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第十四話 嵐の後の日常(1)

 もう二度と自分の部屋に戻れないと思っていた僕は、今その部屋のドアの前に立っている。ふかふかで寝心地よいベッドが自分を待っていると思うと、体の疲れが一気に和らいだ。閉まっていたドアを開けると、部屋は先日家を出た時と変わらず、きれいに整えられている。パソコンや、普段読んでいる科学雑誌や宇宙関連の本、窓辺に置かれた小さな鉢植えのツツジ、そしていくつかの小さな置物など、すべての物が元の場所にきちんと置かれており、誰かに触られた形跡はない。空気中にはほんのりエアフレッシュナーの香りが漂っているが、その香りは、文緋が家でアロマパーティーを開くたびに漂い、吸うと眩暈がするあの強烈な匂いよりも、気分をずっと爽快にしてくれるものだ。


 2ヶ月も経ったのに、自分の部屋がこれほど住みやすい状態を保てているのは、間違いなく文緋のおかげだ。とはいえ、どこからの家政婦か誰かを呼び寄せて掃除してもらったからこんなにきれいになったんだと信じた方が、僕には納得がいくのだが……まあ、いずれにせよ彼女には感謝しなければならない。だって、アイツは普段からかなり忙しいのに、時間を割いて僕の部屋の掃除をしてくれるなんて、簡単なことじゃないのだから。


 部屋に入り、ドアを閉めた後で、クローゼットの中にきちんと畳まれてあった服の中から、普段着のパジャマを取り出し、手際よく着替えた。カーテンをしっかりと閉め、それからこの快適で大きなベッドに倒れ込んだ。さすが、これこそが人が寝るためのベッドだ。この間、病室に閉じ込められていた間に寝ていた、いわゆる「高級特製ベッド」は、枕と布団が一つずつあるということを除外すると、全然ベッドとは呼べないものだ。強いて言えば、その寝心地は工場の工作機械などの上で寝ているのとほぼ同じものだ。


 慣れたマットレスの柔らかさ、慣れた枕の高さ、慣れた布団の香り――眠りにつくのに大いに役立つ要素がすべて揃っている以上、さらに体も疲れ果てているのだから、立ち所に眠りにつくのも当然のことだ。


 ごく普通の睡眠だった。以前隔離されていた時に見た「全身の異常細胞に猛烈に追われる」というような荒唐無稽な悪夢もなければ、精神状態の悪化によって睡眠の質が著しく損なわれることもなかった。ただの昼寝に過ぎないが、この1ヶ月で最も深く、安らかな眠りだった。今やマグニチュード8の地震が起きたとしても、絶対に目を覚ますことはないだろう。


 目を開けると、屋内も屋外も相変わらず静まり返っていた。まだ眠たそうな目で、カーテンの隙間から差し込む微かな光がだいぶ薄くなっていることに気づき、もう時間がかなり遅くなっているのだとすぐに意識した。


 僕はだらりと体をひっくり返し、ベッドサイドの小さな時計を見ると、もう午後5時43分だと分かった。いつの間にか5時間ほども寝てしまったのか……少し寝すぎたようだ。昼寝をしすぎると、今夜は眠れなくなってしまうだろうか?


 不眠の夜になりかねないとベッドで悩んでいると、お腹から聞こえてきた激しい「グーグー」という音が、僕の憂いを吹き飛ばしてくれた。そうだ、昼ご飯を食べていなかったし、朝食もあまり食べていなかった。もうすぐ夕食の時間だから、お腹はとっくにペコペコだ。


 文緋は午後、事務所へ歌のレコーディングに行くって言ってたよね?家の中がこんなに静かなのは、まだ帰ってきていないに違いない。アイツがいつ帰るか分からないということは、夕食は自分で何とかするしかないということだな……

 

 僕はあくびをしながらベッドから降り、スリッパを履き、そして何か食べるものを探しに階下のキッチンへ行くつもりだ。部屋のドアを開けて外に出ようとしたところに、つま先で何かを蹴ったような感じがした。俯いて見ると、部屋の外の床に普段食事に使っているトレーが置かれており、その上の皿には、卵サラダと鶏の照り焼きをたっぷりと挟んだ全粒粉パンのサンドイッチが2つ並んでいる。それぞれに可愛らしい小さな旗が刺さっていて、ファミレスの料理のような雰囲気がたっぷりだ。お皿の周りには飾り用の野菜も添えられている。このサンドイッチは具材がぎゅうぎゅう詰まっているだけでなく、盛り付けにも工夫が凝らされている。その横には果物が入っている小皿とグラス一杯の氷入りの水もあり、見た目からして栄養バランスがよく整っている。


