池は教授の白髪交じりのあごひげ、少し皺の寄った額、知性あふれる眼鏡、そして大学時代を通じて自分を見守ってくれた温かい微笑みが、一目で分かった。
池は大喜びだった顔をしながら、来訪者の身元を確かめていた。
「先生……? 先生ですか? 本当に先生ですか?」
「安達君、久しぶりだね。君が博士号を取得して以来、これが初めての再会だろう。君は立派な宇宙飛行士になったようだね。先生として、本当に誇りに思うよ。ただ、こんな場所で、こんな状況での再会になってしまい、申し訳ない。」
「こちらこそ謝るべきです。私が今日のような成果を挙げられたのは、すべて先生のご指導の賜物です。ここ最近は任務が忙しくて、先生にお会いしに行けず、本当に申し訳ありませんでした……ところで、先生、どうしてここにいらっしゃるのですか?」
池は分かっていながらあえて尋ねた。
教授は池のベットにやって来て、そっと横のソファに腰を下ろした。
「さぞ基地の方から連絡はあったでしょう。私が何かあったと……」
「本当に申し訳ない、安達君。万象国宇宙局と陽の国宇宙研究所の両方で要職を兼任している私は、ガンマ線バーストの情報をいの一番に入手したとはいえ、このような緊急事態にあたって、自国の宇宙飛行士の安全を最優先せざるを得なかった。そのため、君たちに情報を迅速に伝えることができず、君が避難する時間も十分に確保できなかったのだ。」
「先生のせいではありません。責めるなら、ろくに情報交換すらできない源文国の連中を責めるべきでしょう……」
池は平然と背もたれに寄りかかり、生死を悟ったような顔をしていた。何と言っても、恩師を本当に責めるわけにはいかないのだ。様々な偶然や人為的なミスがすべて自分に降りかかってきたのだから、運命によってこの災難が定められていたとしか言いようがない。
「これこそが宇宙飛行士の運命なのかもしれません。いつか命を落としてしまう覚悟は、多少なりともできていました。少なくとも宇宙で孤独に死ぬよりマシです。ですから先生、私のことを悲しまないでください。家族への連絡は、適切なタイミングでお願いできますか? 私にはどうしても口に出せなくて……」
「希望を捨てないでほしい、安達君。君の検査結果については、君に知る権利があると思う。」
「もうどうでもいいことです。どんな結果であろうと、結局は同じことですから。」
「そうじゃない。これまで人類はこの分野に関する知見があまりにも乏しかった。研究対象となる症例が十分に存在せず、最も代表的な例といえば、かつての原子力事故と、ごく限られた数の核兵器被害者だけだ。それだけでは統計学的な意義はほとんどない。だから……」
「先生の言いたいことが分かります。今の私はまるで実験用モルモットみたいに、研究の対象にされているんですよね? 私っていう出来合いのような症例がめったにないことは、よく理解しています。」
教授は立ち上がり、ベッドの周りをそわそわと歩き回りながら、どうすれば池の気持ちを落ち着かせられるか悩んでいるようだった。
「そういう言い方を否定できないが、希望がまったくないわけじゃない。人間の細胞がこれほどの量の放射線を浴びた場合、一体どのような方向へ変化していくのか、誰にも断言できない。人類の歴史上、このような前例がないからだ。過去のわずかな事例に基づいて経験則的な判断を下すだけでは、厳密さに欠けると思う。正直なところ、君の体には非常に特殊な変化が起きている。この変化が果たして君の命を奪うことになるのか、それとも良い方向へと進むのか、私たちには分からない。だからこそ、希望はまだ残っている。そして、私たちにできることは、観察を通じて最終的な結果を確認することだけだ。」
池に真剣な口調で語り終えると、教授は足を止め、池のベッドの前に立ち、温かな微笑みを彼に向けた。
「君が卒業して以来、私が君に説教をしたのはこれが初めてだろう。今、私にできることは多くはないが、この希望を必ず君と共に守り抜くのだ。」
池は涙で目が潤んできた。
「本当にありがとうございます、先生……先生の教え子になれてよかったです......」
「私も、君のような優秀な教え子がいてくれて光栄だ。」
教授は身をかがめて昇を抱きしめ、背中を優しく撫でながら慰めた。池は教授の肩に頭を預け、涙が教授の防護服を濡らした。
「ゆっくり休んで、池。」
立ち去ろうとする教授はドアのほうへ歩き出した矢先に、池の質問に足を止められた。
「そういえば、先生、私の体……具体的にどんな変化が起きてるんですか?」
「えーと、それは一言では説明しきれないんだ。これまでにない、まったく新しい変化だから……」
教授はやっとのことで池の質問を言い紛らした。何しろ「生物学的に言えば、君はもう人間とは言えず、生物ですらない」といった、まるで辱めるような言葉を昇に伝えるわけにいかず、しかもそうすれば、彼に不必要な心理的負担をかけてしまうからだ。
「全く新しい……変化?」
「医者がすぐに来るはずだ。私はこれで失礼する。」
教授は、外の廊下へと向かい、池の視界に消えていった。




