闘技場――300年ぶりの聖なる光
「聖授師様、エミリア様。王宮よりお呼びがかかっております」
兵舎の門をくぐった直後、息を切らせた衛兵が二人の前に駆け寄ってきた。リクは思わずエミリアと顔を見合わせる。先ほど伝令を飛ばしたばかりだというのに、もう使者が到着しているとは。それだけ国王が、この一件を重視しているということなのだろう。
「どちらにいらっしゃるの?」
エミリアが衛兵に尋ねると、衛兵は王宮の方角を指さした。
「国王付きの侍従が、王宮前でお待ちでございます」
「わかったわ、すぐに向かうと伝えて」
エミリアがそう返すと、衛兵は深く一礼して駆け出していった。
王宮へと続く石畳の道を歩きながら、リクはそっとエミリアに耳打ちする。
「すごい早さだな。国王さん、よっぽどこの件にご執心なんだ」
「そうね。何といっても300年ぶりのことだもの。無理もないわ」
エミリアは穏やかな口調で返したが、その瞳には僅かな緊張の色が浮かんでいる。リクもそれ以上は何も言わず、ただ彼女の隣を歩き続けた。
王宮前に到着すると、一人の初老の男性が既に待ち構えていた。落ち着いた深緑の侍従服に身を包み、白髪交じりの髪をきっちりと後ろに撫でつけている。リクたちの姿を認めると、彼は優雅な仕草で深く一礼した。
「聖授師リク様、並びに魔導士エミリア様。お疲れのところを大変失礼いたしました。この度は『絆の儀式』の成功、誠におめでとうございます。国王陛下のお耳にも、既に届いております」
侍従はそう言うと、顔を上げて穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。それで、どのようなご用件で?」
エミリアが代表して尋ねる。侍従は一つ咳払いをしてから、やや改まった口調で用件を切り出した。
「つきましては、闘技場にて、その力をお披露目願いたく存じます」
「お披露目って……」
リクが思わず口を挟む。侍従はリクの方へと向き直り、いかにも「当然」とでも言いたげな表情で言葉を続けた。
「はい。聖属性攻撃魔法が実際に振るわれるのを見るのは、実に300年ぶりのこと。国民にとっても大きな希望となるはずです」
リクとエミリアは再び顔を見合わせた。エミリアの碧眼がささやかな困惑の色をたたえている。リクも内心では同じ思いだった。ついさっき儀式を終えたばかりだというのに、もうお披露目とは。だがエミリアは、すぐにいつもの快活な笑顔を取り戻した。
「かしこまりました。どういった段取りで?」
「明日、執り行いたく存じます。詳しい内容は追ってお伝えしますので、本日はどうぞゆっくりとお休みください」
侍従はそう言って再び深く一礼すると、足早に王宮の中へと姿を消した。
「明日……随分と急だな」
リクがぽつりと呟く。だが、エミリアはあっけらかんとした様子で、リクの肩を軽く叩く。
「仕方ないわよ。それだけ期待されてるってこと」
「そりゃそうだけど……」
「大丈夫。私、ちゃんとやってみせるから。リク君が見守ってくれていれば、しっかりやれる気がする」
エミリアの言葉に、リクは小さく息を吐いて頷いた。彼女がそう言うなら、自分から言うことは何もない。
*
そして翌日、闘技場の施設内――。リクがこれまで訓練で使っていた小さな試合場へ続く廊下を、幾つも素通りしていく。先導する壮年の係官の足取りは淀みなく、磨き抜かれた石畳の廊下に、靴音だけが規則正しく響いていた。壁の燭台にはすでに灯がともされ、淡い橙色の光が長い影を床に落としている。
「この先よ」
エミリアが小声で教えてくれた。廊下の突き当たりには、見上げるほど巨大な両開きの扉が待ち構えている。厚い樫の木に、鉄の装飾が施された重厚な造りだ。
