街道の悲鳴
翌朝、リクたち四人は早々に小屋を発ち、教主国の首都へ戻る途についた。山間の街道は朝の光に照らされ、両側に広がる草原には夜露がきらきらと輝いている。馬車の窓から差し込む陽光は柔らかく、リクは座席に深く身を預けながら、昨日の戦いの疲れをゆっくりと癒していた。
ブレンダはリクの向かいに座り、手にした小さな聖典を静かにめくっている。時折、その指が止まり何かを考え込むように視線を宙に漂わせる。エミリアは御者の隣に座って街道の先を見つめ、モニカは馬車の隅で目を閉じ、呼吸を整えている。
「リクさん」
ブレンダが顔を上げ、小声で話しかけてきた。
「昨日の儀式で得た力のことなんですが、もう少し詳しく調べてみたくて。教主国に戻ったら、大聖堂の書庫で調べてみるので、また練習に付き合っていただいても、いいでしょうか?」
「ああ、もちろん。俺でよければいつでも」
リクが答えると、ブレンダはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます。実は、聖属性付与の効果時間やどれくらいの頻度で使えるのか、まだ正確には分かっていなくて。実戦で使う前に、ちゃんと把握しておきたいんです」
「慎重だな。助かるよ」
リクが素直にそう言うと、ブレンダは少し照れたように俯いた。
エミリアが御者に何か短く指示を出し、それからリクの方へ振り返る。
「この街道、普段は比較的安全なんだけど……最近は魔物の出現が増えてるから、油断はできないわ。あと半日もすれば首都に着くけど、それまで気を抜かないでね」
「分かってる」
リクは頷いた。この世界に来てから、彼の中の「安全」の基準はすっかり書き換えられてしまった。街道のそばですら魔物が出ることもある。都市から一歩でも外に出れば、そこはもう「絶対安全」とはいえない。野生の魔物はいつどこから現れるか分からない――。それは、リクが身をもって学んだことだった。
馬車は順調に街道を進んでいた。時折、対向から荷車や行商人の一団とすれ違う。教主国の首都へ向かう道は、この時間帯にしては人通りが少ないようにも思えたが、リクは特に気に留めなかった。
やがて、前方の街道が緩やかに左へとカーブする地点に差し掛かった時だった。
「……何か聞こえるわ」
御者の隣に座っていたエミリアが、急に背筋を伸ばした。その声には明確な警戒の色が混じっている。
「悲鳴?」
リクが身を乗り出すと、エミリアは無言で頷いた。モニカも目を開き、すでに魔法剣の柄に手を添えている。ブレンダは聖典を閉じ、杖を握り直した。
「止めて!」
エミリアの鋭い声に、御者が手綱を引く。馬車が速度を落としやがて完全に停止した。四人は馬車を降り、街道の先へと耳を澄ませる。
風に乗って、確かに聞こえてくる。悲鳴や怒声、そして金属がぶつかり合うような音。複数の人間の声が、明らかに切迫した状況にあることを告げている。
「行くわよ」
エミリアの言葉に全員が頷いた。リクは短剣を抜き、軽い盾を腕に通す。四人は街道を駆け出した。走りながら、それぞれ手早く全身と装備に魔法コーティングを施していく。
カーブを曲がった先の光景を目にした瞬間、リクは息をのんだ。
街道の脇に荷馬車が一台停まっている。その周囲を、大勢の蜘蛛型の魔物が取り囲んでいた。体長は三十センチほどだろうか。ずんぐりとした胴体に、おびただしい数の細い脚が生えている。体色は灰色がかった茶色で、それが十匹近くひしめき合っている。
「ヌミタリア・スパイダーよ! 土属性の魔物だわ!」
エミリアが叫ぶ。
その中央で三人の女性が、必死に応戦していた。
一人は中年の女性魔導士。濃紺のローブを身にまとい、杖を振るっては火属性の魔法を放っているが、その動きは明らかに鈍い。MPが尽きかけているのだろう。放たれる火の槍も、その頻度がめっきり落ちている様子だ。
その前にいるのは、同じく中年の女性魔法剣士。鎧に身を包み盾を構えて蜘蛛の群れを押しとどめているが、その肩は大きく上下し呼吸も荒い。顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。
そしてその隣では、白髪交じりの中年女性神官が、杖を握りしめて必死に回復魔法を唱えている。しかし、その声も掠れ、杖の先端が光るのみで粒子が出てきていない。
