白き隻眼
その後、エミリアやリクたちは、指揮官格の撃破を別動隊に報告した。話し合いの末、念のためにと、数日間、森に留まって周辺のパトロールを続けることになった。
そして三日目の朝――。
朝靄がまだ森の奥深くに立ち込めている頃、リクたちは野営地からほど近い小川のほとりで、それぞれ身支度を整えていた。木々の間から差し込む朝の光は柔らかく、水面にきらきらと反射して、まるで無数の小さな宝石が流れているかのようだ。
ブレンダは川辺にしゃがみ込み、手にした水筒を静かに水に浸している。その表情は穏やかで、この数日の疲れも少しずつ癒えてきたように見えた。
エミリアは野営地の焚き火の跡を確認したり、周囲にゴミが落ちていないか確認したりしている。ロレッタは木の幹にもたれかかり、腕を組んだまま、周囲を警戒し、鋭い視線を走らせていた。モニカは川のやや上流の方で、黙々と装備の手入れをしている。
リクはというと、川辺の平たい岩に腰を下ろし、昨日の戦いで使った短剣の状態を確認していた。柄の部分に少し傷がついているが、刃こぼれはない。この短剣にもすっかり慣れたものだ、とリクは内心で思う。最初の頃は、こんな武器を手にすること自体が信じられなかったのに――。
その時だった。
「く、熊……! それも、真っ白な……!」
ブレンダの悲鳴に近い声が、朝の静寂を切り裂いた。リクはとっさに顔を上げる。ブレンダは水筒を抱えたまま後ずさりし、その顔は驚愕の色に染まっている。彼女の視線の先を追うと、木々の合間からそれは姿を現した。
全身が雪のように白い、大柄な熊型の魔物だった。体長は二メートルを優に超えている。ずっしりとした巨体が、苔むした地面を踏みしめるたびに、低い地響きのような音が伝わってくる。その個体の片目は傷でふさがっており、またその首元には、毛並みに埋もれるようにして、小さな宝玉のようなものが淡く光り輝いていた。まるで、白い毛皮の中に一滴の光が宿っているかのようだ。
「パトリアーチ・ベア! 色が白いからレア個体よ……!」
エミリアが叫ぶ。彼女はすでに杖を構え、その声には明らかな緊張が滲んでいた。
「で、でかいな……!」
リクも思わず声を漏らす。以前、湿地帯で戦ったポイズン・トードも十分に大きかったが、この白熊はそれ以上だ。しかも、その体からは、ただの雑魚とは明らかに異なる威圧感が放たれている。
「うん、強敵だから油断しないで! ……それに、あの首元の玉……ああいう色は珍しいわ」
エミリアが訝しげに目を細めて、言葉を続ける。
「珍しいことは珍しいけど、後回しね。今は目の前の相手に集中よ」
「行くぞ!」
ロレッタが短く叫ぶ。その声に、その場の空気が引き締まった。
「私が引きつける」
モニカが静かに告げ、前に出る。その手には、いつもの大きな盾と魔法剣。長い三つ編みが、朝の光を浴びて艶やかに揺れた。
「……『プロヴォーク』!」
淡い光がモニカの体を包み、白熊の視線が彼女へと向く。白熊が低く唸り、巨体に似つかわしくない素早い足取りで、モニカへと迫る。そして、目にも止まらぬ速さで、前脚を振り下ろした。
モニカが盾で、その一撃をまともに受け止める。鈍い音が森に響き、彼女の足が苔の上をわずかに後退した。だが、モニカは体勢を崩さない。すぐさま魔法剣を横薙ぎに振るい、白熊の胴を切りつける。魔力を帯びた刃が白い毛並みを逆立てたが、白熊はまるで意に介した様子もなく、再び前脚を振り上げる。
リクたちはモニカの背後へと速やかに駆け寄る。そして、エミリアとロレッタが同時に杖を掲げ、呪文を唱えた。
「エアランス!」
二人の放った緑色の光の槍が、白熊の巨体を貫く。風属性の魔法は、この白熊にとって弱点であるらしく、その巨体がわずかにのけぞった。リクとブレンダは、モニカの消耗度を素早く見極め、回復魔法をかける。
「ハイヒール!」
ブレンダの白い光がモニカを包み、彼女の疲労が和らいでいく。リクも短剣を構え、いつでも前に出られるよう準備を整えていた。
だが、次の瞬間だった。白熊が大きく口を開け、地を震わせるような咆哮を放った。
「モニカの様子が……!」
