初めての野外戦
翌日の早朝、教主国の首都を出て馬車に揺られながら、リクは窓の外を流れゆく景色をぼんやりと眺めていた。石畳の街道を蹄鉄が規則正しく打ち鳴らす音が、どこか遠くの出来事のように聞こえる。
聖授師の白い軍服風の上着に身を包み、腰には短剣と軽い盾、肩からは暗い赤色のマントを流している――そんな出で立ちのリク。その向かいの席には濃紺のローブと、とんがり帽子を身につけたエミリアが腰かけていた。ブロンドの長い髪が、馬車の揺れに合わせてさらさらと揺れる。リクの隣には長い黒髪を一本の三つ編みにまとめたモニカが無言で座り、大きな盾と魔法剣を傍らに立てかけている。そしてエミリアの隣には白い神官のローブに身を包んだジャスミンが、ミディアムロングの茶色い髪を白い帽子の下で揺らしながら、穏やかな笑みを浮かべていた。
エミリアが膝の上で組んでいた手を解き、リクへと向き直る。
「さて、リク君。今日のミッションについて説明するわね」
リクは窓から視線を外し、エミリアへと向き直った。
「今日のターゲットは、比較的出現率の高い魔物『ヌミタリア・バタフライ』のレア個体よ。『ヌミタリア・ホワイト・バタフライ』っていう、白い羽を持つ個体ね。これをリク君のトドメの一撃で討伐するのが今日のミッション」
「ヌミタリア・ホワイト・バタフライ……」
「そう。討伐すると『聖核のかけら』を落とすの。儀式に使える素材よ」
リクは小さくうなずいたが、すぐに別の疑問が浮かんでくる。
「あの、昨日までの闘技場の魔物とはどう違うんだ? ジャイアント・ラットとかも倒したけど、あいつらじゃお目当ての素材は得られないってことか?」
「いい質問ね」
エミリアは、ほんの少しだけ教師のような顔つきになって説明を始める。
「闘技場には、通称『雑魚魔物』と呼ばれている弱い魔物しか飼育されていないの。そもそもレア度が高い魔物は生け捕りにするのが困難な上に、エサも大量に食べるからエサ代も嵩むし、闘技場での飼育には向かないのよ」
「なるほど……」
「それに、こないだの授業で説明した通り、儀式に必要な素材は特定のレア魔物しか落とさないわ。雑魚魔物はレア素材をドロップしないの。ジャイアント・ラットもスライムも、倒しても大したものは落とさなかったでしょ」
「確かに……すごく小さな欠片みたいなのしか残らなかったな」
「あれはコモン素材。売れば小銭にはなるけど、儀式には使えない。だから今日はレア個体を狙って、森の奥へ行く必要があるの」
その言葉を聞いて、リクの心がグッと重くなる。
(結局、俺も戦わなきゃいけないんだよな。野生の魔物と対峙して、この手で――)
闘技場での模擬戦は安全だった。係官や控えの魔導士たちが常に監視しており、万が一の時はすぐに助けが入る。しかし今日は違う。ここは生きた野生の魔物が跋扈する、本当の戦場なのだ。「前線には立たないヒーラー」とは聞いていたが、「絆の儀式のトドメは聖授師自身が」という条件がある以上、いずれこの手で野生の魔物を倒さないといけない瞬間が来る。それが今日なのだ。闘技場とは比べ物にならない重圧が、リクの肩にのしかかってくる。
そんなリクの様子を見て取ったのか、ジャスミンが優しい声音で声をかけてきた。
「聖授師様、どうかあまりご緊張なさらずに。私たちがしっかりとお守りいたしますから」
「そうよ、リク君。大丈夫だからね」
エミリアもにこやかに言ってくれる。しかしリクの緊張はちっとも収まらなかった。喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じながら、リクはただ小さく頭を縦に動かすことしかできない。緊張を紛らわすために、リクが尋ねた。