 ひもじい僕はこの極上の料理を前にすると、口の中によだれが溢れ出し、胃の神経から脳の摂食中枢へと、大波のように食欲が駆け巡っていく。端的に言えば、頭の中は「早く食べたい」という考えでいっぱいだ。


「いい匂い~~~文緋ってご飯を残してくれないって言っといたのに、結局はこんな美味しそうなサンドイッチをちゃんと作ってくれたじゃない~~~さあ、いただきます!」


 待っていられない僕はトレーを持ち上げ、階下のダイニングテーブルで食べようとした。その途端、トレーの下に一枚の紙が敷かれているのを発見した。何かが書かれているみたい。マジか、文緋直筆の献立表まで添えられているってあり得る?そうだったら完璧すぎる!執事やメイドでさえ、これほど用意周到にするわけねーだろ!


 その紙を取り上げて、書いてある文字を読むと、確かに文緋の筆跡だとすぐ分かった。ただ、内容は僕が想像していた晩ご飯の献立ではなく、こんなものだ――


「この調子だとあんたが夕食の時間まで寝てしまいそうだし、昼食も食べないって言ったし。午後の仕事は時間がかかりそうで、家に帰れるのも夜遅くになりそう。だから夕飯を作ってあげる余裕がないの。お兄ちゃんが帰宅早々部屋で飢え死にしないように、アタシの昼ご飯をあげるわ~~これを夕飯代わりに食べてね~」


 文緋は空腹のままでも、自分の昼食を僕に譲ってくれたなんて……まさにこの世で最高の妹だ!兄として、お前を可愛がってきた甲斐があったよ……文緋のあふれるほどの思いやりに胸を打たれ、涙もろい人間みたいに涙が止まらなくなってしまった。


 感動すべきかと思ったら、抜群の視力を頼りに、その紙の一番下に、ごく目立たない小さな文字が一行書かれているのを鋭く見つけ出した。見たところわざと小さく書かれたようだ。


 そこにはこう書いてある――


「このサンドイッチを作る前に、アタシが外のごみ箱を素手で掃除したことを気にしないなら、全部食べきってね~ 絶対に無駄にしないでね~」


 この文字を読み終えた瞬間、さっきまで文緋の心遣いへの感動は、さっと不快感へと変わり、吐き気が胃の奥から喉元へと込み上げてくる。


「こいつ、きっと兄が長生きしすぎると思って、俺を毒殺して家を奪おうとしてるんだな……あんなに感動して損した!」


 が、心理的な抵抗は結局のところ生理的な欲求には敵わない。人というのはやはり食事しなければならない生物だから。空腹で頭が回らなくなれば、どれほど不潔なものでも平気に、がっつりと食べられるものだ。たとえ文緋が本当に手を洗わずにこのサンドイッチを作ったとしても、「見ぬもの清し」という諺の通りに、その過程を見ていなければ、何もなかったこととして、意を決して食べ切るのはそれほど難しいことではない。それに、食べ物自体も罪はない。どの食べ物も自然の恵みであり、残さずきれいに食べ尽くすことこそが、自然への敬意だからだ。

 

 僕はため息をつき、階下のダイニングテーブルに着くと、「これくらいなら死にはしない」という固い信念を抱きながら、サンドイッチを矢継ぎ早に頬張った。


「めっちゃうまい……鶏肉は焼き加減が絶妙で、冷めても表面はサクサクした食感が残っているし、卵も柔らかくてしっとり。自家製のソースも見事に効いてる。ただのサンドイッチなのにこんなに美味しいなんて、さすがアイツの腕前だ!」

 

