ロレッタの影
その日の夜、リクは寝間着に着替えた後も、どうにも寝付かれずにいた。窓の外では半月が中天に差し掛かり、淡い月明かりが兵舎の廊下に細長い影を落としている。静まり返った建物の中、リクはしばらく自室のベッドに腰掛けていたが、やがて意を決して立ち上がった。
エミリアの部屋の扉を控えめにノックすると、すぐに内側から返事がある。どうやら彼女もまだ起きていたらしい。
「リク君、どうしたの? こんな時間に」
扉を開けたエミリアは、いつもの濃紺のローブではなく簡素な部屋着に身を包んでいた。ブロンドの長い髪は後ろで一つに束ねられ、昼間とはまた違った落ち着いた雰囲気を漂わせている。部屋の中からはハーブティーのような淡い香りが漂ってきた。
「ちょっと、話したいことがあって。今、大丈夫?」
「ええ、もちろん。入って」
エミリアは快くリクを迎え入れ、小さな丸テーブルのそばにある椅子を勧めた。壁際の本棚には魔導書や歴史書が整然と並び、窓辺には小さな花瓶に挿された白い花が、月明かりに照らされている。部屋の中央にあるランタンが、柔らかな橙色の光を二人の間に落としていた。
リクが腰を下ろすより先に、エミリアが穏やかな声で切り出した。
「ロレッタのこと、気になる?」
図星を突かれ、リクは苦笑いを浮かべる。
「……まあ、ほんのちょっと。だってこの国でトップクラスの魔導士なんだろ。無理なら仕方ないけど、できれば仲間につけたいじゃないか」
リクはそう言ってから、少しだけ居住まいを正した。
「それに、エミリアが言ってた『ロレッタさんが誰に対してもああいう態度ってわけじゃない』って、どういう意味だったんだ? そこだけでも聞きたい」
エミリアはしばし黙り込んだ。テーブルの上のランタンの灯りが、彼女の横顔に静かな陰影を描いている。やがて彼女は観念したように小さく息を吐き、リクの目をまっすぐに見つめた。
「国王陛下の御前での質問を見る限り、リク君も薄々気づいてるかもしれないけど……。主に『嘉兵衛様やリク君のような異世界人に対しては、ああいう態度をとる』って意味よ」
リクの胸の内では、驚きよりも先に「やっぱりそうか」という納得が広がっていた。昼間の謁見の場で、ロレッタがあれほど明確に儀式を拒絶したのだ。そこには何か明確な理由があるに違いないとは思っていた。
「これは、噂程度の話だから話半分に聞いてほしいんだけど」
エミリアはそこで一旦言葉を切り、慎重に言葉を選ぶような様子で続けた。
「根拠の薄さから、国王陛下の御前では言えなかったの」
それから彼女はランタンの灯りを見つめながら、ゆっくりと語り始めた。
「ロレッタの家系にはね、『先祖が、300年前の聖授師……嘉兵衛様のパーティにいたかもしれない』っていう言い伝えがあるらしいの」
「嘉兵衛さんの、パーティに……」
リクは思わず繰り返した。嘉兵衛がこの世界でパーティを組み共に戦った仲間たちがいたこと自体は、これまでの断片的な情報から想像できていた。だがその仲間の子孫が、今この国でトップクラスの魔導士として生きている可能性があるとは。
「あくまで口伝えだけどね。真偽は誰にも分からない。何しろ300年も前の話だし、当時の記録もほとんど残ってないから」
エミリアの声は、いつもの快活さを抑えた落ち着いたものだった。
「もしそれが本当なら、なおさら複雑よね。嘉兵衛様は道半ばでこの世界から姿を消されたわけだし……」
リクは何も言えずに、ただエミリアの言葉の続きを待った。
「そして、ロレッタの家は代々『嘉兵衛様は帰りたいと呟き、そのあと元いた世界へ帰られた』というようなことも言い伝えてるらしいの。もちろん国王陛下も以前仰ってたとおり、事の真相は誰にも分からないんだけど」
エミリアはそこで顔を上げ、リクの表情を窺うように見つめた。
「ただ、ロレッタはそれを信じてるらしくて」
「なるほど、そういうことか……」
「真実はともかく、ロレッタの家系がその話を大事に語り継いでるなら、異世界人に対して複雑な感情を抱くのも、不思議ではないかなって思う」