「ちなみに、この辺りには魔物は出ないのか?」
「出る可能性はあるわ。私たちのいた首都は、周囲を高い城壁で囲まれていたでしょ。それに、門のところには衛兵として、魔導士や魔法剣士や神官たちが魔物の侵入を防ぐために控えているわ。だから首都の中には魔物は出ないの」
エミリアがそう答えると、続いてジャスミンが口を開いた。
「首都に限らず、都市は全て同様なんですよ。城壁と衛兵のおかげで、都市内部には魔物は出現しません。村の場合は、城壁がないので、たまに魔物の侵入を許しますが……」
「ってことは、都市から一歩でも外に出ると、油断はできないってことか」
「そういうこと。でも、都市近郊で出現するのは大抵、雑魚魔物ばかりだから、今の私たちはこうして早朝から出発して、少し遠出をしているわけなのよ」
エミリアの言葉にリクは頷く。
(確かに、ゲームの中でも、都市内部ではエンカウントしないのが普通だしなあ。そして、都市の近くでは弱い雑魚ばかりのことが多いし。この世界でも、そういう感じか)
「教えてくれてありがとう」
エミリアとジャスミンは微笑みながら、小さく「いえいえ」と言った。
やがて馬車は街道を外れ、木々の茂る小道へと入っていった。石畳が途切れ、車輪の音が土を踏みしめる鈍い音に変わる。窓の外には鬱蒼と茂る灌木と、ねじくれた古木が立ち並び、陽光が遮られて車内の雰囲気は心なしか暗くなった。
しばらく進むと、やがて小道の先に開けた草原が出現した。丈の高い草が風に揺れ、遠くに森の入り口が見える。御者――教主国の役人らしき初老の男が、手綱を引いて馬車を止めた。
「この先は歩きです」
エミリアが御者に一言二言、待機の場所について指示を出してから、四人は馬車を降りた。モニカはいつの間にか兜を頭に装着している。背の高い草が足元をくすぐり、風が草原を渡っていく。空はまだ明るいが、森の奥はすでに薄暗く沈んでいるように見える。
「まだ街道からそこまで距離が離れていないから、魔物はほとんど出てこないはずなんだけど、一応しっかり魔法コーティング済みかどうか確認しておいてね」
エミリアが草原を見渡しながら言った。リクは歩きながら、自分の体に視線を落とし、コーティングを確認する。
「ですが、最近なぜか街道でも魔物が出現する事件が増えているのです」
ジャスミンが静かに付け加える。
「怖がらせないでよ」
リクがそう言うと、ジャスミンは小さく笑った。
「失礼いたしました。でも本当に、私たちがお守りしますから」
その時だった――。
草原の奥、灌木の群れがざわざわと不自然に揺れているのにモニカが気づいた。
「いるぞ!」
モニカが短く叫ぶと魔法剣を抜き放ち、大きな盾を前面に構える。その動きに一瞬の迷いもない。エミリアも即座に杖を掲げ、ジャスミンも杖を両手で握り直した。リクは慌てて短剣を抜き、軽い盾を腕に通す。
(街道のそばは安全じゃないのかよ。魔物がちゃんと出るじゃないか――)
内心でそんな不満が湧き上がるが、口に出している余裕はない。
灌木の陰から姿を現したのは、体長一・五メートルは優に越える大きなジャイアント・ラットだった。闘技場で戦った個体よりも二回りは大きい。赤黒い目がぎょろりとリクたちを捉え、長い尾が地面を打つ。
「エミリア。こいつって、闘技場によくいる例のネズミじゃないの? 何だかデカくないか?」
リクは思わず声を上げた。
「魔物の大きさについては個体差が大きいのよ。野生だと、闘技場にいる個体よりずっと大型の個体も珍しくないわ」
エミリアが冷静に答える。その言葉に、リクはごくりと唾を飲み込んだ。あの闘技場の個体ですら迫力があったのにこの巨体――腰が引けそうになるのを必死で堪える。
