やさしい人は必ず報われる。ただし、自己犠牲はするな!!
ある日、翔はある本を読んで感化された。そして、こんなタイトルのブログ記事を書いて投稿した。
『やさしさを鍛えよう!!』
記事の内容はこんな感じだ。
普段からやさしい人になろうと努めよう。困っている人や悩んでいる人の力になろう。やさしさは、生きる上でも最も重要な技術である。そう、やさしさは、生まれ持った資質ではなく、誰もが習得することができる技術なのである。
やさしさは、生まれてすぐの状態では個人差があるのは事実だが、意識さえすれば、誰でもやさしくなれるのだ。しかし、現代の人たちは、やさしさを蔑ろにしている気がする。
それに、やさしい人は引っ込み思案で反対意見を言えない気の弱い人と思われている節があり、ネガティブなレッテルを貼られることもある。しかも、やさしくしようと言っても、簡単に実行できるとは限らない。そもそもやさしさの本質を間違って捉えている人も多くいるのではないだろうか。
やさしさとは、長期的に見て相手に最善の利益をもたらすと思われる行いをすることである。決してただ相手のお願い事を聞いたり、従順的になったりすることではない。また、相手の気持ちも考えずに勝手に推測して行動するのも間違っている。これはいわゆるお節介というやつだ。
お節介をする人の特徴は、たとえば、相手が求めていないのに、つまらないプレゼントを渡すような奴のことだ。こいつらの決め台詞はこうだ。
「大切なのは気持ちだよね」
一見、もっとものように聞こえるが、本当に相手のことを想っているのなら、相手が何を求めているのかをしっかり考えるだろう。これは偽りのやさしさである。
一方、真のやさしさとは、知性や判断力、良心、それとできるだけ相手の立場に立って考える共感力を使って行動することである。人はみな、完全に同じように考えないし、同じ行動もしない。そのため相手が何を考えているのかを完全に言い当てることは、心を読む超能力者でもない限り不可能だ。それでも相手の立場に立って考えること、すなわち共感することで、相手が何を求めているかをある程度知ることができるだろう。また、共感力は磨き上げることができるのである。
やさしさというと、他人に対してすることだと思い込む人がいるが、自分自身にやさしくすることも同じくらい大切である。なぜなら、他人に尽くすあまり自分の健康を後回しにし、心身ともに疲れてしまったら、他人にやさしくすることもできなくなってしまうからだ。それは自己犠牲である。
自己犠牲を美徳と考える人もいるようだが、個人的には断固としてこの考えに反対だ。人間には個人差があるものの、必ず限界はある。そして自己犠牲は必ず自分自身を滅ぼすことになる。他人を幸せにしたいのなら、まず自分が幸せであるべきだ。
しかし、自分にやさしくするときにも注意することがある。今まで他人にやさしくしていたから、今後は他人の代わりに自分を大切にするという人がいるが、これだと自分勝手で相手のことを気にかけない人になりかねない。そうなると、人は離れていってしまうだろう。
他人の代わりに自分にやさしくすることが重要なのではない。他人にやさしくするのと同じように自分にもやさしくすることが重要なのである。そのためには、無理をしないように、自己管理を徹底し、自分の体調をしっかり把握することが大切である。
