南の森①
翌朝。リクが目を覚ましたのは、まだ夜明け前の薄闇の中だった。窓の外は深い藍色に染まり、東の空がようやく白み始めたばかりだ。寝台から起き上がると、彼は冷水で顔を洗い、支給された白い軍服風の衣装に袖を通した。暗い赤のマントを羽織り、腰に短剣を帯びる。軽い盾も忘れずに手に取った。鏡のない部屋で、自分の姿を窓ガラスに映して確認する。そこには、いつの間にかこの世界の装いにすっかり馴染んだ自分がいた。
(少しは様になってきたかな)
そう思いかけてすぐに打ち消す。まだここでの生活は始まったばかりだ。気を引き締めなければ。
リクは部屋を出ると、朝の冷気が廊下に満ちているのを感じた。兵舎の窓から差し込む薄明かりが、石畳の廊下に淡い光の帯を作っている。彼は足音を忍ばせながら、集合場所である兵舎の正門前へと向かった。
正門前に着くと、すでにエミリアとブレンダの姿があった。エミリアは濃紺のローブに身を包み、とんがり帽子を小脇に抱えている。その傍らに立つブレンダは、純白の神官服の上に防寒用の薄手のショールを羽織っていた。朝露に濡れた石畳の上で、二人は何やら小声で打ち合わせをしている。
「おはよう、リク君。早いのね」
エミリアが、リクの気配に気づいて振り返る。その眼は、朝の光を受けて澄んだ輝きを放っていた。
「おはよう。エミリアもブレンダも、早いんだな」
「緊張して、あまり眠れなかったんです」
ブレンダが控えめに笑う。その顔には、確かに少し寝不足の色があった。
「私もよ。今日から本格的な調査任務だから、気が張って当然ね」
エミリアはそう言って、手にした水筒から温かい茶を一口飲んだ。それから、リクの顔を改めて見つめ、少し声を落として言う。
「そうそう、リク君に伝えておかなきゃいけないことがあったわ。今日の調査任務、パーティの編成が少し変わるの」
「編成?」
リクが聞き返すと、エミリアは小さく頷いた。
「モニカと、ロレッタがパーティに加わってくれることになったわ」
「ロレッタさんが!? 別パーティの班長に任命予定とか、国王陛下から言われてなかったっけ?!」
リクは思わず声を上げた。
「正式に変更となったの。陛下からの直々のご命令よ。ロレッタは単独での討伐実績も豊富だから、私たちとしても心強いわ。それに……」
エミリアはそこで言葉を切り、少しだけ苦笑を浮かべた。
「彼女自身も、昨日の謁見の後で陛下に直談判したらしいの。『私が聖授師パーティに同行して、戦いぶりを直接見極める』って」
「ロレッタさんが、自分から……」
リクはますます困惑した。あれほど異世界人に対して敵意を向けていた彼女が、なぜ自ら同行を申し出たのか。その心境の変化が、リクには想像もつかない。
「まあ、理由はどうあれ、戦力が増えるのはいいことよ」
エミリアはそう言って、リクの肩を軽く叩いた。
その時、兵舎の正門から一人の女性が歩み寄ってきた。モニカだ。彼女はいつもの鎧姿に大きな盾と魔法剣を背負い、長い黒髪を一本の三つ編みにまとめている。朝の光を受けている彼女の顔は、いつもと変わらず無表情だった。
「おはよう」
モニカは短くそう言うと、リクに一度だけ小さく会釈をした。リクも「おはよう」と返す。これまで何度も一緒に戦い、共に過ごしてきた相手だ。さすがに、リクもモニカの無口さには慣れてきていた。
「今日はよろしくお願いします、モニカさん」
ブレンダが丁寧に頭を下げる。モニカは無言で小さく頷き返した。
すると、そこへ――。
兵舎の玄関からもう一人の女性が姿を現した。燃えるような赤髪のショートカットに、鋭い切れ長の目。黒を基調とした旅装束に身を包み、腰には短杖を帯びている。ロレッタだ。
彼女は一同の前まで歩み寄ると、一瞬だけリクに視線を送った。それから、エミリア、ブレンダ、そしてモニカを順に一瞥し、静かに口を開く。
「ロレッタよ。今日はよろしく」
それだけ言うと、彼女は腕を組んで、馬車が待つ方へと歩き出そうとする。その背中に、リクは慌てて声をかけた。
「あの、ロレッタさん。今日はよろしくお願いします」
ロレッタは足を止め、ゆっくりと振り返った。その目が、まっすぐにリクを捉える。昨日の謁見の時とは違い、その視線には明確な敵意は感じられなかった。だが、まだどこか距離を置くような、何かを探るような気配が感じられる。