 文緋の長所の中で、歌の才能に匹敵するのが、その上手な料理の腕前だ。以前、僕が家に帰るたびに、彼女が手作りの絶品料理を振る舞ってくれたものだ。そういう理由で、文緋を家に泊めておくのも悪くないと思っている。まるで無料で専属シェフを雇って料理を作ってもらっているようなものだ。それに、美味しい食事には心を癒す力があると言われている。道理で長い宇宙旅行で蓄積された疲労やストレスも、家に帰って文緋の作ってくれた美味しい料理を口にすれば、それらが大幅に和らぎ、精神状態も活気づくわけだ。比喩的に言うと、仕事から帰った夫が、妻が作ってくれた夕食を食べるような場面で、あの幸福感が自然と湧き上がってくるのだ。ところで、よもや彼女がこっそり食事に興奮薬か何かを混ぜている可能性なんてないだろう。


 もちろんこれは冗談だし、私たちは血の繋がりの兄妹であって、長年連れ添った夫婦なんかじゃないからね。


 とはいえ、いつか文緋が歌手を引退することにしたら、どこでレストランを開いても大人気になるだろうし、ニシュランの三つ星を獲得するのも朝飯前だろうね。


 あまりにもお腹が空いていた上に、サンドイッチがあまりにも美味しかったので、あっという間に全てを平らげてしまい、危うくお皿を持ち上げて舐め回すところだった。文緋が本当に手を洗っていなかったかもしれないということは、既に綺麗さっぱり忘れてしまった。


「お腹いっぱい~文緋の料理を食べるのは久しぶりだけど、相変わらずうまいね!まあ、ゴミ箱を素手で片付けた後にサンドイッチを作ってくれたなんて、きっと冗談だろう?」


 食事が終わってからそのことに気づいたなんて、ちょっと鈍感すぎた。待てよ、何かおかしい。まさか文緋、僕がゴミ箱に捨てた髪の毛を本当に見に行ったのか?


「本当に俺の言葉を信じてくれないのか……せめて俺が何も変わらないって信じてほしい。」


 皿や食器を洗い、台所を片付け終えた頃は、すでに午後7時過ぎだった。特にやることもないので、僕は居間のソファに座り、つまらないテレビ番組を見ながら時間を潰していた。その時、ニュースで朝月テレビが下田勝聡氏への独占インタビューを放送しているのを見た。そこでは、彼がどうやって2年未満の間に虎視島宇宙センターをこれほど秩序正しく管理しているか、などといった個人的な功績が宣伝されている。インタビューの日時は5月11日と表示されていた。つまり、僕が隔離病室に閉じ込められ、苦痛に耐えていた時期に受けたインタビューだったのだ。


「ここ数年、虎視島宇宙センターは各方面で飛躍的な進歩を遂げ、完成した宇宙探査プロジェクトの数や採取したサンプルの量はいずれも世界上位3位に入っています。また、若年で名声を博した天才宇宙飛行士・安達池をはじめ、多くの優秀な若手宇宙飛行士を育成してきました。広大な宇宙における彼らの探求がなければ、虎視島は今日の成果を成し遂げることはできなかったでしょう。お陰で陽の国の宇宙開発事業の発展に多大な貢献を果たしています。さらに、従業員の福利厚生の向上や労働環境の改善といった個人待遇の面でも、多くの調査を行い、一連の施策を打ち出しました。その目的は、宇宙飛行士であれ地上スタッフであれ、虎視島のすべての職員が仕事を通じて自己実現を図り、より一層全身全霊で宇宙事業に励むようにすることにあります……」


「またあのクソ野郎か。あんな大事故を起こしたのに、テレビで俺の名前をいけしゃあしゃあと口にしたり自画自賛したりするって、恥知らずにもほどがある!」

 

 テレビ画面の中で、下田が得意げに語っている姿を見ると、僕は履いているスリッパを掴んで画面に投げつけたい衝動を必死に抑え、すかさずリモコンを手にしてチャンネルを変えた。おかげで、罪のないテレビは難を逃れることができた。案の定、今回の事故に関する報道は一切なし、情報は相変わらず完璧に封鎖されたままだ。真実が明らかになる日は、一体いつになるのだろうか。


 まあ、とりあえずは成り行きに任せるしかないか。スマホを見てみよう。例えば雑誌『スターナビゲーション』のSNSアカウントに、最新の宇宙関連のニュースが載っていないかチェックするとか。


 スマホの画面を点灯させた矢先に、午後2時18分に届いた銀行口座への入金通知が表示されているのに気づいた。一体誰か僕の口座にお金を振り込んでくれたのか?疑いながらメッセージを開くと、送金元の口座名義が、普段給料が振り込まれるのと同じ「虎視島宇宙センター専用口座」だと書いてあった。これを見ただけで、このお金の用途はほぼ推測がついた。帰宅前に下田と話し合い、補償として支払われることになったあの「口止め料」だ。しかし、その金額には大いにびっくりした――