「この扉の向こうが、メインの試合場。教主国中央闘技場の心臓部なの。かく言う私も、実際に中に入るのは初めて」
エミリアの声は普段より心持ち早く、緊張を隠しきれていない。リクは何か言葉をかけようとしたが、適切なものが見つからず、ただ小さく首を縦に振った。
係官がその巨大な扉の手前で足を止め、右手にある控室へと二人を案内する。開かれた扉の向こうは、重厚な造りでありながらも、落ち着いた調度品が揃えられた部屋だった。壁には古いタペストリーが掛けられ、聖授師と思しき男性が短剣を片手に魔物と戦う図柄が織り込まれている。
(嘉兵衛さんなんだろうな、これ。俺と同じような白い服を着てるし。盾は面倒くさいから省略して描かなかったみたいだけど。――それにしても、やっぱりこの国の英雄みたいな扱いなんだなぁ。まあ――同じ聖授師とはいえ、俺のことを描いた絵が、こんな風に堂々と飾られるのは恥ずかしいから真っ平御免だけども)
リクがふと窓辺に目をやると、置かれている花瓶には白い小花が活けられていた。室内に漂う仄かな甘い香りは、この小花が発しているものだろう。磨き抜かれた長椅子と丸テーブルが中央に据えられ、テーブルの上にはすでに茶器の一式が準備されている。
「どうぞお寛ぎください。開場の時刻になりましたら、改めてお迎えに上がります」
係官はそう告げると、静かに扉を閉めて退室した。
部屋に二人きりになると、エミリアは長椅子に腰を下ろし、ふうと小さく息を吐いた。リクもその隣に座る。
「今日はいつもの練習とは違うから。リク君は観客席で見てて」
「え、俺は出ないのか?」
意外に思ったリクが問い返すと、エミリアは小さく首を振った。
「聖属性攻撃魔法のお披露目だからだと思うわ。ああ、私一人じゃないから安心して。念のためパーティを組むことになってるの。予定ではモニカとドナと私の三人パーティって話を聞いてるわ」
「そうなのか……」
リクは少しだけほっとしたような、それでいてどこか寂しいような複雑な心地だった。
「エミリアも、緊張してるのか?」
「してるに決まってるでしょ。300年ぶりの聖属性攻撃魔法のお披露目なのよ」
エミリアは苦笑しながらそう言った。声はいつもの快活さを保っているが、膝の上で組まれた指先がかすかに震えているのをリクは見逃さなかった。訓練では決して見せなかった姿だ。リクは何か励ましの言葉を探したが、やはりうまく見つからない。
その時、扉がノックされ、控室にモニカとドナが入ってきた。
モニカはいつもの鎧姿で、相変わらず長い黒髪を一本の三つ編みにまとめている。大きな盾と魔法剣を背負い、その鋭い目つきも普段と変わらずだ。
ドナは白い神官のローブに身を包み、茶色い髪を後ろで一つに束ねていた。リクと目が合うと、にっこりと愛嬌のある笑みを見せ、深々と頭を下げる。
「おはようございます、聖授師様」
「おはよう、ドナさん」
リクが挨拶を返すと、ドナはそれ以上の言葉は発さず、ただ静かにエミリアの向かい側へと腰を下ろした。モニカは無言のままリクに一度だけ小さく会釈し、壁際に立ったまま盾の留め具を確認している。
エミリアは二人の到着により、いくらか落ち着きを取り戻した様子だった。茶器から四人分の茶を注ぎながら「今日はよろしくね」と声をかけるエミリア。モニカは無表情のまま、ドナは笑顔で、二人とも小さく首肯した。
*
それからほどなくして、係官が再び控室の扉を開けた。
「開場の時刻でございます。皆様、準備はよろしいでしょうか」
エミリアが立ち上がり、モニカとドナもそれに続く。リクも腰を上げ、四人は係官の先導で、巨大な両開きの扉の前へと進んだ。係官が合図を送ると、左右の兵士が同時に扉を押し開く。