それって利己主義じゃないかという反論もありそうだが、そもそもやさしい人の大半は、利己的な動機に基づいて行動しているのである。たとえば、感謝されたい、自分をよい人間だと思いたい、褒められたい、他人と仲良くしたいなどは利己的な動機ではないだろうか。これらは、悪いことではない。その動機によって結果的に他人のためになっているのなら、むしろ良いことである。
ダライ・ラマは利己的な人間についてこう言っている。
「愚かな利己主義者は、いつも自分のことだけを考えて、否定的な結果を招きます。一方で賢い利己主義者は、他人のことを考えてできるだけ手を貸し、自分と相手のどちらにも得になる結果をもたらすのです」と。
つまり、賢い利己主義者はウィンウィンになれるということだ。利己的な動機からやさしくすることはまったく問題ない。重要なのは動機ではなく、行動そのものである。そして、良い行いをすると得をするのである。実際、人間は他人に親切にするだけで、自分が幸福を感じるようにできている。これは今までの人間の進化の賜物である。
だから、やさしく生きるすべを学ぼう。人は誰でも欠点があるし、間違ったこともする。完璧な人間などいない。それでも、今以上にやさしくなろうと努力することは素晴らしいことである。
本の内容が素晴らしかったので、翔はつい勢いでこの記事を書いてしまった。SNS上の『六月』しか知らない読者にとっては、何の問題もないだろう。しかし、現実の翔を知っている人にとっては、こんな反論が聞こえてきそうだ。
「そんなこと言って、お前は学校のルールを守っていないじゃないか」と言う反論が。
そんな人に対しても翔は言い返したことがある。
彼らはやさしさを勘違いしているということを。翔は、科学的に証明されている信ぴょう性の高い情報を集めて、自分が生きやすいように過ごしているだけである。それを周りの人は、翔の話を聞かずに一方的に攻撃してくる。まるで自分の生き方が正しいかのように。
いつも多数派が正しく、少数派が間違っているとは限らない。正しいのは一人だけで、他全員が間違えていることも十分あり得る。
ノーと言ったり、自分や周囲の人を守るために断固とした態度をとったりするのは、不幸な結果を避けるためには必要だ。やりたくないことを続けたり、嫌いな人と関わり続けたりすることは精神的によくないからだ。
なので、翔は今のところ自分の言動を変えるつもりはなく、このまま続けるつもりである。
六月上旬のある日の放課後、部活を終えた翔たちは靴箱にいた。ベルは教室に忘れ物を取りに行ったので途中で別れた。
外はどしゃ降りの雨が降っていた。今日の朝は晴れていたが、天気予報は六〇%だったので、傘を持ってくるのが無難だろう。
「あ、雨降ってる。どうしよう…」と如月が困った様子で言った。
「ん? 如月さん傘持ってないのか?」と霜月が尋ねた。
「うん。朝ちょっと急いでいたから忘れちゃった」
「あ、じゃあ俺の傘、貸すよ!」
翔は持っていた傘を如月に差し出した。
「えっ、でもそれじゃあ水無月くんが…」
「大丈夫。こんなときのためにもう一本常備してるから」
翔は鞄から折りたたみの傘を取り出し少しドヤ顔をして見せた。
こう見えて翔は常にリスクを考えて行動しているのである。雨の日に傘は必須だ。でも人間誰しも忘れることはある。だから、もし忘れたとしても、いつも鞄に傘が入っていれば何の問題ない。実際今日みたいに他人に貸すこともできるのだ。
「あ、ありがとう」
如月は喜んで受け取ってくれると思ったのだが、そうでもないようだった。このとき、もしかして、余計なことをしてしまったかもしれないと気づいた。
(そうか。傘を忘れたということは、霜月と相合傘をするチャンスだったのか!)