エミリアの声にリクも異変に気づく。モニカの体が、まるで固まったように動きを止めているのだ。盾を構えたままの姿勢で、ぴくりとも動かない。
「麻痺、か……!」
ロレッタが舌打ちする。その目が、素早くリクを捉えた。
「聖授師、ガイダンスキュアを!」
言われるよりも早く、リクは短剣をモニカに向け呪文を唱えていた。
「ガイダンスキュア!」
白い光の粒子がモニカを包み、麻痺特有の硬直がじわじわと解けていくのが見て取れる。だが、完全な復帰にはまだ少し時間を要する。その隙を突くように、白熊が後衛のリクたちの方へと標的を変えた。
「まずい……!」
ロレッタが叫ぶ。白熊の突進をまともに食らえば、後衛の面々は大ダメージを避けられない。特にエミリアは既に攻撃魔法の詠唱に入っていて、無防備な状態だ。モニカは、まだ動けない。
リクの体は、考えるより先に動いていた。
「みんな、下がって!」
リクは叫び、反射的に前へ出る。国王から支給された軽い盾を構え、迫る白熊の一撃を真正面から受け止めた。
衝撃が腕から全身に伝わり、視界が白く点滅する。歯を食いしばり、足を踏ん張る。魔法コーティングのおかげで、目立った外傷は負わずに済んだ。だが体力がごっそり削られる感覚があった。重い。とにかく、重い。
「リク君!」
エミリアの声が、遠くで聞こえる。
「くっ……!」
必死に盾で白熊を押さえつけるリク。白熊の巨大な前脚が、盾越しにのしかかってくる。腕が悲鳴を上げ、膝が震える。だがここで退けば、後ろのエミリアたちが危ない。
(痛みは、それほどない。でも――きつい――!)
その時、リクの背後から切迫した声が飛んだ。
「今すぐ回復を……! 『ハイヒール』!」
ブレンダの回復魔法が、即座にリクを包む。温かな白い光が全身を駆け巡り、削られた体力がみるみるうちに戻っていく。体が軽くなるのを感じながら、リクは歯を食いしばって姿勢を立て直す。
「助かった……!」
リクは短く礼を言うと、全力で白熊を押さえつけつつ、隙を見て短剣で斬りつけた。
「……『ホーリーランス』!」
エミリアの放った純白の光の槍が、白熊の横腹を貫く。ロレッタのエアランスも炸裂し、緑色の光が白い毛皮を打ち据えた。白熊が苦悶の声を上げ、その巨体が大きく揺れる。
ちょうどその時、麻痺から完全に復帰したモニカが、再びリクの真横へと躍り出た。
「もう一度、引きつける……! 『プロヴォーク』!」
白熊の注意が、再びモニカへと戻る。リクたちはその隙に後方へと下がり、態勢を立て直した。
「今よ! 畳みかける!」
ロレッタの号令とともに、彼女とエミリアの魔法が、立て続けに白熊へと浴びせられる。緑色と純白の光が交差し、白熊の巨体を何度も貫く。モニカが盾のように立ち続け、暴れる白熊の突進を食い止める。その姿は、まさに鉄壁だった。
「そろそろじゃないか」
ロレッタがそう呟くと、モニカは振り返らずに小さく頷いた。
(いよいよ、トドメの時か――)
「リク君、今よ。トドメを刺して!」
エミリアが叫ぶ。いつしか白熊の動きが、目に見えて鈍くなっている。ついに耐えきれなくなったように、その巨体がその場に崩れ落ちた。
「おう!」
リクは短剣を握り直し、駆け出す。もはや恐怖はなかった。仲間たちがここまで道を切り開いてくれたのだ。あとは、自分が決めるだけだ。
白熊の急所へ、リクは短剣を突き立てる。淡い白い光が弾け、断末魔とともに、白い巨体がうつ伏せに倒れて消滅した。
残された場所に、淡い緑色に輝く結晶が転がっている。首元にあったはずの宝玉は、跡形もなく消えていた。
「あ! 緑核のかけら……!」
エミリアが駆け寄り、結晶を拾い上げる。その声には、驚きと喜びが混じっていた。
「やった……! レア素材ですね!」
ブレンダが歓声を上げる。リクも、思わず頬が緩むのを感じた。
「こいつも落とすのか……!」
リクが喜色満面で言うと、エミリアは頷いた。
「そうみたい、結果的によかったわ。でも……あの玉の方は、結局消えちゃったわね。盗賊がいたらなぁ……」
エミリアがふと呟いた言葉に、リクは首を傾げる。
「盗賊って、そんなこともできるの?」
「ええ。まあ、詳しいことは今度ね」
エミリアは微笑みながらそう言って、結晶を布に包んで大事にしまった。




