表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/36

俺の築いた安心安定の生活と、それが崩れ去る日 2

「うわああっ!! あああああっ!!」



 盛大に後ずさり、背後にある壁に頭を打ち付ける。その痛みに構う余裕すらなかった。



「なんだよお前! なんで俺の部屋に──」



 目の前にいる男の唇も、まるで俺が言ったのと同じタイミングで動いている。


 手も、俺と同じように頭を押さえていた。


 そうか、ここ。洗面所。ってことはこれ……鏡、なのか?



 信じられない気持ちで鏡に近づき、触れる。


 眼前にいる男もやはり、俺と全く同じように鏡に触れている。



 恐る恐る顔を触る。自分の顔を触った感覚が、掌と頬にやってきた。


 頬を思い切りつねってみる。当然のように痛かった。


 痛いってことは、これは夢じゃないのか?



 ぱっちりとした黒い瞳が、心底驚いたように俺を見ている。



 幼さの残る顔だ。髪も真っ黒で、学生らしいマッシュヘア。高校生、いや、中学生くらいだろうか。全く見覚えがない。



「誰だよ、こいつ」



 改めて周囲に目を向ける。よく見たら、俺の家の洗面所と全く違っていた。


 ここは、こいつの家なのか?



 廊下に出る。古い家屋なのだろうか。


 踏みしめるとギシ、と床が軋んだ。


 こいつ以外、誰もいないのだろうか。随分と静かだ。



 ……これは夢だ。そうに違いない。


 状況があまりにも意味不明すぎるからだ。夢とは得てしてそういうものだ。



 さっきぶつけた頭がズキズキと痛むけど、触覚、嗅覚、視覚、聴覚、すべての感覚がリアルに伝わってくるけど。


 これはきっと、『そういう夢を見ている』というだけのこと。



 目が覚めてしまえば、ああ、俺はなんておかしな夢を見たんだろうって寝汗を拭くんだ。そうに違いない。


 そう自分を納得させようとした所で、早鐘を打ち続ける鼓動は落ち着きやしない。



 とりあえず、外に出よう。そうすれば目が覚めるかもしれない。


 わけも分からぬまま、抜き足、差し足廊下を歩く。



 夢って割と何でもありだしな。


 ゾンビとか出てきたり、急に床が抜けて、真っ逆さまに落っこちたら……たまったもんじゃない。



 最悪の事態が次々と脳裏をよぎり、息を押し殺しながら、身構えながら玄関へと向かう。



 たった数メートルの廊下をたっぷり時間をかけて渡りきり、結局何事もなく、玄関にたどり着いた。


 玄関の前に、二階に上がる階段がある。


 どうやらここは、木造の古い一軒家のようだ。



 玄関にはスニーカーと大人用の革靴が一足ずつあった。


 こいつの足だと、多分スニーカーがいいだろう。


 置いてあったスニーカーを履き、引き戸の扉を開けようとした瞬間、



 スウ、と嫌な匂いが急激に鼻をつく。



 どうして今まで気づかなかったんだろう。



 自覚した途端、それは全く無視できる範囲を超えた強烈な匂いであり、そして『決して良くない事が起こった時にする匂い』だということを、瞬時に理解する。



 ああ、駄目だこれ。振り返ったら、絶対ヤバいやつ──。



 全身が警鐘を鳴らしている、なのに、頭を起点に身体が、まるでそちらに引っ張られるように振り向く。



 その視線の先、麻でできた暖簾が掛かっている中──ダイニングテーブルがちらりと見えた。


 家の構造的に、キッチンなんだろう。



 ドクン、ドクン、心臓が強く鼓動し、『その先』へと、視線も意識も釘付けになっていく。


 夢とは自分の思い通りにいかないものであり、『悪夢』とは、見ている者を非情に、理不尽な程の恐怖に陥れる。



 意志と反して、俺の身体は立ち上がり、そちらへと歩きだしていた。



 駄目だ。進むな。止まれ。止まれ!



