俺の築いた安心安定の生活と、それが崩れ去る日 2
「うわああっ!! あああああっ!!」
盛大に後ずさり、背後にある壁に頭を打ち付ける。その痛みに構う余裕すらなかった。
「なんだよお前! なんで俺の部屋に──」
目の前にいる男の唇も、まるで俺が言ったのと同じタイミングで動いている。
手も、俺と同じように頭を押さえていた。
そうか、ここ。洗面所。ってことはこれ……鏡、なのか?
信じられない気持ちで鏡に近づき、触れる。
眼前にいる男もやはり、俺と全く同じように鏡に触れている。
恐る恐る顔を触る。自分の顔を触った感覚が、掌と頬にやってきた。
頬を思い切りつねってみる。当然のように痛かった。
痛いってことは、これは夢じゃないのか?
ぱっちりとした黒い瞳が、心底驚いたように俺を見ている。
幼さの残る顔だ。髪も真っ黒で、学生らしいマッシュヘア。高校生、いや、中学生くらいだろうか。全く見覚えがない。
「誰だよ、こいつ」
改めて周囲に目を向ける。よく見たら、俺の家の洗面所と全く違っていた。
ここは、こいつの家なのか?
廊下に出る。古い家屋なのだろうか。
踏みしめるとギシ、と床が軋んだ。
こいつ以外、誰もいないのだろうか。随分と静かだ。
……これは夢だ。そうに違いない。
状況があまりにも意味不明すぎるからだ。夢とは得てしてそういうものだ。
さっきぶつけた頭がズキズキと痛むけど、触覚、嗅覚、視覚、聴覚、すべての感覚がリアルに伝わってくるけど。
これはきっと、『そういう夢を見ている』というだけのこと。
目が覚めてしまえば、ああ、俺はなんておかしな夢を見たんだろうって寝汗を拭くんだ。そうに違いない。
そう自分を納得させようとした所で、早鐘を打ち続ける鼓動は落ち着きやしない。
とりあえず、外に出よう。そうすれば目が覚めるかもしれない。
わけも分からぬまま、抜き足、差し足廊下を歩く。
夢って割と何でもありだしな。
ゾンビとか出てきたり、急に床が抜けて、真っ逆さまに落っこちたら……たまったもんじゃない。
最悪の事態が次々と脳裏をよぎり、息を押し殺しながら、身構えながら玄関へと向かう。
たった数メートルの廊下をたっぷり時間をかけて渡りきり、結局何事もなく、玄関にたどり着いた。
玄関の前に、二階に上がる階段がある。
どうやらここは、木造の古い一軒家のようだ。
玄関にはスニーカーと大人用の革靴が一足ずつあった。
こいつの足だと、多分スニーカーがいいだろう。
置いてあったスニーカーを履き、引き戸の扉を開けようとした瞬間、
スウ、と嫌な匂いが急激に鼻をつく。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
自覚した途端、それは全く無視できる範囲を超えた強烈な匂いであり、そして『決して良くない事が起こった時にする匂い』だということを、瞬時に理解する。
ああ、駄目だこれ。振り返ったら、絶対ヤバいやつ──。
全身が警鐘を鳴らしている、なのに、頭を起点に身体が、まるでそちらに引っ張られるように振り向く。
その視線の先、麻でできた暖簾が掛かっている中──ダイニングテーブルがちらりと見えた。
家の構造的に、キッチンなんだろう。
ドクン、ドクン、心臓が強く鼓動し、『その先』へと、視線も意識も釘付けになっていく。
夢とは自分の思い通りにいかないものであり、『悪夢』とは、見ている者を非情に、理不尽な程の恐怖に陥れる。
意志と反して、俺の身体は立ち上がり、そちらへと歩きだしていた。
駄目だ。進むな。止まれ。止まれ!