「神官様、回復を……!」
魔法剣士の女性が叫ぶ。
「すみません……。もう、ほとんどMPが……!」
神官の女性が悔しそうに答える。傍らの魔導士の女性も、同じく限界が近いようだった。
荷馬車の陰には震える村人たちが身を寄せ合っている。その中から、年老いた男性が切迫した声で言った。
「もう無理だ、荷は捨てて、逃げるぞ……!」
「でも、村のみんなが待ってる食料が……!」
別の村人が悲痛な声で応じる。どうやら彼らは、教主国から村へと食料を運ぶ途中だったらしい。荷を捨てれば、村へ食料を届けられなくなる。しかし、このままでは命が危ない。
その光景を目にした瞬間、リクの体は考えるより先に動いていた。
「助けよう! エミリア、モニカ!」
リクが叫ぶ。声は自分でも驚くほど自然に、力強く出た。
「言われなくても!」
エミリアが即座に応じ、杖を高く掲げる。モニカは無言で駆け出し、大きな盾を前面に構えながら蜘蛛の群れへと突っ込んでいった。ブレンダも杖を両手で握り直し、リクのすぐ後ろに続く。
「プロヴォーク!」
モニカの挑発の魔法が炸裂する。蜘蛛の群れの注意が一斉にモニカへと向き、その動きが止まった。彼女の盾に十匹もの蜘蛛が殺到する。だが、モニカは一歩も退かない。魔法剣を横薙ぎに振るい、まとめて数匹をなぎ払う。斬撃を受けた蜘蛛は悲鳴をあげると、明らかに動きが鈍くなった。
「フレイムランス!」
エミリアの炎の槍が蜘蛛の群れの中へと突き刺さる。爆ぜるような音とともに、モニカの斬撃で削られていた二、三匹が消し飛びコモン素材と化した。彼女の魔法は正確で、しかも村人たちや荷馬車には一切当たらない。リクはその精度に舌を巻きながら、仲間たちの消耗を注意深く観察する。
(モニカさんには、まだ余裕がありそうだ。エミリアも問題ないだろう。ブレンダは後方で待機してくれている、今は回復の必要はないな)
リクは短剣を握ったまま戦況を見極めると、弱った蜘蛛を探す。そして、弱り切った蜘蛛を一匹発見すると、そいつめがけて突進し、短剣の一撃を食らわせて仕留めた。
蜘蛛の数は多いが、一体一体は大した脅威ではない。モニカが引き付け、エミリアがフレイムランスで削る。この連携が機能すれば、時間はかかっても確実に殲滅できる。また、リクたちが成長したからか、モニカの脇をすり抜けた蜘蛛が襲い掛かってきても、リクとエミリアとブレンダは、あまり大きなダメージを受けずに済んでいた。リクはそうした蜘蛛たちを、素早く短剣で斬りつけていく。自らに飛びついてきた蜘蛛も、軽い盾で押しとどめながら、隙を見て短剣の一撃を食らわせた。
「フレイムランス!」
エミリアが続けて放った炎の槍が、モニカの周囲に群がる蜘蛛だけでなく、リクを襲う蜘蛛までも次々と貫いていく。
ブレンダは杖を高く掲げ、呪文を唱えた。
「メガヒール!」
柔らかな白い光が三人を包み込む。リクは、自分の体から疲労が消えていくのを感じた。モニカとエミリアの動きにも力が戻っている。
「ありがとう、ブレンダ!」
リクが礼を言うと、ブレンダは小さく頷いた。
いつしか蜘蛛は残り二匹となっていたが、その片方がエミリアのフレイムランスであっという間に消し飛ぶ。
モニカが最後の一匹を魔法剣で薙ぎ払い、蜘蛛の群れは完全に殲滅された。街道のあちこちに、コモン素材の欠片が散らばっている。戦闘は、リクたちの圧倒的な勝利に終わった。
リクは息を整えながら、短剣を鞘に収めた。大して手ごわい相手でもなかったが、それでも以前の自分なら、蜘蛛に飛び掛かられた時点で逃げ出していたかもしれない。今は、最後まで戦い抜くことができた。その事実が、リクの胸にささやかな自信を灯す。
「みなさん、無事ですか?!」
リクが声をかけると、荷馬車の周りにいた護衛役の三人が、安堵した表情を浮かべて近づいてきた。
「ああ、助かりました! ありがとうございます。あなた方はもしかして……」
中年の女性魔法剣士が、リクの白い軍服風の衣装と暗い赤のマントを見て、目を見開いた。傍らの魔導士と神官の女性たちも、同じように驚きの表情を浮かべている。
「聖授師様……!?」
白髪交じりの神官が、震える声で言った。
「はい。聖授師のリクです。こちらは魔導士のエミリア、魔法剣士のモニカ、そして司教のブレンダです」