「この子はレア素材を落とさないから、リク君はヒーラーに徹してて大丈夫。トドメも私たちが刺せばいいから」
エミリアが安心させるように言ってくれる。リクは黙ってうなずいた。
「プロヴォーク!」
モニカの声が草原に響く。巨体のジャイアント・ラットがモニカへと突進し、大きな盾にその巨体が激突した。鈍い衝撃音。しかしモニカは一歩も退かない。
「フレイムランス!」
エミリアの杖先から放たれた炎の槍が、魔物の脇腹を深々と貫く。続けざまに二発、三発。炎を帯びた槍が次々と突き刺さり、灰色の毛皮が焦げもせずに魔力で削られていく。魔物が苦悶の鳴き声を上げた隙を、モニカは見逃さない。魔法剣の斬撃が横薙ぎに魔物を切り裂きその巨体がぐらりと傾いだ。
リクは後方から仲間たちの表情や動きを注意深く観察していた。モニカの動きを見る限り、まだヒールをかけるほどではなさそうだ。ジャスミンも杖を構えたまま、リクと同じく静観している。
やがてエミリアのさらなるフレイムランスが魔物の動きを完全に止め、モニカの魔法剣が止めの一撃を加えた。ジャイアント・ラットは断末魔の叫びを上げて消滅し、床ならぬ草地に小さな欠片だけが残る。
「よし、片付いたわ」
エミリアが杖を下ろす。モニカも無言で盾を引き、呼吸を整えている。
リクは短剣を握ったまましばらくその場に立ち尽くしていた。釣り堀的な闘技場ではない、初めて体験した「本物の戦闘」その空気、音、迫力のすべてがリクの脳をしびれさせるような感覚を残していた。言葉が出ない。心臓がまだ早鐘のように打っている。
(これが、ホンモノの戦闘なんだ――。安全な闘技場とは全然違う――)
「リク君、大丈夫?」
エミリアが心配そうに覗き込んでくる。
「あ、ああ……うん、大丈夫」
リクはなんとかそれだけ答えた。声が少し震えていたかもしれない。
「『ヌミタリア・バタフライ』が出てくるのは、もっと森の奥よ。行きましょう」
エミリアが「気を取り直して」といった様子で言う。モニカは既に剣と盾を構え直し、森の方へと無言で歩き出していた。ジャスミンもリクに小さく頷きかけてから、その後を追う。
(気が進まないな――でも今さら、後には引けない)
リクは小さく息を吐いて、三人の後に続いた。
深い森の中へと足を踏み入れると、空気が一変した。ひんやりと湿った空気が肌にまとわりつき、木々の葉が頭上でざわめいている。足元には苔むした岩や朽ちかけた倒木が転がり、時折どこかで小枝が折れる音が森の静けさを切り裂いた。陽光は分厚い葉の層に遮られ、地面に届く頃には細切れの淡い光の斑点となっている。
モニカが先頭を歩き、その後ろにリク、左右にエミリアとジャスミンが並ぶ。四人とも言葉少なに足音をなるべく立てぬよう慎重に進んでいた。
その時だった――。
モニカとエミリアが同時に足を止める。二人の顔に緊張が走るのが、リクの位置からもはっきりと見て取れた。
「何かいるのか……?」
リクが小声で尋ねるより僅かに早く、かすかな羽音がリクの耳にも届き始めた。蜂の羽音のようで、それも一匹や二匹ではない。ブンブンという重低音が木々の間から近づいてくる。
「『ブラッディ・ビー』が四体……!」
エミリアが鋭く声を上げる。
次の瞬間、木々の陰から飛来したのは、一匹一匹が子犬ほどの大きさもある巨大な蜂の魔物だった。赤黒い縞模様の胴体、不気味に透き通った羽根、そして鋭く尖った針がギラリと光を放っている。四体が不規則な軌道を描きながら、リクたちへと迫ってきた。
「風属性の魔物よ! 針で刺してくる物理攻撃が主体だから、モニカはプロヴォークで引き付けて!」