エミリアはそう言って、そっとランタンの灯りを調整した。部屋の中がわずかに明るくなる。
リクは黙り込んだ。頭の中では様々な考えが渦を巻いている。嘉兵衛は本当に「帰りたい」と言ったのか。そして、本当に元の世界へ帰ったのか。それとも帰りたいと願いながらも、この世界で何らかの結末を迎えたのか。どちらにせよ300年の時を経てなお、その出来事が今を生きるロレッタという人物の人生に大きな影響を与えているという事実は、リクの胸に重くのしかった。
「それだけじゃないの」
エミリアがさらに声を落として言った。リクが顔を上げると、彼女の瞳には先ほどよりも真剣みが色濃く浮かんでいる。
「まず、話しておかないといけないことがあって」
彼女は一度深く息を吸い、それから切り出した。
「四天王は復活するの。しかも復活すると、それまでよりパワーアップする感じ。理屈とかは私にも分かんないから、聞かないで」
リクは絶句した。言葉の意味を理解するのに、数秒の間が必要だった。
(嘉兵衛さんが二体も四天王を倒してくれたんじゃないのかよ! パワーアップして復活するのなら、そもそも倒す意味あるのか?!)
心の中でそう叫びながらも、リクはなんとか平静を装う。エミリアは気まずそうに視線を落とし、それから再び顔を上げた。
「それでね」
彼女の声がさらに沈む。
「ロレッタの先祖の一人が、四天王が勢力を盛り返していった時期に命を落としてるらしいわ」
「……そうか」
リクはそれだけを返し、次の言葉を探した。
(新情報が多すぎて混乱するぞ。いやそれよりも何よりも、そもそも四天王の復活やパワーアップは、嘉兵衛さんのせいじゃない気がするぞ。ロレッタさんの逆恨みじゃないのか?)
内心色々考えているリクをよそに、エミリアは先を続けた。
「嘉兵衛様は、四天王のうち二体を既に撃破していたらしいってことは、リク君も既に聞いたでしょ。このことは確か、リク君が大聖堂に降り立ったあの初日に、国王陛下も仰ってた気がするから。でも、残り二体を仕留める前に、嘉兵衛様は姿を消されてしまったの」
「そうか……」
リクは短く相槌を打った。エミリアは続ける。
「それから起きたことは……。人間側は、嘉兵衛様が抜けた穴を突かれた形よ。魔物側はその後、何十年もかけて体制を立て直した。残る二体がますます勢いを増し、やがて倒された二体まで復活した上にパワーアップしたと伝わってるの。ロレッタの先祖が命を落としたのは、まさにその四天王が力を盛り返していった時期だった」
「ふむ……」
「そしてさっき言ったように、少なくともロレッタの家系では『嘉兵衛様が帰りたいと言って、四天王との戦いから逃げ、元の世界へ帰っていった』みたいに言い伝えているから」
エミリアの言葉が終わると、部屋の中はしばし静寂に包まれた。リクはランタンの灯りを見つめながら、頭の中で情報を整理する。
(もし嘉兵衛さんが最後まで戦っていたら――。四天王が復活したり力を盛り返したりすることはなく、その先祖は命を落とすこともなかったかもしれない――ロレッタさんの家系はそう考えたわけか)
「これをエミリアに言っても仕方ないことだけど……」
リクは前置きしてから、慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「確かにロレッタさんの気持ちは分からなくもないよ。でも、四天王の復活やパワーアップの件で、嘉兵衛さんに非はない気がする。それとも、『嘉兵衛さんが倒さなければ、四天王がパワーアップしなかった。倒したことが間違い』とでも言いたいわけ? それなら俺の場合でも、魔王や四天王を倒しに行かず、ここでのんびり過ごしている方がいいって理屈になるんじゃない?」
リクはそこで言葉を切り、エミリアの目をまっすぐに見つめた。
「よかったら、魔王と四天王について詳しく教えてくれないか。何度も復活するような四天王を無視して、いきなり魔王に挑戦する……みたいな方針で行くのも、一つの手じゃないかなと思うし。いや、そもそも本当に魔王は復活しないんだよな? 怖くなってきた」
