逃亡生活 1
駅前で途方に暮れていると、目の前を警官が横切った。
はっとして辺りを見回す。駅のすぐ傍に交番があった。
ここに居たらやばい。とりあえず、逃げよう。
怪しまれないように早足で駅前から立ち去ることにした。
アホか。諦めてる場合かよ。こんなんで逮捕されてたまるか。俺なんもやってねえのに!
どんどん焦燥感が募っていき、気づけば走りだしていた。
とりあえず、俺は遠くに逃げなきゃいけない。それだけは分かる。とにかく、今は走れ!
でも、逃げるってどこに? 俺はこいつの事も、この土地の事も何も知らない。
分かってるのは父親を殺した事と、下の名前が『けい』ってことだけだ。
……そういえば、さっきのおばちゃん関西弁だった。じゃあここは関西なのか?
家のあった方角から離れるように走りながら、街並みを見回す、家も車通りもそれなりにある。駅前にはコンビニや飲食店がちらほらあった。田舎というわけではなさそうだ。
関西の地方都市といったところだろうか。
携帯が無いから調べることも出来ない。クソッ! さっきの駅で駅名くらい確認しときゃ良かった。
しばらく走りつづけて、数十分は経っただろうか。流石に限界が来た。一度立ち止まり、呼吸を整える。
しかしまあ。この身体、結構体力あるな。流石中学生だ。俺だったらものの数分走っただけで、バテてるってのに。
少し立ち止まって休憩していたら回復してきた。再び歩きだすことにした。
このまま走り続けてたっていつか限界が来るし、効率が悪すぎる。
なんとか別の方法を考えないと……つーか、喉乾いた。結構走ったし、一旦座りたいな。
歩いていると、公園を見つけた。公園の入口にある、年季の入った公衆トイレ。その端の方には多目的トイレが設置されていた。
ああいうところには普段だったら絶対入らない。汚えし。でも、今は──。
ガラガラと引き戸を開き、意を決して中に入る。独特の籠もった匂いが少々したが、今が11月だというのもあって、そこまで気にならなかった。
蓋もない簡素な便座にズボンを履いたまま座る。ひやりとした感触がズボン越しにも伝わってきた。
うええ、汚ねえ……でも、やっと静かで落ち着ける。
試合が終わって燃え尽きたボクサーみたいに俯いて、はあと大きなため息をつく。
やっぱりこれは、夢じゃない。現実だ。受け入れるしか無いだろう。
俺は今、殺人犯なんだ。
洗濯機にあった血の付いたワイシャツ。男の胸に刺さっていた包丁にだって、きっと『こいつ』の指紋がついているだろう。捕まったら言い逃れは出来ない。
明らかに様子がおかしい所もおばちゃんに見られちまったし、きっとあの死体も、見つかってしまっているだろう。
……時間がない。とにかく早く、遠くへ逃げないと。
傍に設置されている手洗い場の前に立ち、顔をばしゃりと洗う。そして顔を上げる。
鏡に写ったのは、やはりさっき見た中坊の顔だった。悲しいくらい、俺の顔とは似ても似つかない。
でも……だからって諦められるかよ。元に戻れる方法はきっとあるはずだ!
せっかく手に入れた安心安定の生活──絶対戻ってやる!
蛇口をひねり、水を両手で掬う。普段だったら絶対こんな水飲まない。でも飲むしかないんだ。
躊躇いながら口をつけ、ずず、と飲む。カラカラだった喉が潤いを取り戻し、体中に水分が行き渡るのを感じた。
ああ、美味い。水って、こんな美味かったっけ。
そのままがぶがぶと気の済むまで飲んで、びしょ濡れになった口元をパーカーの袖で拭う。
逃亡するために必要な物──まずは金だ。金が無いとどうにもならない。電車にすら乗れないし。
でも今のこの状況で金を得る手段なんて、かなり限られている。犯罪なんてするわけにもいかない。
……この状況でも金を手に入れる方法を、俺は一つだけ知っている。
見かけるたびに軽蔑してきた。なんでそこまでやるんだよって。
でも今なら、そいつらの気持ちが分かる。人間切羽詰まれば、他人の目など気にしている余裕が無くなるんだ。
絶対やりたくなかったし、一生俺には縁のない行為だと思っていたが……背に腹は代えられない。やるしかないだろう。
ふう、と長い息を吐き出し、頭を冷静に切り替える。便座から立ち上がり、フードをかぶった。
そして俺は、羞恥心とプライドを捨て去る決意を胸に、公衆トイレを出た。
物陰に隠れ、人気のないタイミングを見計らう。
絶対やりたくないし、やってる奴を見る度に『そこまでするかよ』って軽蔑していた。
でももう後が無いんだ。やれ──やるんだ!
人通りが途切れたタイミングで物陰から飛び出し、自販機の前に立つ。
ザッと釣り銭入れへと手を突っ込み、釣り銭が無いかを確認する。
それが終われば、瞬時に両手をコンクリートの地面に突き、四つん這いの体勢になる。
頭を地面ギリギリまで下げるが、それでも足りなくて、地面に頬を擦り付けるようにしながら、自販機の下を覗く。
くそ! 一銭も落ちて無い! ここまでしたってのに!
じゃり、と人が歩いてくる気配がした。すぐさま立ち上がり、素知らぬ顔をしてその場を立ち去った。
道すがらにある他の自販機でも、同様のことを繰り返した。何度も何十度も。
怪訝な視線を受けた時は顔から火が出そうだし、かなり屈辱的だ。だが背に腹は代えられない。
今は電車賃を手に入れることだけを考えなくては。
十数件目の自販機の下を覗いた瞬間、銀色のコインがあるように見えた。
百円か!? 五十円か!?