 

「一、十、百、千、万、十万、百万、千万……1億新青ドル!? いきなり億万長者になっちゃったわけ???」


 これはこれは......僕は月給が確かに高くて、約120万新青ドルの金額は間違いなく中流階級以上の収入レベルですが、それでも僕の約83ヶ月分、つまり7年分の年収に相当するこの巨額の富を目の当たりにすると、やはり興奮せずにはいられなくなる。だって、普通のサラリーマンなどの労働者階級の平均月給である15万~30万新青ドルを基準に計算すると、少なくとも28年は働き続けなければ、これだけの金額は稼げないんだから。この家を買い取ったのは1100万新青ドルちょうどだったっけ。これで一気にこのタイプの家を10軒ほど投資用として追加購入し、堂々と不動産業界に進出できるわけだ。ちなみに、新青ドルは陽の国の公式通貨だ。


「下田は紛れもないクソ野郎だが、気前は確かにいい……少しは彼に感謝すべきなのかもしれない……いや、なんで俺が彼に感謝しなきゃいけないんだ? あいつのせいで死にかけたんだ!この程度の補償は当然のことじゃないか?もし今後、俺に何かあったら、1億どころか100億あっても、俺の健康や命を取り戻すことなんてできないだろう!」


 そうだ、まずはこの金を平然と受け取ろう。だって、これは僕が当然受け取るべきものだからだ。後で機会があれば下田と決着をつけるつもりだ。たとえ一夜にして大金持ちになったとしても、目立たず、控えめに振る舞うべきだ。特に文緋の前では、成金という人間特有の、金に汚い振る舞いを決して見せてはならない。さもないと、また彼女に「何か変な感じがする」と思われてしまうだろう。このお金はしっかり貯金しておこう。そうすれば、将来、文緋や両親に何か必要なことがあっても、十分な軍資金を出すことができる。とにかく、株や為替取引などのハイリスクな投資には絶対に手を出すわけにはいかない。投資や資産運用に関しては、僕は徹底した堅実派だからだ。もし文緋が新しいオーディオ機器などを買おうとしたら、アイツ自分のお金で買ってもらえばいい。家のガラクタはもう頭が痛くなるほど溜まっているし……

 

 退屈でたまらなくなった僕はお風呂に入ることにした。心地よく入浴を終えて浴室から出てくると、文緋がすでに帰宅していた。普段外出する時によく着ている地味な普段着姿で、ぐったりと膝を抱えてソファに座り、テレビで再放送されているアイドルの握手会を見ていた。壁にかかっている時計に目をやると、もう夜の9時46分だ。


「あ、お帰り。こんなに遅くまで、きっとくたくただろう?」

「別に。イベントやライブに出るのに比べれば、今夜は早めに戻ってきた方だ。」

「でも、一晩中大規模なライブをやった時よりもずっと疲れるように見えるよ。これは珍しいな……だって、以前は数十曲だって何の苦労もなく一気に歌い切っていたじゃないか。」

「そ……それはある人のせいだよ。」

「ある人って誰?俺の知り合い?きっと、あのエネルギー過剰なマネージャーのせいだろう?毎回あんなに仕事を詰め込んでるんだから、このままじゃいずれ倒れちゃうよ!」


 なんだか自分の経験と似ている気がする。どうやら、どんな業界にも部下を使い捨てのように扱って、こき使う業界の害悪が存在するらしい……誰のことを言っているか、お分かりだろう。


「違う……」


 文緋は、僕の正義感あふれる直言を遮ろうとしたが、声が小さすぎて全く聞き取れなかった。


「こんなに若いのに、悪徳業者に搾取されたり、酷使されたりしてるなんて。時間を見つけて、お前の事務所にしっかり抗議してやるぞ。絶頂期だからといって、金蔓のように扱われていいわけじゃない。ひどすぎる…… 」

「違――う――よ――!!! 勝手に梢ちゃんに濡れ衣を着せるんじゃない!」

 