途端、耳をつんざくような歓声の洪水がリクたちの全身を包み込んだ。
「うわ……」
思わず漏れたリクの呟きは、轟音のような歓呼のうねりに掻き消され、誰の耳にも届かない。
リクは息を呑む。そこに広がっていたのは、彼が想像していた「試合場」の規模を遥かに超える巨大空間だった。空に向かって大きく口を開けたすり鉢状の空間――屋根はなく、頭上には青く澄み切った空が広がっている。幾重にも重なる観客席は、石を削って造られた階段状の座席で、既に幾千人もの人々で埋め尽くされていた。昨夜のうちに、王宮から街中へ触れが出されたらしい。老若男女、あらゆる階層の市民たちが、この歴史的瞬間を見届けようと集まっている。その誰もが口々に歓声を上げ、ある者は拳を突き上げ、ある者は隣の者と肩を抱き合い、またある者は早くも感極まったようにハンカチで目元を拭っている。
会場の中央には、よく手入れの行き届いた土の闘技スペースが楕円形に広がり、その外周をぐるりと石の壁が取り囲んでいる。壁の高さは大人の背丈ほどもあり、観客の安全を確保するためのものだろうということが見て取れた。所々に設けられた鉄格子の門は魔物の出場口だろうか、重々しい鉄の鎖で固く閉ざされていた。
(これ、元の世界で一度だけ行ったことがあるサッカースタジアムみたいだな。いや、規模はあっちの方が大きかったけど、この熱気はむしろそれ以上かもしれない)
古代ローマの闘技場を彷彿とさせるその威容に、リクはしばし圧倒されて立ち尽くす。そして、ここが異世界なのだと改めて実感する。
「リク様、こちらへ」
別の係官がリクの腕にそっと触れ、観客席とは別の方向へと導いた。エミリアたちが試合場へと向かうのを横目に見送りながら、リクは係官の後に続く。
案内されたのは、試合場を最もよく見渡せる位置に構えられた貴賓席だった。肘掛け付きの石椅子には真紅のクッションが敷かれ、手すりには教主国の紋章が刻まれた旗が掲げられている。すでにそこには、国王をはじめとする重臣たちが着席していた。
「リク殿、こちらへ来たれよ」
国王が隣の席を示す。リクは緊張でぎこちなくなりながらも一礼し、示された席へと腰を下ろした。国王の反対側には、侍従や高官らがずらりと並んでいる。
「急な話で申し訳なかった。そなたは見守るだけの役割だが、しかと目に焼き付けてくだされ」
国王の声は昨日とは違い、どこか厳かな儀式めいた響きを帯びていた。リクは「はい」と短く答え、眼下の試合場へと視線を落とす。
広大な観客席は既に満員に近い。老若男女、あらゆる階層の人々がひしめき合い、そのざわめきが波のように闘技場全体に広がっている。石造りの壁に反響する無数の声が、一つの大きな生き物の呼吸のように感じられた。
やがて、試合場の一方の鉄格子が開き、係官に先導されてエミリア、モニカ、ドナの三人が姿を現した。その瞬間、観客席が水を打ったように静まり返る。リクは固唾を呑んで試合場を見つめた。エミリアは濃紺のローブと、とんがり帽子を身に着け、手には短杖を握っている。モニカは大きな盾を前面に構え、ドナは白いローブの袖を静かに整えた。
反対側の鉄格子が重々しい音を立てて開く。中から姿を現したのは、体長二メートルほどの角を持つ猪型の魔物――マッドボアだった。土色の剛毛に覆われた巨体が、ぶるりと震える。短い足で地面を蹴り、不気味な唸り声を上げた。
「弱い個体を選んでもらってるから安心だ。まずは安全第一よ」
隣で国王が、独り言のように呟く。リクは返事もできず、ただ試合場を見つめていた。手のひらには、いつの間にか汗が滲んでいる。