翔が気づいたときはすでに貸してしまっていたので、今から返してもらうなんてできなかった。これは『やさしさ』ではなく、『お節介』だったようだ。もう取り返しがつかないので、翔はとりあえず謝ることにした。
「ごめん。余計なことして」
「えっ、どうして謝るの!? 余計なことじゃないよ! ありがとうだよ!」
「そうか…」
如月はやさしくフォローしてくれたが、それでも翔には少し罪悪感が残った。
「お前、フラグクラッシャーだな!」
霜月が笑いながら肩を組んできて、翔を冷やかした。どうやら霜月は翔が余計なことをしたことに気づいているようだった。
「うるせー!」と翔は言って、霜月の手を払った。
翔が「俺、トイレに行って帰るから、またな」と言うと、「おー、またな」「またね」「じゃあな」と霜月、如月、神無月が応え、三人とはここで別れた。
トイレで用を足して靴箱に戻ると、ベルが立っていた。
「お、ベルさん、忘れ物はあったのか?」
「あ、水無月サン。ハイ、ありまシタ!」
「そっか」
「水無月サン、まだいたんデスね!」
「あぁ。ちょっとトイレに行ってた。他のみんなはもう帰ったよ」
「そうなんデスね」
ベルは少し困っているような顔をしていた。
「ベルさんは帰らないのか?」
「ア、ハイ、帰りたいのは、ヤマヤマなんデスが、傘を忘れてしまって…」
どうやらベルも傘を忘れてしまったらしい。それで外を眺めて立ち尽くしていたのだった。ベルが困っているようだったので、翔は自分の折りたたみ傘を差し出した。
「じゃあ俺の傘貸すよ」
「エ、でも、それじゃあ水無月サンが濡れてしまいマス!」
本日二度目のやり取り。しかし、今回も大丈夫な理由があった。もちろん相合傘ではない。そもそもベルは翔のことが好きなわけではないので、そんなことをしてしまったら迷惑をかけることになるだろう。それにこの折り畳み傘では二人が入るには小さすぎる。
「それは心配しなくて大丈夫。こんなこともあろうかと、学校にいつも一本置いているから」
翔はまたも少しドヤ顔で言った。
「そうなんデスか!?」
「あぁ。だから、はい」
翔がそう言って差し出すと、ベルは笑顔で「アリガトウゴザイマス」と言って傘を受け取った。
「じゃあ俺、教室に傘取って来るから、またな」
「ハイ。アリガトウゴザイマス! また、明日デス!」
今度は『お節介』ではなく、やさしさを発揮することができたようである。ベルに感謝された翔は気分が良くなっていた。どうやら誰かにやさしくすると、自分が幸せになるというのは本当だったようである。
そんな気分を味わいながら、翔は傘を取りに教室に戻った。翔はこう見えて慎重派である。予備の予備は翔にとっては通常である。どんなことにも冷静に対応するためには、あらゆることを想定して未然に防ぐことが大事である。ということで、予備の予備である傘はいつも机の横に掛けてあるのである。
教室に着き、翔は自分の机の横に掛かっているはずの傘を手に取ろうとしたが、そこには何もなかった。
(えっ、ない! 傘がない! どういうことだ? たしかいつもここに掛けていたはず…)
翔は机の中、ロッカー、掃除用具入れ、教壇の下、ごみ箱の中を探したがどこにも傘はなかった。
(もしかして盗まれた?)
その可能性はある。傘に名札は付けていたが、ずっと机の横に掛けっぱなしだったから盗まれてもおかしくない。名札なんて簡単に引き千切ることができる。でも、いつからなかったんだろうか。翔は記憶を遡ったが、どうしても思い出せなかった。四月はまだあったと思う。五月は……わからない。いや、今はもう傘がいつなくなったかなんてどうでもいい。今日どうやって帰るかが問題だ。