どれだけ頭の中で願おうが、叫ぼうが、俺の歩みは止まらない。
しかし恐怖心とともに、好奇心が膨れ上がっていくのも事実だった。
だってこれは夢だ。
もしこの先に何があろうと、『何が転がっていようと』、目が覚めてしまえば俺には、全く関係ないのだから。
張り裂けそうな鼓動と息を潜めながら、生活臭の染み付いた暖簾をくぐる。
さっきした嫌な予感が、寸分違わず一致したまま、俺の眼前に展開されていた。
さっきは死角になっていて見えなかったダイニングテーブルの向こう。
そこは──ペンキをぶちまけたように、真っ赤だった。
全身が心臓になってしまったように、鼓動の音が強く振動し、身体中を揺らす。
ガクガクと震える足を進め、ダイニングテーブルの向こうを覗き見た。
床、白い壁、食器棚、全てに赤が散り、鉄臭い匂いを充満させている。
そしてフローリングを染める血溜まりの中心に──男が仰向けに倒れていた。
目を見開いたまま、胸に包丁が突き刺さったまま、血で服を真っ赤に染め、絶命していた。
傍らに、血だらけの塊があった。
見たくもない。認識したくもないのに。
俺の眼球は無意識化で目を凝らす。凝らしてしまった。
その正体は、身体を丸めた犬。
同じように惨殺された白い犬が、毛を真っ赤に濡らし、横たわっていた。
「あ、あっ……うわあああああ! あああっ!」
自分でも情けなくなるような悲鳴を上げなら後ずさり、転んだ拍子に尻もちをつく。
やばい。なにこれ、逃げなきゃ。
四つん這いになって、何とか立ち上がろうとした。
ガタガタと身体が勝手にふるえて、腰が抜けたのか、上手く立てない。
今まで嗅いだことないほどの噎せ返るような血の匂いと、目の前にあるスプラッター映画然とした光景。
これ、本物? ほんものの、したい──死体。
「うっ」
すぐに胃から液体がせりあがってきて、口を押さえる。手遅れだった。
次の瞬間には、喉を伝ったそれが勢いよく口から漏れ出す。
ぶしゃあ、ぼたぼた。
漏れだした生温かい吐瀉物が指の間から溢れ、血だらけのフローリングに落ちていった。
げえ、げえとカエルじみた声が、黄色い吐瀉物と共に喉の奥から出る。
胃の中にある物を全て吐き出し、ぜえぜえと息を切らす。
「なんだよ、なんだよこれ……夢なら覚めろよ。はやく……早く!」
何度か自分の頭を殴ってみる。
まるで現実みたいな痛みがやってくるばかりで、夢が覚める気配は全くなかった。
ガタン。
背後で音がして、勢いよく振り返る。どうやら物が落ちただけのようだ。立てかけてあったらしい掃除機が、血まみれの床に転がっていた。
つーかこれ、もしかして犯人、まだこの家に──。
慌てて息を潜め、周囲を見回す。
シンとしている。人の気配はない。こちらに向かってくる足音もなかった。
あれだけ叫んだのだから、もし犯人が家にいるなら、確実に気づかれているはずだ。早くここを出ないと──。
そこにきてようやく、最初に見た場面を思い出す。
嫌な予感がした。とてつもなく嫌な予感が。
確証を得るために、すごく嫌だったが、恐る恐る忍び寄り、死体を確認する。
表情が壮絶だが、多分顔付きからして、年齢は4、50代くらいだろう。
『こいつ』の父親、なのだろうか。
じゃあ『こいつ』は何故、父親が殺されてるっていうこの状況で、呑気に手なんか洗ってたんだ?
改めて自分の服を見る。下は制服らしき黒のスラックス。上は何故か、洗剤の香りのする白いパーカーだった。
壁を伝ってなんとか立ち上がり、よろよろと洗面所に戻る。
洗面所に設置されている洗濯機。意を決して、中を覗いた。
嫌な予感が、確証へと変わった。
年季の入った洗濯機の中、山積みに詰め込まれた洗濯物の一番上、血がべっとりと付いたワイシャツが入っていた。
あまりにも予想通り過ぎて、はは、と乾いた笑いが出る。もはや笑うしかなかったのだ。
「え、俺、これ……殺人犯じゃん」
呆然と立ち尽くしていると、ピンポーンとチャイムの音が鳴り響いた。
「けいくーん。もう帰ってるん?」
外からおばさんの声がする。『けい』とは、こいつの名前だろうか?
「けいく~ん? おらんの?」
声とともに、玄関の引き戸をトントンと叩く音がした。
キッチンの電気はつきっぱなしだ。出ないと怪しまれるかもしれない。
吐瀉物で汚れた手と顔を急いで洗い、玄関へ向かった。
ガラリと引き戸を開けると、人の良さそうなおばちゃんが俺を見てにこりと微笑む。
手にはタッパーを持っていた。
「けいくん、なんやおるんやんか」
「ど、どうも」
「これ作りすぎてなぁ。よかったら、お父さんと食べてくれへん?」
「……あ、ありがとう……ございます」
必死で笑みを作り、タッパーを受け取る。しかし手の震えは隠しきれなかった。
やばい、止まれ、止まれって。
「……手、どうしたん? 顔色もなんか悪いし……」
言うが早いか、おばちゃんがスンと鼻を鳴らす。
そして途端に訝しげな顔をした。
やばい。ばれる……バレる!
「ご、ごめんなさい!」
居てもたってもいられず、タッパーを押し返し、おばちゃんの横をすり抜けて走り出した。
「ちょっとけいくん!?」
おばちゃんが背後で叫ぶのが聞こえたが、そんなの構っていられない。
やばい、捕まる──捕まる!
見知らぬ住宅街を全力疾走で走り抜ける。
どこへ行けば良いのかも分からない。でも、出来るだけ遠くに──。
拘束、逮捕、懲役、死刑。
頭の中はそんな物騒な単語でいっぱいだった。
がむしゃらに走っていると、いつの間にか駅の前に到着していた。
良かった……これでなんとか逃げられる──。
はぁはぁと息切れしながら、スラックスのポケットに手を突っ込む。いつも入れているICカード入れがなかった。
あ、そっか俺。今、『俺』じゃないじゃん。
焦ってポケットの中やパーカーのポケットに手を突っ込んで探し回る。
ICカードどころか小銭も、スマホすらなかった。
はは、と思わず顔が引き攣り笑いを浮かべる。
「やばい、俺……詰んだ?」




