パン屋の娘
夜の街を、ただひたすらに走り続けた。
どれだけ走ったのか分からない。
路地を曲がり、人気のない道を選び、ただ追手から逃げることだけを考えていた。
「……はぁ……っ、はぁ……っ」
息が荒い。
喉が焼けるように痛い。
そして——腹が鳴る。
「……そういえば、何も食ってねえな……」
逃げることに必死で、何も口にしていなかった。
足に力が入らない。
視界が揺れる。
「……やばいな」
壁に手をつく。
だが、それも長くは持たなかった。
膝が崩れる。
そのまま、地面に倒れ込んだ。
「……はは、異世界来てすぐ野垂れ死にかよ……」
乾いた笑いが漏れる。
(まさか、もう一回死ぬとか……)
そんな考えが浮かんだ瞬間、意識が途切れた。
……ゆっくりと、意識が浮かび上がる。
最初に見えたのは——天井だった。
木でできた、どこか温かみのある天井。
「……ここは」
体を動かそうとすると、少し痛むが、動ける。
生きている。
その実感が、遅れてやってきた。
「気づいた?」
すぐ横から、柔らかい声がした。
顔を向ける。
そこにいたのは——
一人の少女と、その後ろに立つ中年の男。
いや、よく見ると“中年”というよりは、年季の入った職人のような風格だ。
少女がこちらを覗き込んでいる。
「よかった……目、覚めて」
ほっとしたように微笑む。
男は腕を組み、無言でこちらを見ていた。
「……あんたらが、助けてくれたのか?」
声がかすれる。
男が短く答えた。
「道端で倒れてた。放っとけねえからな」
ぶっきらぼうな言い方だが、どこか優しさが滲んでいる。
「この人、私のおじいちゃん」
少女がそう言って、男の腕に軽く触れる。
「このパン屋、二人でやってるの」
パン屋。
その言葉と同時に、鼻に届く香ばしい匂い。
焼きたての、小麦の匂い。
「……パン屋、か」
思わず呟く。
腹が、ぐう、と鳴った。
少女がくすっと笑う。
「お腹すいてるでしょ。あとでパン、持ってくるね」
「……わるい」
礼を言いながらも、頭の中では別のことが回り始めていた。
借金。夜逃げ。行き場なし。
ここを出たら——次は本当に終わる。
「……なあ」
俺は体を起こす。
まだ少しふらつくが、なんとか座れる。
祖父と孫娘、二人の視線がこちらに向く。
「お願いがある」
男の眉がわずかに動く。
「ここで、働かせてくれないか」
静かに言った。
「住み込みでいい。雑用でも何でもやる」
言葉を続ける。
「……給料はいらない」
本当は必要だ。
だが、今はそんなことを言っていられない。
「その代わり、飯と寝る場所だけでいい」
少女が驚いたように目を見開く。
男はしばらく黙っていた。
じっと、こちらを見ている。
「……訳ありだな」
「……まあな」
否定はしない。
できるわけがない。
沈黙が落ちる。
やがて——
「……はぁ」
男がため息をついた。
「うちは慈善事業じゃねえ」
厳しい声。
だが。
「ただ——」
ちらりと孫娘を見る。
少女は、静かに頷いた。
「……一週間だ」
男が言った。
「使えなきゃ追い出す。それでいいなら置いてやる」
「……っ」
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「ありがとう……!」
思わず頭を下げた。
少女が嬉しそうに笑う。
「私、リナ。よろしくね」
「……ああ、俺は…コウ、だ」
ようやく、少しだけ現実に足がついた気がした。
こうして俺は——
借金1000万ルピーを背負ったまま、
パン屋の見習いとして、
異世界での生活を始めることになった。