リクが簡潔に紹介すると、三人は揃って深々と頭を下げた。
と、そのうちの一人――中年の魔法剣士の女性が、その場にへたり込むようにして膝をついた。肩で息をしながら、涙声で絞り出すように言う。
「た、助かりました……本当に、ありがとうございます……!」
隣で中年の魔導士の女性も杖を支えにしながら、力なく笑みを浮かべた。
「もう駄目かと思いました……この歳になると、昔みたいに動けなくて……」
その自嘲するような言葉にリクは何と返していいか分からず、ただ小さく首を振った。慰めの言葉を探したが、うまく見つからない。代わりにリクは努めて穏やかな声で言う。
「間に合ってよかった。荷馬車も、無事そうだな」
その言葉に、荷馬車の陰から出てきた村人の一人が、安堵の涙を拭いながら何度も頭を下げた。
「ええ、村のみんなのために仕入れてきた食料と品物、全部無事です……!」
(間に合ってよかった)
リクは内心でそう呟いた。遅かったらこの人たちは命を落としていたかもしれない。そう思うと、自然と背筋が伸びる思いだった。
その時だった。
一台の馬車が街道の向こうから通りかかり、リクたちの近くで速度を緩めた。その馬車の御者が、「何事か」と様子を窺っているのだろうことは容易に想像できる。
その馬車のことが気になるリクだったが、人と話している最中にきょろきょろとよそ見をするわけにはいかないので、そのままその場にいる人たちへの応対を続ける。
「本当に、何とお礼を言ったらいいか……」
白髪交じりの神官の女性が、掠れた声で言う。その手はまだかすかに震えていた。
「お礼なんて、いいですよ。俺たちは通りかかっただけですから」
リクがそう答えると、エミリアも微笑みながら頷いた。
「そうそう。困ったときはお互い様ですよ。それより、お怪我はないですか?」
「ええ、おかげさまで。何とか体は無事です」
魔法剣士の女性が、ようやく立ち上がりながら答える。その顔にはまだ疲労の色が濃く残っていたが、それでも安堵の笑みが浮かんでいた。
村人たちが口々に礼を言い、リクとエミリアはそれに一つ一つ丁寧に応じていく。ブレンダも神官の女性と言葉を交わし、モニカは黙って周囲の警戒を続けていた。
すると、リクの近くを通りかかった例の馬車は「問題なさそうだ」と判断したのか、再び速度を上げて首都の方向へと走り去っていく。
その馬車の開かれた窓から、一瞬だけ誰かの横顔が見えた。燃えるような赤い髪――。そして、こちらをうかがうようなそぶりを見せて――。
(ロレッタさんか? いや赤髪の人は他にいくらでもいるだろうし、恐らく別人だろう)
リクは内心でそう思ったが、どうにも引っかかるものがあった。あの闘技場での冷ややかな視線。嘉兵衛の名を聞いた時の微かな動揺。それらが頭をよぎる。
「リク君、どうかした?」
エミリアが隣で小さく首を傾げて尋ねてきた。リクは軽く首を振る。
「いや……何でもない」
そう言って、リクは気を取り直すと村人たちに向き直った。
「それじゃあ、俺たちも急ぐので。皆さんも気をつけて」
「はい! 聖授師様も、どうかご無事で!」
村人たちに見送られながら、リクたち四人は自分たちの馬車へと戻っていく。御者が既に準備を整えて待っていた。
馬車に乗り込みながらリクはもう一度だけ、あの馬車が消えていった方向を見やった。既にもうその姿は見えない。
(まあ、別人だろうな。気にする必要はない)
リクは自分にそう言い聞かせるように小さく呟くと、座席に深く腰を下ろした。かなり時間をロスした格好だが、後悔はない。結果として人を救えたのだから。
馬車が動き出し、街道を再び進み始める。窓の外を流れていく景色を眺めながら、リクはもう一度だけ心の中で呟いた。
(間に合って、よかった)
ただ、それだけだった。
エミリアが隣で小さく息をつく。ブレンダは先ほどから聖典を膝の上に開いたまま、何かを考え込むように視線を落としている。モニカは相変わらず無言で、馬車の隅に座っていた。
馬車は規則正しい蹄鉄の音を響かせながら、教主国の首都へと向かって進んでいく。
リクはふと窓の外へと視線をやった。西の空はゆっくりと茜色へと変わり始め、街道沿いの草原を柔らかな橙色の光が包み込んでいる。遠くの山々の稜線が、夕陽を受けてくっきりと浮かび上がっていた。馬車の揺れに身を任せながら、リクは先ほどの戦いのことを思い返していた。あの中年の魔法剣士や魔導士、そして神官の姿が頭から離れない。
