初代聖授師の記録
大聖堂の地下へと続く石造りの階段を、係官に先導されつつ、リクはエミリアと共に慎重に下りていく。壁に等間隔で取り付けられた燭台の灯りが、冷たい石段をぼんやりと照らし出していた。ひんやりとした空気が肌にまとわりつき、かすかな黴臭さが鼻腔をくすぐる。どれほどの年月が、この場所が造られてから流れたのだろう――そんなことを考えながら一段一段と、踏みしめる足音だけがやけに大きく響いた。
階段を下りきるとそこには鉄柵で仕切られた分厚い木の扉が待ち構えていた。先導する壮年の係官が、腰の鍵束をじゃらりと鳴らしながら鍵穴に差し込む。重々しい音を立てて扉が開かれると溜め込まれていた冷気がふわりと流れ出てきた。
「どうぞ、こちらでございます」
係官に促されて一歩踏み入れたリクは、思わず息を呑んだ。壁一面に並ぶ書架、書架、書架――。天井近くまでせり上がった棚には、分厚い書物や巻物が所狭しと並んでいる。空気中に漂う古い紙とインクの香りがこの場所がただの倉庫ではないことを雄弁に物語っていた。
「すごい数だな……」
「教主国が長年かけて集めた、貴重な文献ばかりですから」
係官はどこか誇らしげに答える。
エミリアも感嘆の声を漏らしながら、リクの後に続く。
係官は迷いのない足取りで書架の間を縫うように進み、やがて書庫の最奥にある小さな保管庫の前で立ち止まった。周囲の棚とは明らかに異なる、頑丈そうな鉄の扉。係官は再び鍵束を取り出すと、今度は二つの鍵を順番に差し込んで回した。
「この奥に、カヘエ様が遺されたとされる記録の一部が保管されております」
係官の言葉にリクの胸がわずかに高鳴る。鍵のかかった保管庫――それだけで、これから目にするものの重要性が否応なく伝わってくる。
鉄扉の向こうは、外の書架よりもさらに空気が冷たく感じられた。その片隅にひときわ古びた装丁の書物が数冊、まるで宝物のように丁寧に安置されている。焦げ茶色の革表紙は所々ひび割れ、ページの端は黄ばみを通り越して茶色く変色していた。
「リク君、これ……」
「ああ……」
リクは息を詰めて、そのうちの一冊を両手で慎重に取り上げた。ずしりとした重みが手のひらにのしかかる。300年前に同じように異世界から召喚された男が遺した記録――。
祈るような気持ちで表紙を開いた瞬間、リクは思わず眉をひそめた。
「なんだこれ……」
そこに記されていたのは確かに日本語だった。だが、それはリクが知っている日本語とは、あまりにもかけ離れていた。文字の一つ一つが激しく崩され、筆の勢いのままに流れている。続く文字はまるで模様のようにうねり、単語の切れ目すら判別できない。
「読めそう?」
エミリアが心配そうに覗き込んでくる。リクは答えず、ただ必死にページを繰った。
かろうじて「山」や「川」といった単純な漢字が判別できる箇所もある。だが、その前後はやはり、激しく崩れた文字の奔流に飲み込まれてしまっている。たまに「の」や「を」といった平仮名らしき文字が顔を覗かせるが、それもごく一部。文章として意味を掴めるような箇所は、ほとんど見当たらなかった。
「……崩し字、っていうのか? 昔の人が書いてたやつだ。江戸時代の……」
「リク君の国の、古い文字なの?」
「多分、そうなんだと思う。でも俺には……」
悔しさがこみ上げてくる。同じ日本人なのにたった300年の隔たりが、これほどまでの壁を作っているのか。だが諦めきれずに、さらにページを繰る。
その時、リクの指が不意に止まった。
「……読め……る……?」
他のページより幾分か崩れの浅い文字列がそこには並んでいた。全てではない。だが、断片的に意味を拾える箇所が確かに存在していた。
「……女王蜂……討ち……結晶……儀は成功……大いなる手柄……」
声に出して読み上げると、エミリアが目を丸くした。
「読めるのね!?」
「ちょっとだけ……ここだけ、なぜか読みやすいんだ」
興奮で手が震えるのを感じながら、リクはさらにページを進める。するとまた別の箇所で、比較的読みやすい文字列が目に飛び込んできた。
「こはき犬……討ち……赤き結晶……儀は成功……品……持ち帰る……」
「女王蜂に、こはき犬……? 女王蜂っぽい魔物なら知ってるけど……」
エミリアが首を傾げて発した言葉に、リクは思わず大声を出しかけた。係官がいることを思い出したリクは声を落としつつ、しかし感情を抑えきれずに囁く。
「その魔物について、後で教えて」
「うん」
その他の部分は、エミリアにもピンと来ない様子だった。犬っぽい魔物もいることにはいるらしいが、その魔物のことを指すのかどうか判然としないという。それでも読める部分があるという事実だけで、リクは胸の奥が熱くなっていた。この文字の向こうに、確かにカヘエという一人の人間が存在していたその証を、今まさに目の当たりにしているのだ。
「儀は成功って……儀式は成功って意味かも。絆の儀式について書いてある……のかもしれない」