翔は決して自己犠牲はしない主義だ。でも、今回は予想外だった。持っていた二本の傘は貸したので、もうない。誰かに貸してもらうか。……いや、それはなんか嫌だ。……コンビニで買うか。……それもなんか負けた気がして嫌だ。名前のないビニール傘を拝借するか。それは論外だ。翔は決してそんなのことはしないと決めている。じゃあ、残る手段は……。
その場でしばらく考えた結果、翔は教室にあった大きなビニール袋で鞄を覆い、濡らさないように防御した。そして抱きかかえるように持って、雨の中走って帰ることに決めたのである。
家までは走って帰れば一五分程なので、大丈夫だろうと判断したのだ。我ながらなんと非合理的で感情的なのだろうと思っていた。
全速力で帰ったが、予想よりも雨風が強く、帰り着いたときには全身がびしょ濡れになっていた。ビニール袋のおかげで鞄はほぼ無傷である。
玄関でジャケットを脱いで、絞っているとつゆりが二階から降りてきた。
「どうしたの、お兄ちゃん! びしょ濡れじゃん!」
「あぁ、ちょっと雨に打たれて…」
「傘はどうしたの!? 朝、持って行ってたよね?」
「あぁ、そうなんだけど、忘れた人がいたから貸したんだ」
「貸した? でもお兄ちゃん、いつも鞄に折り畳み傘、常備してるよね? それ使わなかったの?」
「それも他の人に貸した」
つゆりは少し呆れた顔になった。
「はぁ、そうなんだ。……あっ、でも学校にもいつも一本置いてなかった?」
「それは…なくなっていた」
「はぁ~、そういうこと」
さらにつゆりの顔の呆れ度が増した。
「てか、なんでそんなことまで知ってるんだ!?」
思わず流してしまいそうになったが、つゆりが翔の傘事情になんでそこまで詳しいのか問いただした。
「そっ、それは…妹なんだから当たり前でしょ!」
そういうもんなのか、と翔は納得した。というより、疲労で思考が停止しかけていた。
「じゃあお風呂入れるから、先に入って体温めないとね」
つゆりはそう言って風呂場に向かった。
「えっ、いいのか?」
「なにが?」
つゆりが立ち止まり、振り返って言った。
「いや…俺が先に入ってもいいのかと思って」
つゆりはため息をついて、俺の方に近づいてきた。
「前にも言ったけど、ここは私とお兄ちゃんの家なの! だからお兄ちゃんがこの家で何をしようが自由にしていいの! そんなに私に気を遣わないで! 兄妹なんだから!」
「ありがとう。つゆり」
つゆりの力強い言葉に翔は嬉しくなった。
それからつゆりはタオルを持ってきてくれ、お風呂の準備もしてくれた。翔はなるべく家の中を濡らさないように、玄関で服を脱いでパンイチで風呂場に向かった。途中つゆりは目に手を当て、翔の姿を見ないようにしながら罵った。
風呂のあとは、いつもより少し遅くなったが晩ご飯の準備を始めた。そのとき、一瞬視界がぼやけたように感じたが、特に気にしなかった。その後は、ご飯を食べ、後片付けをし、部屋に籠って読書をしてから、いつも通りの時間に就寝した。布団に横になったあと、若干喉に違和感を覚えたが、痛くもなんともなかったので、そのまま寝た。
翌日、目が覚めると視界がぼやけて見えた。それに体がいつも以上に重く感じて、なんだかだるい。顔に触れると少し熱い気がしたので、体温計を左脇に挟み、体温を測った。少ししてピピピッと音が鳴ったので、確認すると体温計には39.2℃と表示されていた。たしか左で体温を測ると高くなると聞いたことがあったので、念のため右脇でも測ったが、39.0℃だった。どっちにしろ、高熱であることに変わりはなかった。
どうやら翔は風邪をひいたようだった。今まで、多少熱が上がってもそれなりに動けていたが、さすがに39℃まで上がると動くのもきつい。