「なあ、エミリア」
リクは隣に座るエミリアへと声をかけた。エミリアは膝の上に置いた手袋を整えながら、リクの方へと顔を向ける。
「どうしたの、リク君」
「さっきの人たち……あの歳で、あんなに苦戦するものなのか? モニカとかエミリアなら、もっと簡単に片付けてたよな」
リクの問いかけに、エミリアは少し困ったような笑みを浮かべた。その碧眼が一瞬だけ伏せられ、それからまたリクを見つめる。
「失礼な言い方になっちゃうけど……あの方たちも、若い頃はきっと強かったはずよ」
「そうなのか?」
リクが聞き返すと、エミリアは小さく息を吐いてから、ゆっくりと説明を始めた。
「この世界では、魔物と戦う力……攻撃魔法や魔法コーティングなんかは、二十代が全盛期なの。三十歳を過ぎた頃から少しずつ衰え始めて、三十五を過ぎる頃には、第一線を退く人もかなり増えてくるわ。もちろん個人差はあるけどね」
「じゃあ、四十くらいになると?」
「攻撃魔法やコーティングの力は、かなり弱くなってる人が多いわ。回復魔法はそこまで急激には衰えないから、神官はもう少し長く続けられるけど」
その言葉に、リクは一瞬言葉を失った。
「……そうなんだ」
リクは短くそう返した。頭の中では、先ほどの中年の魔法剣士や魔導士の姿が思い出されていた。肩で息をしながらも、それでも荷馬車の前に立ち続けていたあの姿を。あの魔法剣士の女性は、疲労で今にも倒れそうな体で、それでも盾を構えて蜘蛛の群れを押しとどめていた。あの魔導士の女性も、MPが尽きかけているにもかかわらず、最後まで杖を握りしめて炎の魔法を放とうとしていた。
「回復魔法も、多少は衰えるんだけど攻撃系ほど急激じゃないの。だから、40歳を過ぎても最低限の回復くらいはできる人が多い。さっきの神官様も、そうだったでしょ」
エミリアの言葉に、リクは頷いた。あの白髪交じりの神官も、掠れた声で必死に呪文を唱え続けていた。杖の先端は光っていたが、それでも十分な回復には至らなかった。だが、それでも彼女は最後まで戦い続けていた。
「じゃあ俺たちが今戦えてるのは……」
リクがそう言いかけると、エミリアは静かに頷いた。
「うん。前線に立てるのは実質20代の、ほんの十年ほどの期間だけ。だからこそ、若い魔導士たちが命懸けで前線に立ってる」
エミリアの声にはいつもの明るさの中に、どこか重みのようなものが滲んでいた。その声を聞きながら、リクは改めてこの世界の厳しさを実感する。自分たちが当たり前のように戦えているのは、ほんの限られた時期だけなのだ。
「でも、そんなに力が落ちるなら、どうしてあの人たちが護衛をしてたんだ?」
「若くて腕の立つ人は、都市の警備や討伐隊なんかから引っ張りだこなの。報酬も高いし、小さな村が荷運びのたびに雇えるとは限らないわ」
「ああ……なるほど」
「だから、普段は比較的安全な街道の護衛なら、第一線を退いた人たちが引き受けることも珍しくないの。今日みたいに、あれだけの数の魔物が一度に出てくる方が異常なのよ」
「そういうことか……」
リクは首を縦に振ると、深く息をついた。
「ちなみに」
エミリアはふと悪戯っぽく笑ってみせる。その表情は、先ほどまでの重たい空気を和らげるように明るい。
「聖授師の『絆の儀式による聖属性攻撃魔法の授与』だけは別。リク君のこの部分の力は、歳を取っても衰えないのよ」
「……それはそれで、なんか複雑だな」
リクは素直な感想を口にした。自分だけが特別に衰えないという事実に、何とも言えない居心地の悪さを感じる。
「ああ、俺だって他の能力は衰えるわけなんだよな? 回復魔法とか」
リクが念のため確認すると、エミリアはしんみりした表情で「そうよ」と答えた。その静かな肯定に、リクは思わず苦笑する。
(そりゃそうだよな。俺だけ完全に例外なんて、そんな都合のいい話があるわけない)
だが、それでもリクの頭の片隅では、先ほどの中年女性の「この歳になると、昔みたいに動けなくて……」という自嘲めいた声がいつまでも残っていた。
(誰だっていつかは第一線を退く日が来る。それでもあの人たちは、今日この瞬間も戦ってた)
その事実の重さを、リクはまだうまく言葉にできずにいた。