 どれだけ頭の中で願おうが、叫ぼうが、俺の歩みは止まらない。


 しかし恐怖心とともに、好奇心が膨れ上がっていくのも事実だった。



 だってこれは夢だ。


 もしこの先に何があろうと、『何が転がっていようと』、目が覚めてしまえば俺には、全く関係ないのだから。



 張り裂けそうな鼓動と息を潜めながら、生活臭の染み付いた暖簾をくぐる。


 さっきした嫌な予感が、寸分違わず一致したまま、俺の眼前に展開されていた。



 さっきは死角になっていて見えなかったダイニングテーブルの向こう。


 そこは──ペンキをぶちまけたように、真っ赤だった。



 全身が心臓になってしまったように、鼓動の音が強く振動し、身体中を揺らす。


 ガクガクと震える足を進め、ダイニングテーブルの向こうを覗き見た。



 床、白い壁、食器棚、全てに赤が散り、鉄臭い匂いを充満させている。



 そしてフローリングを染める血溜まりの中心に──男が仰向けに倒れていた。



 目を見開いたまま、胸に包丁が突き刺さったまま、血で服を真っ赤に染め、絶命していた。



 傍らに、血だらけの塊があった。


 見たくもない。認識したくもないのに。


 俺の眼球は無意識化で目を凝らす。凝らしてしまった。



 その正体は、身体を丸めた犬。


 同じように惨殺された白い犬が、毛を真っ赤に濡らし、横たわっていた。



「あ、あっ……うわあああああ! あああっ!」



 自分でも情けなくなるような悲鳴を上げなら後ずさり、転んだ拍子に尻もちをつく。



 やばい。なにこれ、逃げなきゃ。



 四つん這いになって、何とか立ち上がろうとした。


 ガタガタと身体が勝手にふるえて、腰が抜けたのか、上手く立てない。



 今まで嗅いだことないほどの噎せ返るような血の匂いと、目の前にあるスプラッター映画然とした光景。


 これ、本物? ほんものの、したい──死体。



「うっ」


 すぐに胃から液体がせりあがってきて、口を押さえる。手遅れだった。


 次の瞬間には、喉を伝ったそれが勢いよく口から漏れ出す。


 ぶしゃあ、ぼたぼた。



 漏れだした生温かい吐瀉物が指の間から溢れ、血だらけのフローリングに落ちていった。


 げえ、げえとカエルじみた声が、黄色い吐瀉物と共に喉の奥から出る。


 胃の中にある物を全て吐き出し、ぜえぜえと息を切らす。



「なんだよ、なんだよこれ……夢なら覚めろよ。はやく……早く!」



 何度か自分の頭を殴ってみる。


 まるで現実みたいな痛みがやってくるばかりで、夢が覚める気配は全くなかった。



 ガタン。


 背後で音がして、勢いよく振り返る。どうやら物が落ちただけのようだ。立てかけてあったらしい掃除機が、血まみれの床に転がっていた。



 つーかこれ、もしかして犯人、まだこの家に──。



 慌てて息を潜め、周囲を見回す。


 シンとしている。人の気配はない。こちらに向かってくる足音もなかった。


 あれだけ叫んだのだから、もし犯人が家にいるなら、確実に気づかれているはずだ。早くここを出ないと──。



 そこにきてようやく、最初に見た場面を思い出す。


 嫌な予感がした。とてつもなく嫌な予感が。


 確証を得るために、すごく嫌だったが、恐る恐る忍び寄り、死体を確認する。


 表情が壮絶だが、多分顔付きからして、年齢は4、50代くらいだろう。


『こいつ』の父親、なのだろうか。



 じゃあ『こいつ』は何故、父親が殺されてるっていうこの状況で、呑気に手なんか洗ってたんだ?



 改めて自分の服を見る。下は制服らしき黒のスラックス。上は何故か、洗剤の香りのする白いパーカーだった。


 壁を伝ってなんとか立ち上がり、よろよろと洗面所に戻る。



 洗面所に設置されている洗濯機。意を決して、中を覗いた。


 嫌な予感が、確証へと変わった。


 年季の入った洗濯機の中、山積みに詰め込まれた洗濯物の一番上、血がべっとりと付いたワイシャツが入っていた。



 あまりにも予想通り過ぎて、はは、と乾いた笑いが出る。もはや笑うしかなかったのだ。



「え、俺、これ……殺人犯じゃん」




 呆然と立ち尽くしていると、ピンポーンとチャイムの音が鳴り響いた。



「けいくーん。もう帰ってるん?」



 外からおばさんの声がする。『けい』とは、こいつの名前だろうか?



「けいく~ん? おらんの?」



 声とともに、玄関の引き戸をトントンと叩く音がした。


 キッチンの電気はつきっぱなしだ。出ないと怪しまれるかもしれない。



 吐瀉物で汚れた手と顔を急いで洗い、玄関へ向かった。



 ガラリと引き戸を開けると、人の良さそうなおばちゃんが俺を見てにこりと微笑む。


 手にはタッパーを持っていた。



「けいくん、なんやおるんやんか」


「ど、どうも」


「これ作りすぎてなぁ。よかったら、お父さんと食べてくれへん?」


「……あ、ありがとう……ございます」



 必死で笑みを作り、タッパーを受け取る。しかし手の震えは隠しきれなかった。


 やばい、止まれ、止まれって。



「……手、どうしたん? 顔色もなんか悪いし……」



 言うが早いか、おばちゃんがスンと鼻を鳴らす。


 そして途端に訝しげな顔をした。


 やばい。ばれる……バレる!




「ご、ごめんなさい!」



 居てもたってもいられず、タッパーを押し返し、おばちゃんの横をすり抜けて走り出した。



「ちょっとけいくん!?」



 おばちゃんが背後で叫ぶのが聞こえたが、そんなの構っていられない。


 やばい、捕まる──捕まる!



 見知らぬ住宅街を全力疾走で走り抜ける。


 どこへ行けば良いのかも分からない。でも、出来るだけ遠くに──。



 拘束、逮捕、懲役、死刑。


 頭の中はそんな物騒な単語でいっぱいだった。



 がむしゃらに走っていると、いつの間にか駅の前に到着していた。


 良かった……これでなんとか逃げられる──。



 はぁはぁと息切れしながら、スラックスのポケットに手を突っ込む。いつも入れているICカード入れがなかった。



 あ、そっか俺。今、『俺』じゃないじゃん。



 焦ってポケットの中やパーカーのポケットに手を突っ込んで探し回る。


 ICカードどころか小銭も、スマホすらなかった。



 はは、と思わず顔が引き攣り笑いを浮かべる。



「やばい、俺……詰んだ?」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