逃亡生活 9
「まあ、はい。毎日酒飲んで暴れてばっかの、無職のクソ親父でした。俺が中学の頃に家出てってそれきりなんで、今はどうしてるか知らないっすけど」
そう切り出し、俺はあまり人に知られたくない。自分にとっての黒歴史(子供の頃)を、ハナさんに話すことにした。
「最初からそうじゃなかったんです。俺が小さい頃はちゃんと働いてたし、母さんと俺のことも、すげー大切にしてくれました。でも、ずっと勤めてた会社にリストラされて、変わったんです。次の仕事先を見つけることもせず、毎日朝から晩まで酒飲んでは寝て。親父の代わりに働きに出始めた母さんと、怒鳴り合いの喧嘩したり、暴力振るったり……俺は俺で、母さんを守ろうとして、ガキの頃だから親父に勝てる訳もなく、よく一緒になって殴られたりしてました」
そこまで言ってから、様子を窺うようにちらりと横を見る。ハナさんは精悍な目つきで前を見据え、ハンドルを握っていた。
「母さん、結構無理してたんだと思います。俺が中学の時に、仕事先で倒れちゃって。さすがの親父もその時は、俺と一緒に病院に行ったんです。過労が原因だから、一週間くらいの入院で済むって話だったんですけど、母さんが入院したその翌日、親父は何も言わず、出ていって……それっきり今の今まで、連絡の一つも寄越さなかった」
言いながら、握り拳に力が籠もる。不安な俺と倒れた母さんを置いて、あのクソ親父は、フラフラと何処かへ逃げやがったんだ。当時の事を思い出すだけで腸が煮えくり返りそうだ。
「母さんが退院して、これ以上無理させたくなかったから、俺、言ったんです。『明日から俺も新聞配達するし、中学卒業したら働くから』って。そしたら母さん、『子供が気を使ってどうするの。あんたは好きなことやりなさい。あんたの幸せが、お母さんの幸せだから』って……だから俺は、必死で勉強して、特待生制度使って大学入って、誰もが知ってる一流企業に就職して、自分の幸せと安定を追求する事を第一にして、生きてきた」
その結果が今の状況なんて、親不孝もいいとこだけどな。……とんだ笑い話だ。
「瑛太くん、いっぱい頑張ったんやね」
「まあ、はい」
「それに、すごく優しい」
「そうなんすかね……よく分かりません」
「なあ。ここにはアタシしかおらんねんからさ。帽子脱いでもいええんちゃう?」
「え? ……はい」
帽子を脱ぎ、膝の上に置いた瞬間。ふわり。柔らかい感触が頭に乗り、俺の髪の上を優しく滑る。
驚いて横を見る。ハナさんの左手が、俺の頭に伸びていた。動揺している俺を、ハナさんがちらりと横目で見て、柔らかく微笑む。
「え、ハナ……さん?」
「大丈夫やで。瑛太くんはこれから絶対幸せになれる。アタシが保証する。だって……瑛太くんは今までいっぱい、頑張ってきたんやもんっ!」
「? どういう事っすか?」
「人生は良いことと悪いことが、差し引きゼロになるように出来てんねん。今まで瑛太くんが苦しんだ分、これから先は、幸せなことがいっぱい待ってるよ……生きる事を諦めさえしなければ、絶対な」
呟くように口から零れた最後の言葉には、確かな重みが感じられた。きっとそれはハナさん自身も、それだけ背負ってきた何かがある証拠だと思う。
「瑛太くんはそんな大変な状況でも、腐らず真っ当にやってきたんや。アタシとは全然違う。それを神様は、ちゃんと見てるよ」
「いや……でも俺、殺人犯の身体になっちゃったんですけど」
「それも何とかなるよ、絶対。アタシが保証するっ!」
「ははっ、なんすかそれ」
「やっと笑ってくれたなぁ」
ハナさんの嬉しそうな声色にハッとする。そうか、俺。こんな風に笑うの久々だ。この身体になる前も、愛想笑いはよくしていたけど、心から笑っていたかといえば、そうじゃ無かった。
あれ、俺。いつから笑ってなかったんだ?