病院に行こうと思ったが、タクシーを呼ぶのも億劫に感じた。とりあえず、つゆりに風邪をうつさないように、買っておいた市販の風邪薬と冷蔵庫から二リットルの水を持って、自分の部屋で過ごすことにした。階段の上り下りもだるく感じたが、這ったり、壁に寄りかかったりしてなんとか移動することができた。
しかし、情けない。普段体調に気を付けて、健康的な食事を心掛けたり、運動したりしているのに、たった一回雨に打たれて帰っただけで、このざまとは。
このときの翔は、熱のせいもあって、弱っており、いつにも増してネガティブ思考に陥っていた。そのことに途中で気づいたので薬を飲んで、再び布団で眠った。
それからずっと寝ていたようで、インターホンの音で再び目を覚ました。時計に目をやると夕方の四時三〇分になっていた。今日はほぼ一日寝ていたことになる。起きる直前、何か夢を見ていた気がするが、内容は思い出せなかった。なんとなく母の姿が見えた気がするが姿も記憶もボンヤリしていた。
朝より少し楽になっていたが、まだ動くにはしんどかった。
それから何度かインターホンが鳴るので、翔は宅配便と思って玄関に向かった。翔は頼んだ記憶はないが、もしかしたら、つゆりがアマゾンで何かを注文していたのかもしれない。再配達になれば面倒だと思い、風邪菌をまき散らさないようにマスクを付け、受け取りに行った。
そしてドアを開けると、目の前には宅配便ではなく、如月が立っていた。
「あれ? んっん。如月さん!? どうしたんだ?」
「あ、あの、ごめんね。急に来て。昨日借りた傘を返そうと思って…」
「傘? あぁ昨日の。ゴホッ。わざわざ届けてくれたんだ。ごめんね」
「ううん。私が勝手に来ただけだから。…昨日はありがとう! 助かったよ」
如月は笑顔で傘を返してくれ、翔はそれを受け取った。
「役に立ったのなら良かった。ゴホッゴホッ」
「それより水無月くん、もしかして風邪?」
「あ、あぁ、ゴホッ、ちょっと熱があるだけ」
「大丈夫?」
「大丈夫だ。ただの風邪だから。ゴホッ、ゴホッ」
「今日は風邪で学校休んだの?」
「まぁ…そうだな」
「今一人?」
「あぁ。ゴホッ」
「ご両親は仕事? 何時頃帰って来るの?」
「親は帰ってこない」
「えっ、どうして!?」
「父はどっかで仕事していると思うけど、家に帰って来ることはない。母は俺が小学生のときに亡くなっている」
翔は自分で言いながら、どうして如月にこんなプライベートなことを言っているのだろうと思っていた。いつもなら関係ない、と相手にしないでいたのに、今日の翔は随分と口が軽かった。熱のせいで弱っているのが原因かもしれない。
「そうなんだ……じゃあこのあともずっと一人なの?」
「いや、ゴホッ、妹がもうすぐ帰って来ると思う」
「あ、妹さんいたんだ! そうなんだ…」
そう言って如月はしばらく黙り込み、手を顎に当て、何かを考え込んでいた。そして数十秒後に「じゃあ、ちょっとお邪魔するね」と言って、家の中に入ってきた。
「えっ、ちょっ、ゴホッ、待って! ゴホッ、なんで!?」
如月の突然の行動に思わずビックリして、言葉が喉で絡まってしまった。
「水無月くん、今日何も食べてないでしょ?」
「まぁ、そうだけど…」と言いながら内心(何でわかったんだ!?)驚いていた。
「その調子だと、ご飯も作れないでしょ?」
「それは…」
「だから、私が作ってあげる!」
「え!?」
「水無月くんには傘を貸してもらった恩があるし」
「いや、そんなこと、ゴホッ、しなくても! ゴホッ、それに、風邪うつしちゃいけないし」
「大丈夫。私、結構体強いから!」
如月は右腕で力こぶを作って、強いアピールをした。どうやら決心は揺らぎそうになかった。このとき、翔は如月の予想外の行動に混乱していた。
(どうしてそんなことしてくれるんだ?)