「ロレッタ、でいい。呼び捨てで」
「え……あ、了解」
「現場の士気を下げないかどうか、私は監視の意味でついていくだけだ。そう心得ておくように」
そう言って、ロレッタは再び背を向ける。その声は淡々としていたが、そこにあまりとげとげしさが感じられないようにも、リクには思えた。
「この国で一、二を争う実力者が同行してくれるのは、本当に心強いわ」
エミリアがリクの隣で穏やかに言う。その言葉に、ロレッタは顔を前に向けたまま応じた。
「……その言葉、そっくりそのままお返しするわ。聖属性攻撃魔法の使い手がいるだけで、討伐の効率は段違いだという話だから」
言い終えると、彼女はさっさと馬車に乗り込んでしまった。その後を、モニカが無言で追う。
(まあ――少しは話せたかな。でも、やっぱりまだ壁がある感じだな)
そしてリクも、エミリアとブレンダに続いて馬車へと向かった。
(現場への道中は、多少気まずくても何とかなるはず。モニカさんと接してきて、無口なタイプの人に少しだけ慣れた部分があるから)
そんなことを考えながら、リクは馬車の座席に腰を下ろした。向かい側にはロレッタが座り、窓の外へと視線を向けている。その横顔は、やはりどこか近寄りがたい。だが、リクは気にしないようにして、エミリアやブレンダと言葉を交わした。
*
馬車は教主国の首都を出て、南へと向かう街道を進んだ。道中はしばらく穏やかな田園風景が続いたが、やがて街道は徐々に狭まり、周囲の木々が次第にその密度を増していく。南の森林地帯が近づいているのだ。御者は慣れた様子で手綱を操り、馬車は順調に目的地を目指していく。
やがて、馬車は街道の終点ともいえる、小さな広場に停まった。ここから先は、獣道しかない。リクたちは馬車を降り、それぞれ装備を最終確認する。
「ここから先は徒歩よ。足元に気をつけて」
エミリアの言葉に一同が頷く。魔法コーティングも全員済ませてあり、準備は万端だ。モニカが先頭に立ち、大きな盾を背負い直した。その後に他のメンバーが続く。ロレッタはモニカのすぐ後ろを歩きながら、時折、周囲の木々へ鋭い視線を走らせていた。
森の中は、思っていた以上に薄暗かった。頭上を覆う木々の枝葉が、陽光をほとんど遮っている。木漏れ日がわずかに差し込むものの、その光も苔むした地面に届く頃には、相当に弱まっていた。空気はひんやりと湿り気を帯び、足元の落ち葉が湿った音を立てる。遠くからは、小鳥のさえずりとは到底思えない、何か別の――低い、不気味な羽音のようなものが聞こえてきた。
「結構、深い森だな」
リクが思わず呟くと、隣を歩くエミリアが小さく頷いた。
「そうね。ここは教主国でも特に古い森だから、魔物の数も元々、比較的多めなの。でも今日の目的は調査だから、あまり深入りしなくても大丈夫よ」
「なるほど」
リクは短く返した。その時、先頭を歩くモニカが足を止めた。その視線の先には、小さなスライムが数体苔の上でのんびりと動いている。
「雑魚ね」
モニカは短くそう言うと魔法剣を抜き、あっという間にスライムたちを斬り伏せた。続いて、ホーンラビットが数体、藪の中から飛び出してきたが、これもエミリアのフレイムランスとモニカの魔法剣によって、瞬く間に撃破される。リクの出番は、ほとんどなかった。
「相変わらず、モニカさんの腕は確かだな」
リクが感心して言うと、モニカは振り返らずに「慣れてるだけ」と短く返した。
「斥候として、盗賊がいてくれれば調査ももっとはかどるんだけど」
エミリアが、やや残念そうに言う。ブレンダも同意するように頷いた。
「そうですね。盗賊の索敵能力は、調査任務ではとても心強いですから」
「我が国には盗賊が少ないから致し方ない。隣国のヴィドコーニア共和国には多くてな。大規模な調査の時なんかは、盗賊の応援を頼むこともあるんだが」
モニカが、珍しく長めに言葉を返す。リクはその言葉に、この世界の国々の関係性に思いを巡らせた。
(盗賊が少ない国と多い国があるのか。ヴィドコーニア、か――。俺もいつか行くことがあるのかな)
そんなことを考えていると、いつしかモニカのすぐ隣を歩いていたロレッタが、突然、手を上げて全員を制止した。その表情は、これまで以上に険しい。
「気配を感じる。それも……多い」