エミリアが素早く指示を飛ばす。モニカは無言で首肯し、即座に呪文を唱え始めた。
「プロヴォーク!」
モニカの挑発の魔法が四体に炸裂する。しかし広範囲に散開している四体すべてを完璧に引き付けるのは難しく、うち一体がモニカの盾をすり抜けて後方へと流れてきた。
「ソイルランス!」
エミリアの杖から放たれた土の槍が、その一体を正確に貫く。魔物が空中でよろめき羽音が乱れた。さらに追撃のソイルランスがもう一発。四体の蜂を相手にしながら、エミリアは驚くべき精度で魔法を撃ち分けている。
だがそれでも、槍の雨をかいくぐった一体が、リクの方へと一直線に向かってきた。視界いっぱいに広がる巨大な蜂の姿。腹の針が迫る。
リクの足が勝手に一歩二歩と後ろへ下がった。頭では「逃げてはいけない」と理解しているのに、体が言うことを聞かない。心臓が耳元で破裂したように騒々しく鳴り響く。
「リク君!」
エミリアの声が飛ぶ。それより早く、横合いから踏み込んだモニカの魔法剣が、リクに迫っていた蜂を薙ぎ払った。続けざまにエミリアのソイルランスが、その蜂を地面に叩き落とす。
リクは尻もちをついていた。自分でも気づかぬうちに腰が抜けていたらしい。短剣はまだ手に握られているが、盾はだらりと垂れ下がっている。
(俺、今――逃げかけてた――)
恥ずかしさと情けなさが、胸の内で渦を巻く。だがそんなことを悠長に考え、悔やんでいる暇はなかった。戦闘はまだ続いている。残りの三体がモニカの盾に群がり、その針で何度も突きを繰り返している。モニカが少しずつダメージを受けていく。
(立て! 立てよ、俺――!)
リクは奥歯を噛みしめ、震える足に力を込めて立ち上がった。そして短剣をかざしモニカへ向けて叫ぶ。
「ヒール!」
白い光の粒子がモニカの全身を包み込む。同時にジャスミンも回復魔法を発動させていた。二人分の回復の光がモニカを照らしていた。
その時、モニカが抑えきれなくなった一体がエミリアの方へと流れた。巨大な蜂が急降下し、エミリアの肩口を針がかする。エミリアの魔法コーティングによる魔力の膜が衝撃を吸収するも、ダメージは完全には避けられていない。
リクはすかさず短剣をエミリアへと向け、呪文を唱えて叫ぶ。
「ハイヒール!」
より強い輝きがエミリアを包み、彼女のHPをより大きく回復させる。ジャスミンが回復するまでもなく、エミリアはすぐに体勢を立て直した。
「ありがとう! これで決める!」
エミリアが叫び返し、杖を高く掲げる。
「ソイルランス!」
土の槍が連発され、残る蜂たちを次々と貫く。モニカの魔法剣が最後の一体を地面に叩き伏せる。ブラッディ・ビーの群れは断末魔の羽音を残して消滅し、あとにはコモン素材の欠片だけが散らばった。
「……はあっ、はあっ」
リクは荒い息を整えながら膝に手をついた。短剣を握る手がまだかすかに震えている。だが、逃げなかった。途中で逃げかけたが、何とか踏みとどまって最後まで戦った。
「みんな無事ね。よかった」
エミリアが息を整えながら言う。ジャスミンも小さく安堵の息を漏らし、モニカは無言で盾を引き上げた。
だがその安堵も束の間だった。木々の奥から、一回りも二回りも大きな羽音が響き始める。四人の視線が一斉にそちらへと向けられた。
現れたのは、ブラッディ・ビーの倍はあろうかという巨大な蜂だった。胴体の縞模様はよりどす黒く、羽根は不気味に透き通り、その針は短剣のように長く鋭い。周囲の空気が震えるほどの羽音を響かせながら、ゆっくりとリクたちの前にその巨体を現した。
「あ! 女王個体である『ブラッディ・クイーン・ビー』よ! この個体も討伐すると『聖核のかけら』を落とすわ!」