 文緋は深く息を吸い込み、普段歌で高音を出す時のような大きな声で叫び出した。僕が勝手にしゃべり続けていたのが悪いのだ。


「あのマネージャいのせいじゃないのか?彼女以外に誰が該当するか……」


 僕は顎に手を当てて考え込んだが、この問題は実に複雑で、まるで数学の難解な予想と並ぶほどで、僕の超高知能の頭脳でも答えが思いつかない。


「あんたしか該当しないんじゃ!このバカ兄貴……」

「えーーーーー!!?俺のせいなのか???」


 自分の耳を疑うように驚いた後、僕は茫然として文緋を見つめた。その驚きは、「地球型惑星以外、生命が存在する惑星が発見された」というような爆弾級のニュースを聞いた時にも劣らないものだった。


「全部あんたのせいだよ。あんた以外誰がいるっていうの!」

「冤罪だ! 午後はずっとぐっすり寝てただけだ!何もしてなかった! 俺に何の関係もない!」

「だって……だって……だってあんたが……」

 

 母の舌が回る属性を受け継いだ文緋だったが、今に限って言葉に詰まり、まともな話を一つも口にできず、頬は真っ赤になっている。一体どんな言葉がそこまで言いづらいか?


「なんで急に口ごもりだしたんだ……『あんたが』って、はっきり言ってみろよ。無実の人間を疑うのにも限度があるだろう! 昼食を譲ってくれたことには本当に感謝しているし、ちゃんと礼を言おうと思っていたのに、まったくもって理不尽な話だ!」

 

 これまで彼女が何を言ってもずっと素直に聞き入れ、どんなに理不尽なことをされても決して怒らなかった。たとえ自分の過ちでなくても、進んで、喜んで、背負うべきじゃない責任を背負ってきた。だが、今日という今日はなぜか感情に流され、少し責めるような口調で、珍しく文緋に大声で詰め寄ってしまった。


「冤罪じゃない!あんたの昼食のせいじゃないか!」

「それが昼食と何の関係があるの? 言いたいことがさっぱり分かんない……」

「頭がいいくせに、どうしてこんな簡単なことさえ分からないの? わざわざ言わさせなきゃいけないなんて、本当に鈍感で、朴念仁なバカ。まったくもう……」と、文緋は小声でぶつぶつと呟いた。僕にこの愚痴を聞かせたくないようだった。


「ん? 何か言ってるのか? よく聞こえないんだけど、一体俺の昼食とどう関係があるんだ? 頼むからちゃんと説明してくれよ!」

「分かった。ちゃんと言うんだ。だって……だって、あんたは勝手に帰ってきて、家に残った食材じゃ二人の分には足りなかったから、アタシの昼食をあんたに譲るしかなかったんだ。理由は、トレーの下のメモにちゃんと書いてあるだろ。帰ってきたらすぐにあんたの屍を始末しなければならなくなるのはごめんだ。」

「一食抜いたくらいで死ぬわけないだろ……わざわざ譲ってくれてありがとう。でも、なぜそれが俺の罪になるのか、未だに説明してないよ。」

「切った髪をちゃんと片付けずに、そのままゴミ箱に放り込んだのが悪いんだ! 本来なら時間はたっぷりあったのに、ゴミ箱の中の髪を片付けるのに時間がかかりすぎて、料理を済ませて出かける準備ができた時にはもう1時40分過ぎだった。午後2時にはレコーディングスタジオに約束の時間通りに着かなければならないから、遅れないようにタクシーで行くしかなかった。コンビニでお弁当でも買う時間さえなかったんだ……」


 文緋がそこまで説明すると、僕の天才的な頭脳はほぼすべてを理解した。つまり文緋は僕のせいで、お腹が空いたままで午後いっぱい歌い続けたっていうこと……それどころか、午後2時から夜9時まで、その間の短い休憩時間や歌の合間などを除けば、6時間も歌っていたわけだ。長時間空腹のままあれほど長く歌い続ければ、たとえ強靭な体を持つ文緋でも、疲れ果ててしまうだろう……


「それじゃあ……スタジオで何かスナックとか、小腹を満たすものとか探さなかったのか……?」

「バカ、スタジオにそんなものあるわけないだろ。それにスタジオ内は飲食禁止だし、控え室だって飲み物くらいでしか間に合わせなかった。でも、レコーディング中にトイレに何度も行ったらみんなの邪魔になるから、水もほとんど飲んでなかったんだ。歌ってたら喉が紙やすりみたいに乾いちゃって、お腹も……すごく減ってた……」