傘を貸したお礼だとしても釣り合ってないような気がしていた。それとも本当の目的は他にあるのではないだろうか。何か弱みを握ろうとしているとか。などの考えが翔の頭の中で戦っていた。そんな中、少し嬉しい気持ちもあった。自分のことを心配してくれる人がいることが嬉しかったのである。家に入って来た如月の後ろ姿を見たとき、一瞬母の姿が重なって見えた気がした。
翔たちはリビングに向かった。翔が「適当なところに座っていいよ」と言うと、如月はソファーに座った。「飲み物麦茶でいい?」と聞くと「あ、うん。ありがとう」と返事が返ってきたので、翔は冷蔵庫から麦茶を出して、来客用のコップに注いだ。
如月に麦茶を差し出し、翔はもう一度冷蔵庫のあるキッチンに向かった。今度はプリンか何かを提供しようと思っていたからである。
如月は差し出されたコップを両手で持ち、一口飲んだところで「ちょっと待って!」と珍しく大きな声で叫んだ。
翔が「どうした?」と聞くと、如月が「いや、私がもてなされたら意味がないよ!」とツッコミを入れたのである。意外にも如月はツッコミができることを知ったのだった。
それから如月はキッチンでおかゆを作り始めた。道具を使うとき、一つひとつ使っていいかを翔に確認しながら、作ってくれた。如月は普段から家でも料理をしているらしく、道具の扱いは手慣れており、あっという間におかゆが完成した。
如月謹製のおかゆは美味しかった。ついでにつゆりの分として、少し凝ったリゾットを作ってくれていた。食べ終わったあとの後片付けも如月がしてくれた。
如月が洗い物をしてくれているということだったので、翔は甘えることにした。その間、翔は喉が渇いたので水を飲もうとした。そのとき、自分の部屋に飲みかけの水があったのを思い出したので、部屋まで取りに行った。朝に比べて体も動けるようになっていたので、階段を上るのもあまりだるくなかった。部屋に着き、枕の横に置いてあった水を手に取り立ち上がったとき、ふと机に飾っている家族写真が目に入った。その写真はまだ母が生きていたときに旅行先で撮った写真で、翔、つゆり、父、母の四人が映っている写真である。その写真を見ながら懐かしさを感じ、しばらくそのまま眺めていた。
そのとき、翔はあることを思い出した。たしか前にも翔が熱を出して寝込んでいたときがあった。あのときは、母がやさしく看病してくれたことを思い出したのだった。母がおかゆを作ってくれたり、寝ているときはずっとそばにいてくれたりしたのだった。
しばらく写真を眺めたあと、部屋を出ると、如月が隣のつゆりの部屋の前に立っていた。どうやら翔が何も言わずにいなくなったので、探していたらしい。そして間違えてつゆりの部屋を覗いたようだった。
(まぁ、女同士だし問題ないだろう)
翔はあまり気にしなかった。
それから二人はリビングに戻り、ソファーに座って少し休んでいた。
「水無月くんって、妹さんと仲が良いんだね!」
「ん、どうしてそう思うんだ?」
「ん? そうなのかな~と思って」
「……俺とつゆりは全然仲良くよ。家にいてもほとんど話さないからな。たぶん嫌われていると思う」
「えっ、そうなの!? あれ!? どうゆうこと??」
如月は混乱しているようだったが、翔にはその理由がわからなかった。話が嚙み合っているようで噛み合ってない感じだった。
そのとき「ただいまー」と玄関からつゆりの声が聞こえたと思ったら、すぐにドンドンドンドンと勢いよく足音が迫ってきた。
「お兄ちゃん! 誰か来てるの?」とつゆりがすごい勢いでリビングに入って来た。そして如月と目を合わせ「チッ! あのときの女か!」と呟いた。
「あ、じゃあ、そろそろ私帰るね」と如月は言って立ち上がった。
「あ、あぁ」
翔は如月を玄関まで見送りに行った。
「今日はいろいろありがとう。如月さん」
「ううん。役に立てたかな?」
「あぁ。助かったよ。おかゆ美味しかった」
「なら良かった」
「このお礼は今度するから」
「い、いいよ。いつもお世話になっているのは私の方だし」
如月は遠慮していたが、翔は何かお返しをしようと心の中で決めたのだった。
「じゃあまた」と言って、如月は帰っていった。
そのやり取りの間中、翔は後ろからつゆりの殺気を感じていたが、気づかない振りをしていた。
リビングに戻ると、つゆりが険しい顔で立っていた。
「お兄ちゃん! なんであの人が家にいたの?」
つゆりはなぜか少し怒っているようだった。学校で何か嫌なことでもあったのだろうか、と思い、ここはあまり波風立たないようにするのが得策だと翔は判断した。