「瑛太くんはこれから先も、頑張らなあかんよな? でも今だけは、アタシの隣では……ゆっくり休んで」
子供をあやすような優しい声と、頭を撫でるゆったりとした掌に安心したせいか、眠気が一気にやってくる。
体の力が自然と抜け、瞼が勝手に閉じていく。心地よい眠気に誘われるまま、俺は意識を手放した。
「瑛太くん、瑛太く~ん」
その声でハッと目が覚める。窓の外を見ると、てっぺんに昇っていた日は暮れ、すっかり夜が訪れていた。景色も都会のビル群に様変わりしている。
「あれ、ここは?」
「もうすぐ横浜やで~」
「すいません。俺……寝て、」
「ええよ。ええよ。ちょっとはゆっくりできたかな? ……さ、アタシも積荷下ろしに行かなあかんし。横浜駅の手前で降ろすな?」
「あ、はい」
程なくして横浜駅のバスターミナルに着いた。ハナさんがトラックを停める。俺は帽子を被り直し、トラックから降りた。
やっぱこのトラックでかいな。こんなでかい車、俺はきっと一生掛かっても乗りこなせない。
運転席にいるハナさんを見上げる。目が合うと、ハナさんは俺を見て柔らかく目尻を下げた。
「ハナさん。本当に色々、ありがとうございました」
「うん。頑張って元の身体に戻りや」
ハナさんが笑顔で俺にひらひらと手を振る。このまま俺も手を振り返して別れるのが、綺麗な終わり方なんだろう。
でも俺はそうは出来なかった。だって、ここで別れるには、俺はあまりにもこの人の事を──。
「最後に一つだけ、いいですか」
「うん。なに?」
「勘違いしないで欲しいんすけど、これは恩返しがしたいとか、そんな純粋な動機じゃなくて……普通に、つーか、完全に下心なんですけど」
「? うん」
ハナさんが頭の上にハテナマークを浮かべながら、大きな瞳をぱちくりとさせる。ああ、顔が熱い。心臓がバクバクする。
こんな事女の子に言うの初めてだから、余計に。でも言うんだ。言ってしまえ。──後悔しないためにも。
恥ずかしさから勝手に下を向こうとする顔をぐっと上げ、ハナさんの人懐っこく愛らしい瞳をまっすぐ見据える。
「俺、ハナさんの事、好きになっちゃいました。連絡先とか、教えてもらっても──」
「だーめ」
ハナさんが細くしなやかな指でばってんを作り、照れ笑いを浮かべて微笑む。俺の人生初の一世一代の告白は、そんな可愛い仕草によって封じられてしまった。
「アタシには旦那がおるからなあ。男の子とは連絡先交換できませ~ん」
「そう、ですよね」
うん。予想通りの返事だ。完膚なきまでに振られた。落ち込むかと言われれば、そうでもない。むしろそんなハナさんの事を、もっと好きになった。
きっとこの感情は、恋と呼んでいいのだろう。
ガキの頃からずっと、恋愛なんてそんな甘ったるい世界は、自分には無縁のものだと諦めていた。常に自分の事に必死で、人を好きになるような余裕なんてなかったし。
奇妙な出会い方にはなったけど、初恋の相手がこの人で良かったと、今は素直にそう思える。
「瑛太くんにはもっと素敵な子がおるよ。アタシなんかに構ってる暇なんてないで?」
「はい。俺、ハナさんに会えて嬉しかったです。一生忘れませんから……じゃあ、これで」
「アタシも瑛太くんのこと、ずっと覚えてるよ。元気でな!」
「はい!」
ハナさんが笑顔で再び俺に手を振る。今度は俺も笑顔で、手を振り返した。
トラックがゆっくりと発進する。駄目だ。見送ると切ない気分になりそうだ。
俺も踵を返し、帽子をしっかりと被り直して駅へと歩き出した。
さよなら。そしてありがとう──俺の初恋の人。