 文緋は思う存分歌を歌えるようになるために、自分の年齢にそぐわない苦労や重労働を耐えてきた。歌手の道で彼女が払った努力は、僕が宇宙飛行の夢を実現するために費やした努力に決して引けを取らない。


「夕食は?夕食は食べたのか!ちゃんと食べたのか!夕食はしっかり食べなきゃだめだ!」


 僕は思わず焦り出し、文緋に執拗に問い詰めた。彼女が今でもまだ一粒も食べていないのではないかと心配でたまらなかったのだ。


「ほら、あなたの足元にあるじゃないか。その臭い足で踏まないでね。」

 

  文緋にそう言われて初めて気づいた。足元に近いところに、つまりソファの横の床に、家付近の「Household Mart」というコンビニのビニール袋が放置されており、中には空っぽの弁当容器が二つ入っている。袋からレシートを取り出すと、文緋が買ったのはインスタントカレーライス弁当とインスタントポテトサラダ一個ずつだった。電子レンジで「チン」と温めるだけで食べられるインスタント食品で、しかも夜8時過ぎの特売で、合計でたったの145新青ドルだけだった。


「まったく、こんな栄養のないものを食べるなんて……」


 口では文緋に小言を言っていたが、心の中では思わず彼女を気の毒に思っていた。ちゃんと食事をしないと、遅かれ早かれ体を壊してしまうだろう......もちろん、家に帰るなり「昼食は食べない」と言った僕のような人間には、文緋に説教する資格などないのだ。


「帰り道に買ったんだ。家に着いたら、まずお風呂に入って、それから食べようと思ったんだけど、お兄ちゃんが浴室いそうな音が聞こえてきたから、お腹がペコペコで我慢できなくて、先に食べっちゃった。っていうか、あんたお風呂長すぎ!」

「なんでここにほったらかしたんだ?食べ終わったら捨てなきゃいけないだろ。」

「だって……食べ終わる直前に、あんたが浴室から出てくるのが聞こえて……こんなものを食べてる姿を見られたくなかったんだ。見られるとぶつぶつ言うおばあさんみたいに説教されちゃうし、捨てる時間もなかったから、一応そこに隠しておいたんだ。」

「そんなことしたら、余計に説教したくなるんじゃ……」

 

 僕は嘆きつつ、ビニール袋を外のゴミ箱へ捨てに行ってくる。蓋を開けて中身が視界に入ると、文緋が言っていた通り、ゴミ箱の中は本当にきれいに掃除されていて、僕が捨てた髪の毛の痕跡は皆無だ。しかもこの新品のようにピカピカになったゴミ箱の内側から、ほのかに漂ってくる洗剤の香りまでがする。咄嗟に、胸が締め付けられるような気分になった。文緋は今日、僕のためにあれほど多くのことをしてくれたのに、さっきは彼女にむやみに怒りをぶつけてしまった……兄失格だと言われても、口答えする権利もない。


 面目次第もない僕は台所に戻って手を洗い、そして居間に入った。文緋に何か言おうと思っていたのだが、なぜか気後れして言葉が出なかった。以前は文緋に謝るのがすっかり習慣になっていたのに……そのせいで、逆に文緋に先を越されて話しかけられてしまった。


「ゴミ箱を見れば、アタシが嘘をついてないってわかるでしょ~?経緯をありのままに全部話したんだから、これで満足?ねえ、このすべては誰のせいなの~~~?」


 文緋はいたずらっぽく可愛らしい口調で問い返し、僕が彼女に謝罪するのを期待している表情で待っている。その表情は少し間抜けで、まるで甘えているようにも見えた。やはり彼女は、さっき僕が彼女に怒鳴ったことなど、全く気にしていないようだ。これほど愛おしい妹を前にして、誰もが喜んで自分の過ちを認めるに決まってる。兄としてのプライドや面目は、もはや何の価値もない。


「あ、あの……さっき誤解してしまって悪かった。ゴミ箱を片付けてくれたのに、お腹空いたままで僕に昼ご飯を譲ってくれたのに、僕はかえってあんなに大声で......本当に最低な兄だ!ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!!」