「昨日貸した傘を届けてくれたんだ。今日俺、学校休んだから」
「ふーん。それで、どうして家の中まで入って来るの?」
「それは……俺が風邪をひいているのを心配してくれて……いろいろ手伝ってくれたんだ」
「はぁ!? どうしてあの人がそんなことするの? ていうか、お兄ちゃん風邪ひいてたの!? どうして言ってくれなかったの?」
さっきよりもつゆりの怒り度が上がったようである。もしかして地雷を踏んだかもしれない。
「それは…つゆりに迷惑をかけないようにと思って…」
「迷惑なはずないでしょ!」と大きな声で言った「言ってくれれば、学校休んで看病したのに!」と小さな声で言った。
「ごめん。心配かけたくなかったんだ」
「心配するのは当たり前でしょ。家族なんだから! 今回は許すけど、今度からはちゃんと私を頼ってよね」
つゆりの言葉を聞いて翔は反省した。翔はいつも自分でどうにかしようとしてしまう傾向があるので、あまり他人に頼ることが得意ではない。しかし、こんなときは頼ってもいいのだとつゆりに説教されるとは。翔が気づかないうちに、つゆりはしっかり成長していたんだな、と思ったのだった。
それからつゆりは、なんだかんだ文句を言いながらも如月が作ったリゾットを美味しそうに食べていた。お風呂の準備もしてくれるというので、翔はリビングで休んでいた。
つゆりは、帰ってからリビングに直行していたので、荷物がまだリビングに置きっぱなしになっていた。つゆりがその荷物を部屋に持って行った直後、ドンドンドンドンと階段を下りる足音がして、勢いよくリビングに入ってきた。
「お兄ちゃん! もしかして私の部屋に入った!?」
つゆりは、まるで見られてはいけないものが見つかった子どものように戸惑った様子だった。
「いや、入ってないけど…」
「あれ? そうなの?」と言って一気に気の抜けた感じになり「私の勘違いかな。たしかに誰かが入った痕跡があったのに…」と呟いた。
(何それ? お前はどこかの国のスパイなのか?)
翔がそう思っているとき、あることを思い出したのだった。
「あっ、そういえば、如月さんが俺の部屋と間違えて、つゆりの部屋を見た…」と言いかけたところで、つゆりが翔の顔の目の前に近づいてきた。つゆりの冷や汗を流し、焦っているようだった。
「きっ、如月さん、私のこと何か言ってなかった?」
「いや、特に何も…」
「そう…」
「あっ、俺とつゆりは仲がいいかって聞いてきたな」
翔がそう言うと、つゆりは顔を赤くしてから一度離れて、辺りを行ったり来たりして何か考え事をしているようだった。
つゆりの部屋には何か他人には見られてはいけないものがあるのだろうか、と翔は考え始めた。もしかして、タバコか。いや、ないな。タバコなら臭いで気づくはずだ。それなら、大人の玩具か。それならあり得るかもしれない。つゆりも年頃の女の子なので、そっちに興味を持ってもおかしくないだろう。性癖は人それぞれなので誰がどんなものを好んでいるのかわからない。
そんなことを考えていると、つゆりが再び翔の方に近づいて来て、顔寸前のところまで寄ってきた。
「お兄ちゃん。如月さんの連絡先、知ってる?」
「あぁ、知ってるけど…」
「ちょっとスマホ貸して」
翔がポケットに入れていたスマホを手に取ると、それをつゆりは奪って操作しだした。
(ちょっと待て、なんでお前が俺のスマホのロック解除を知っているんだ! それは一昨日新しく変えたばかりだぞ!)
翔はそう思ったが、つゆりはお構いなく当たり前のように翔のスマホ操作していた。まあ、つゆりに見られて困るものはないからよかったが、セキュリティ問題として注意することにした。
そして、つゆりは翔のスマホを持って、そのまま自分の部屋に行き、如月に電話を掛けた。それから約一時間後、つゆりが戻ってきて、スマホを返してくれた。
「如月さんと何話したんだ?」
「そんなこと教えるはずないでしょ! ……でも、結構いい人そうだね」
つゆりが如月と何を話したのか気になるが、揉めた様子はなかったので安心した。
それあと、翔は体調を考慮して早めに就寝した。
翌日、少しだるさが残っていたが、熱も下がり気分も良かったので、いつも通りのルーティーンをこなし、学校に行った。
読んでいただき、ありがとうございます。
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