「すごい! カヘエ様が儀式について書いてらっしゃったのね!」
エミリアはその場で手を合わせて目を閉じ、祈りを捧げる様子を見せる。
リクもまた感動に身を震わせていた。エミリアがつい先ほど説明してくれた内容、「レア魔物にトドメを刺し、聖遺物を持ち帰り、儀式を行う」という一連の流れを、約300年も昔の先人も行っていたかもしれないのだ。もちろん、「リクの推測が当たっており、この記述内容が本当に『絆の儀式』を指しているなら」という条件付きではあるが。
そのとき、カヘエの署名とおぼしき文字がリクの目に留まった。
「嘉兵衛……これってまさか! カヘエさんって名前、こういう漢字で書くのか!」
係官が同席しているにも関わらず、リクは興奮を抑えきれなかった。「嘉兵衛」だと分かっただけ、ただそれだけなのに、より一層この人物の輪郭がはっきりしてきたかのようにリクは感じていたのだ。
さらにページをめくると、繰り返し登場する二つの名前に気づいた。
「めありい……りんじい……」
最初は何のことか分からなかった。だが、四度、五度と目にしているうちにリクの中で一つの確信が芽生える。
「メアリー……リンジー……か? 多分、女性の名前だ」
「メアリーにリンジー……。嘉兵衛様の仲間だったのかしら」
「多分な。こんなに何度も名前を書くだなんて、よほど親しかったんだろう」
(――あるいは俺で言うところの、エミリアみたいな存在だったのかもしれないな)
そんな想像が、自然と胸の内に浮かんでくる。嘉兵衛という先人はリクと同じように異世界へ召喚され、同じように仲間と出会い、同じように魔物と戦い、そしてそれらの一部を記録として書き記した。約300年の時を隔ててリクは今、その営みの一片に触れているのだ。
結局その日はそれ以上の収穫はなかった。だが、書物をそっと閉じたリクの胸の内には、不思議な満足感が満ち溢れていた。
(――もしかしたら嘉兵衛さんは、いつか自分と同じように日本から連れてこられる誰かのために、これを書き残したのかもしれないな)
根拠のない、ただの想像に過ぎない。だが300年後にこうして自分が実際この書物を開いていること自体が、その想像を裏付けているような気がしてならなかった。
(もしそうなら、律儀な人だったんだな――嘉兵衛さん)
会ったこともない先人に対し、柄にもなくそんな感慨を抱く。顔も声も知らない。ただ同じ境遇に生きた者として、確かな親しみのようなものが胸の奥に芽生えていた。
「また今度、時間のある時に来ます」
リクが係官に声をかけると、エミリアも隣で小さく会釈をした。
「かしこまりました。いつでもお越しくださいませ。鍵は私どもがお開けいたしますので」
「ありがとうございます」
係官の言葉に深く頭を下げ、リクはエミリアと共に書庫を後にする。石段を上がりながら、先ほど見た崩し字の羅列を頭の中で反芻するリク。
(次に来る時はもっと読めるようになってるといいけどな。それには、崩し字の勉強でもしないとダメか――? でも勉強って言っても、この世界でどうやって?)
大聖堂の一階へと戻ると、窓から差し込む午後の日差しがやけに眩しく感じられた。外では今日も、建国記念日の余韻に浸っているのか、人々の賑やかな声が聞こえている。
「収穫ばっちりって感じ?」
エミリアの問いに、リクは小さく笑って答えた。
「少しだけ、な。でも、あの記録が俺と同じ日本人によって書かれたってだけでなんていうか……」
「うん?」
「心強い、のかもしれない。300年前に同じ立場の男がいたってだけで」
エミリアは何も言わずただ優しく微笑んだ。その笑顔が、今日はなぜかいつも以上に温かく感じられた。
リクが先ほどのやり取りを思い出して尋ねる。
「そうそう、女王蜂っぽい魔物について教えてよ」
するとエミリアは意味深な笑みを浮かべて答えた。
「すぐに実物を見ることになると思うわ。その時に自分の目で実際に見た方が理解が早いかも」
「え? まさか、そいつが討伐対象とか、そういう感じ?」
「まあ、そんなところ。だけど、大丈夫。私や他のメンバーたちが、しっかりリク君をサポートするから」
(普通の蜂ですら恐ろしいのに、魔物とか――。大丈夫なわけないだろ――)
とはいえ、当然リクも態度には出さない。柔和な笑みを浮かべるエミリアを見て、リクは苦笑しつつ言う。
「まあ、俺なりに頑張るよ」
「うん、よろしく。明日からは座学だけじゃなく、いよいろ実践的な訓練も入れていくから」
「うう……お手柔らかにお願いします……」
正直あまり気が進まないリクだったが、同じ立場で奮闘した嘉兵衛について少しだけ理解を深めたこともあり、「自分もちょっとだけ頑張ってみるか」という気にはなりつつあった。「レア魔物にトドメを刺し、聖遺物を持ち帰り、儀式を行う」という流れを、もし嘉兵衛がやっていたのだとしたら、「自分も同じように、やってみようかな」と、ほんのちょっとだけ思ったのだ。
ほんのちょっとだけ、ではあったが。