 僕は文緋に向かって90度を超えるお辞儀をした。頭が床から30センチも離れていないほど深く頭を下げ、テレビで見る有名人の公開謝罪時のせいぜい45度のお辞儀よりもはるかに誠意が込められていた。土下座寸前だった。これほど必死に謝れば、文緋もきっと許してくれるだろう。


「え? 何言ってるの、大声でって。そんなこと、全然覚えてないんだけど~~~」

「文緋……それって……」

 

 文緋の反応は少し予想外だったが、彼女の意図は理解できた。僕に逃げ道を与えてくれているのだ。まさか彼女にこんな思いやりのある一面があるとは。


「もういいよ、そこで深々とお辞儀なんてしないで。腰が痛くならない?」

「あ……ああ、わかった。じゃあ、お休み……」


 文緋は鼻歌を歌いながら、軽快な足取りで浴室へと向かった。さっきまでの元気がなく疲れた様子は、すっかり搔き消えた。僕は背筋を伸ばして、嬉しそうな文緋の姿を見送り、心が随分安らぎを感じた。


 いや待って、もう一つ、とっても気になっていることがあるんだ。文緋にちゃんと伝えなきゃ! そうしないと、一生の悔いとして心に残ってしまう!!! 今言わなきゃ、一生言えないようになるのだ!


「ちょっと待って、文緋!」また無意識に大声で文緋を呼び止めてしまった。さっきそんな真似に対して謝ったところじゃないか?

「またそんなに大声で! びっくりしたじゃない!」

「ごめん、ごめん。でも、もう一つ言いたいことがあって……お願いだからちゃんと聞いて。すごく大事なことだから、頼むよ!」

「そんなに大事なの?そんなに真剣な顔して、今言わなきゃいけないの? 明日じゃダメ?」

「今はっきり言わなきゃ、今夜は一晩中眠れなくなっちゃう!」

「そんなに深刻?それなら……それなら早く言ってよ、聞いてるから。」

 

 文緋は振り返り、頬がほんのり赤くなり、少し緊張した様子で、僕がこれから言う言葉に全く心の準備ができていないようだ。彼女は何か誤解しているのだろうか……


「あの……ちょっと聞きたいんだけど、お前は午後……いや、お昼頃、ゴミ箱を片付けた後、俺にサンドイッチを作ってくれる前に、手を……ちゃんと……洗った?」


 言葉が終わるやいなや、空気が気まずさに包まれた。


「そんなに改まって、結局聞きたかったのはそれだけだったの……?」

「だって、だって、お前のメモに書いてあった文字、見ちゃったから、聞いてみたかっただけ……まあ、大丈夫だよ、手を洗ってなくても気にしないよ。どうせ食べちゃったし、俺はまだ元気に生きてるし、ハハハ~」

「当たり前じゃない!!!自分で判断しなさい!!!救いようのないバカ兄貴!!!」


 と、怒鳴った途端、文緋はむっとして振り返りもせず浴室へ入っていき、勢いよく浴室のドアをバタンと閉めた。まだ何が起きたのか理解できていない僕は、ただ呆然と立ち尽くしていた。


 結局、この長い一日は、最後には文緋を怒らせてしまったのか……?


 まあいいや、歯を磨いて寝る準備をしよう。虎視島から帰ってきて最初の日は、こうして終わった。


 同時に、浴室で、文緋は湯船に静かに浸かっている。入浴剤を加えたお湯は鮮やかなピンク色に染まり、文緋の美しく透き通るような顔立ちを引き立てていた。お湯に浸かっているにもかかわらず、その均整の取れた体のラインがうっすらと浮かび上がっていた。入浴剤の芳香が絶え間なく立ち昇る湯気と共に浴室全体を満たし、心身ともに和らげている。文緋は以前から、このような環境で入浴するのが好きだった。一日の仕事の疲れをしっかりと癒やしてくれるからだ。しかし、今日は少し様子が違っている。今、文緋の微かに紅潮した顔には、些か重々しい表情が浮かび、独り言を呟いていた。


「普段、アタシに怒ったりしないお兄ちゃんが、さっきあんなに大声で怒鳴ったなんて……。謝ってはくれたし、アタシも彼の前では何事もなかったように振る舞ったけれど、今思い返すと、あの時、目の前のお兄ちゃんが本当に見知らぬ人のように感じられた……。お兄ちゃんは、本当に以前とは違うの? そんなはずない、そんなこと、絶対にあり得ないよね?」

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