試合開始の銅鑼が鳴り響いた。その音を耳にしたはずのマッドボアではあるが、特に何の動きもみせない。モニカは静かに呪文を詠唱した後に叫ぶ。
「プロヴォーク!」
それを聞くや否や、マッドボアは怒涛の如く突進した。モニカは大きな盾で、その突進を受け止める。鈍い衝撃音が闘技場に木霊した。モニカは一歩も退かず、魔法剣を横薙ぎに振るって反撃する。その後方では、ドナが杖を構え、いつでも回復魔法を発動できるよう備えている。
そして、エミリアが静かに呪文を唱え始めた。観客席の誰もが息を呑み、その瞬間を見守る。リクもまた自身の鼓動の高鳴りを感じながら、エミリアの姿を凝視していた。
「ホーリーランス!」
エミリアの短杖から放たれたのは、これまでのどんな魔法とも違う、澄み渡った白い光の槍だった。それはまっすぐに空を裂き、マッドボアの巨体を貫く。瞬間、爆ぜるような音とともに、純白の光が炸裂した。断末魔の叫びを上げる間もなく、跡形もなくその巨体を消滅させるマッドボア。試合場の地面には、小さなコモン素材の欠片とともに、かすかな光の残渣が黄金色の粒子と化して漂っていた。
一瞬の静寂。そして――。
観客席から、地鳴りのような歓声が沸き起こった。それはリクがこれまでの人生で聞いたどんな音よりも大きく、熱く、そして長く続いた。老いた男性が立ち上がり、若い女性が隣の友人と抱き合い、子供が父親の肩の上で手を振っている。
「聖属性だ!」
「三百年ぶりの、聖なる光だ!」
「教主国に、希望が戻った!」
興奮した声があちこちから上がり、中には涙をぬぐっている者もいる。国王が立ち上がり拍手を送り始めると、側近たちもそれに続いた。やがてスタンディングオベーションの波が発生し、観客席全体が揺れているかのような錯覚をリクに与えた。
(――俺が、あれを可能にしたのか――)
リクはその光景を、ただ呆然と見つめていた。実感はまだ薄い。だが目の前で人々が歓喜する姿を見て、初めて「聖授師」という肩書きの重みが、自分の中で形を持ち始めた――そんな気がした。
国王は満足げに何度も頷きながら、傍らの側近に何事か囁いている。その表情には明らかな安堵と期待が浮かんでいた。
だが、リクはその時ふと違和感を覚えた。貴賓席から少し離れた場所で、一人の女性だけが腕を組んだまま、冷ややかな目で闘技場を見下ろしている。他の観客たちの熱狂とは対照的な、その静かな視線。燃えるような赤髪をショートカットにした、鋭い目つきの女性だった。年は十代後半くらいだろうか。彼女は黒を基調とした旅装束に身を包み、腰には短杖を帯びている。歓声に沸く観客席の中で、彼女だけがまるで別の時間を生きているかのように、静かに試合場を見つめ続けていた。
(誰だ、あの人――)
リクがそう思った瞬間、女性はまるでリクの視線を感じ取ったかのように不意に顔を上げた。その鋭い目が、リクをまっすぐに射抜く。彼女の唇がかすかに動いたように見えたが、何かを呟いたのかどうかはこの距離では分からない。
やがて女性はリクから視線を外すと、静かに席を立ち人混みの中へと消えていった。その後ろ姿を見送りながら、リクの胸の内に言い知れぬざわめきが広がっていく。
(あの赤髪の人――何かただ者じゃない感じがした。気のせいだといいんだけど)
だが、そのざわめきも、再び沸き起こった大歓声にかき消された。エミリアたち三人が試合場から観客席に向かって手を振ると、それに応えるように拍手と歓声が一層大きくなる。リクは気を取り直し、立ち上がって精一杯の拍手を送った。エミリアとほんの一瞬だけ目が合う。彼女は汗に濡れた額を拭いながら、リクに向かって大きく手を振った。その笑顔は控室で見せた緊張の色がまるで嘘だったかのように、晴れやかだった。