「……ちょっと待ってね」
エミリアはそう言うと立ち上がり、壁際の本棚へと歩み寄った。そして、古めかしく分厚い一冊の本を両手で抱えて戻ってくる。テーブルの上に置かれたその本の表紙には「聖典ジュベディス」と金文字で刻まれていた。
「これ、フィガスト教の聖典なの」
エミリアは椅子に座り直しながら説明を始めた。この世界にはフィガスト教という宗教しか存在しないこと。この世界の人間が魔法を使えるのは、神フィガストのおかげだということ。この聖典は教祖エイプリルが書いたものだということ。彼女はページをパラパラとめくりながら、リクに分かりやすく説明していく。
やがてエミリアの指が、とあるページで止まった。彼女はリクにそのページを見せる。そこには古めかしい筆致でこう記されていた。
『多くの魔物の上に四天王という存在が4体あり、その上に魔王がいる。四天王を全滅させれば、魔王討伐への道が開く。魔王を倒せば魔物は全滅する』
「ああ、やっぱ魔王を倒すのがゴールってわけね」
リクはそう言ったものの、内心では別の考えが渦巻いていた。そして、それをすかさず口にするリク。さすがに、言いづらさは感じていたが。
「聞きにくい質問なんだけど……。その書物は絶対的に正しいんだよな? 信じていいってことだよな?」
するとエミリアは苦笑し、一瞬明らかに逡巡したような様子を見せた。それから、その態度を取り繕うかのように彼女は答える。
「正しいと私は信じてる……って感じ。ううん、私だけじゃなく、世界中の人たちが」
「なるほど」
リクも、もうそれ以上は追及しない。
「ともかく……実質的に、私たちが知っている情報はこれくらいなの」
エミリアが苦笑しながら言う。
「だから、四天王が復活することや復活の際にパワーアップすることなどは、原理も何も分かっていないの。この世界の誰にも」
「ふわっとしてるなぁ」
リクが正直な感想を漏らすと、エミリアは肩をすくめて笑った。
「とりあえず、四天王を全滅させないと、魔王討伐への道は開かれないっていう可能性があるわけか……」
そこで言葉を切るリク。エミリアは黙ってリクを見守っている。
「この際だから、聞いておきたいんだけど……」
そう切り出すと、リクはさらに質問を重ねた。
「四天王級っていう魔物は何なの? 確か国王陛下は、初めて会ったときにも『嘉兵衛さんが四天王級をバタバタやっつけた』みたいなことを仰ってたし、今日も国王陛下は、似たようなことを仰ってたはず」
「四天王級の魔物は、四天王ほど強くないけど世界有数の強大さを誇る魔物よ」
エミリアは端的に説明した。
「そいつらも倒さないとダメなの?」
「聖典には四天王級についての言及はないから、何とも。だけど四天王級の魔物のそばに住む皆さんが困ってるから……」
エミリアの歯切れの悪い返事に、リクはそれ以上追及するのをやめた。
「答えてくれて、ありがとう」
リクは礼を言い、それから再びロレッタの話題に戻った。
「事情を聞いても、やっぱ嘉兵衛さんは悪くないと思うし。それに俺に至っては、ほぼ初対面なのに」
苦笑して呟くリクに、エミリアは努めて明るい声で言った。
「リク君が気に病む必要はないからね」
それから彼女は、ランタンの灯りに照らされたリクの顔をじっと見つめ、優しく言葉を継いだ。
「時間はかかるかもしれないけど、いつか分かってもらえると思う。あなたは嘉兵衛様ではないんだから」
その言葉に、リクは小さく頷いた。しかし胸の内では、まだ整理のつかない感情が渦を巻いている。
(俺は嘉兵衛さんではない――か。でも俺は嘉兵衛さんのことを何も知らない。嘉兵衛さんはなぜ「帰りたい」と言ったのか。そして、どこへ消えたのか。それらの答えはいつか知りたい)
窓の外では、半月が雲の切れ間から顔を出し、静かに兵舎の屋根を照らしていた。
エミリアに礼を言い、リクは自室へと戻った。
そして自室のベッドに横たわりながらも、リクは引き続きなかなか寝付けない。
彼の頭の中では、嘉兵衛という名の男とロレッタという名の魔導士のことが、いつまでも渦を巻いていた。