全く躊躇うこと無く、砂と埃まみれの自販機下に手を滑り込ませ、コインを指先で挟んで引き抜く。
ぎゅっと掌にコインを握り、立ち上がった。
もしかしたらゲーセンのメダルの可能性もある。だけど……頼む!
ドキドキしながら、握りしめた右手を開く。
掌の真ん中に鎮座している銀色のコイン。それはまごうとこなき──百円だった。
「っ……よっしゃあっ!」
心の中で叫んだつもりが、あまりの嬉しさに声に出てしまっていた。
周囲の視線を感じ、フードを深々と被って逃げた。
よっしゃ百円ゲットだ! これを繰り返していけば、逃亡資金なんてあっという間に貯まる!
調子が出てきた俺は、自販機だけではなく、コインパーキングの精算機や駐輪場の精算機もチェックするようにした。
今度は十円を一枚見つけた。やった! と声を抑え、心の中で歓喜する。
それから数時間、殺人現場から離れつつ、小銭を探し続け、ゲットできた総額は──130円だった。
これじゃ初乗り運賃にすら届かない。つーか飯とかも……どうしよう。
日もすっかり沈んできて、薄暗くなってきていた。これ以上探すのは厳しいだろう。
……つーか二、三時間必死こいて探して130円って……我ながらあまりにも効率が悪かったな。
とてつもない徒労を感じるが、歩みを止める訳にはいかない。
人気の少なそうな道を選びながら、とぼとぼ歩いていると、びゅうと、木枯らしが吹いた。
すると街路樹の茂みから、パサリとなにかが地面に落ちる。それを見て俺は、一瞬目を疑った。
キョロキョロと周囲を見回し、緊張で汗ばむ手で、しっかりとそれを拾う。
俺の前に落ちてきた紙切れ。それは──千円だった。
やった! これでここを離れられるぞ! 千円もあれば、電車でだいぶ遠くまで行けるはずだ。
確かさっき駅を通り過ぎたな。戻ろう!
急いで駅へと戻る。駅へと続く歩道橋を歩いていたその時──。
べしゃりと、目の前を歩いていた子供が盛大に転んだ。すぐにぐすり、ぐすりとすすり泣くような声が聞こえる。
一度は通り過ぎようとした。一刻も早くここを離れなくてはいけないのだ。
だが、流石に無視するわけにもいかず、仕方なく駆け寄った。
「おい、大丈夫か?」
「う、ううっ……」
手を貸して立ち上がらせてやる。背格好からすると小学生──三、四年って所だろうか。
身体の下には潰れたケーキの箱があった。しかもホールケーキだ。どうやら転んだ時に下敷きにしてしまったようだ。
「あー……ケーキ、駄目にしちゃった感じか」
「……なのに」
「は?」
「おかあさんの……おたんじょうびなのにっ……うわああああああん!」
「え、ちょっ、そんな泣くなって!」
慌てて周囲を見回す。幸か不幸か、人はいなかった。少年は一向に泣き止みそうにない。
ああ、やっぱり声を掛けるんじゃなかった。
「もっかい買いに行ったらどうだ?」
「おこずかい、もうたりないもんっ……」
首からカエルの小銭入れをぶら下げている。念のため中身を確認してみると、数十円しか入っていなかった。
「うん……これじゃ買えねえな」
「……おかあさん。いつもおしごとがんばってて、たいへんそうだから。ないしょでケーキ、かってかえろうと、おもってたのにぃっ……」
澄んだ幼い瞳から、どこまでも純粋な涙がぼろぼろと溢れていく。
きっとおやつとか、おもちゃとか。
欲しい物をたくさん我慢して、少しずつ少しずつを積み重ねて、ようやっと貯まった小遣いで買ってきたケーキだったんだろう。こんなに小さいのに。ただ母ちゃんに喜んでほしい。それだけを考えて。
さっき手に入れた千円をポケットの中で握りしめる。良心と邪心がせめぎ合っていた。
今この千円を渡したら、こいつは母親にケーキを買って帰ってやれる。でも、そしたら俺は無一文。お先真っ暗だ。
逃げるか、渡すか。ああ──クソッ!
「……これ、使えよ」
ポケットから取り出したくしゃくしゃの千円を差し出す。少年は心底驚いたように目を丸くし、俺を見た。
「え……?」
「千円あれば、ホールは無理でも、ショートケーキくらいは買えんだろ」
「いいの!?」
「いいよ。その代わり、もうぜってー転ぶなよ。後……これからも、かーちゃん大事にしろ。約束だぞ」
「うん! ありがとう、お兄ちゃん!」
千円を手にし、少年の顔がまるで太陽のような満面の笑みへと早変わりする。そして元気に駆け出していった。
その背中が見えなくなるまで見届けた後、はあと盛大にため息を吐いて、項垂れる。項垂れるしかなかった。
今考えたら、全額渡す必要全く無かったよな。
コンビニでなんか買って崩しといて、500円だけ渡しとくとか……。
130+1000-1000=130円
つまり、残金130円也。
夜の帳は完全に降りてしまっている。地面に落ちてる小銭探しをしようにも、厳しいだろう。
とにかく遠くへ歩き続けるか? でも、腹が減りすぎて、もうあまり動けそうにない。
……うん。絶望的な状況だ。
「ああ、俺……今度こそ……本当に詰んだ」




