暗影
青凪空斗と赤月天華が英知の第三区画に潜入した同時刻。
東京都新宿区に拠点を置く、能力研究施設「英知」本部、最上階。
白でも黒でもない、灰色の光に満ちた執務室。
モニターには、先ほどの警報ログが映し出されていた。
『第三区画に侵入者を検知』
『番号個体反応あり』
『観測対象:天使、青凪——接触確認』
「......面白いね」
薄く笑った男がいた。
黒霧永徒。
英知の総合施設長であり、父親は英知の創設者。
ソファに深く腰掛けながら、まるで映画を見ているようにモニターを眺めている。
「青雛ちゃん、ホットコーヒーちょうだいな」
「承知しました」
秘書兼メイドである青雛月歩にコーヒーを頼む。
「あぁ、いつも通りミルクはいらないよ」
「仰せのままに」
「黒霧施設長、第三区画の侵入者についてですが......」
大きなドアが開き、背後から静かな声。
青凪桃葉が立っていた。
白衣の裾が、わずかに揺れる。
「......この青凪というのは」
桃葉の視線が、モニターに吸い寄せられる。
そこには、赤い警報ログとともに、
『観測対象:天使、青凪——接触確認』
という文字列が浮かんでいた。
黒霧が、ゆっくりと振り向く。
薄く笑っている。
けれど——
目だけが、まったく笑っていない。
「君なら、わかるだろ?」
その声音は穏やかだった。
「いや、まさか......」
桃葉の喉が、ひくりと鳴る。
ありえない。あの子に施設の情報は何一つ話していない。
スマホは置いていても電源は切っていたはず。
位置情報も。施設関連のデータも。
全部、遮断していたはず——
「隠し事は、親の愛なのかな?」
黒霧が、くすりと笑う。
「でもね、青凪研究長」
ソファから立ち上がる。
靴音が、やけに大きく響く。
「子どもっていうのはね、親が思っているよりも遠くまで行っているものだよ」
桃葉の指先が、わずかに震えた。
「......空斗に、何かしたんですか」
黒霧は、モニターに視線を戻した。
そこには、施設から逃走する二つの能力反応。
一つは、白く強い光。
もう一つは、まだ小さく不安定な揺らぎ。
「何も〜」
気だるそうに、言った。
ソファに戻り、指先でモニターを軽く叩く。
「だけど、この子への観測は続行かな」
「期間は未定でいい」
モニターには
『観測対象:青凪空斗』
の文字。
「あと......」
少しだけ、目を細める。
「天使神力のことだけど」
「前も半端な能力者出したら返り討ちにされたみたいだし」
肩をすくめる。
「放置でいっかなー」
あまりにも軽い口調。
それなのに、桃葉の背筋は冷えた。
「でも」
黒霧の口元が、ゆっくり吊り上がる。
「青凪くんとの関係は気になるね」
「能力者を派遣しますか?」
青雛が、そっと尋ねる。
白い手袋をした指先を揃えたまま、
感情をほとんど見せない声だった。
「ノンノン」
黒霧はソファに深く身体を沈めたまま、
軽く指を振る。
「また同じことの繰り返しになりそうだし」
「確かに彼女はSランク相当で、かなりの脅威だが」
少しだけ間を置いて、
「てか、またうちの施設壊しにくるんなら笑えないけど」
そう言いながら——
口元は、楽しそうに歪んでいた。
「……ですが」
青雛が、静かに続ける。
「赤月天華は現在''災害指定対象''です」
「わかってるよ、てか我々が生み出したようなものだし」
黒霧は肩をすくめる。
「でもさ」
「A以上の俺と」
視線を青雛へ向ける。
「天使の模範体である青雛ちゃんがいれば」
「なんとかなるっしょ」
その言葉に、
青雛の睫毛がわずかに揺れた。
ほんの一瞬だけ。
「……承知しています」
声は、変わらず静かだった。
けれど、その瞳の奥に何かが沈んでいる。
黒霧が、ふと思い出したように天井を見上げる。
「あと、あれ」
「この前サイトで雇った子」
「名前、なんだったかな」
「白澄晴気です」
青雛が即座に答える。
「そうそう、それ」
黒霧は軽く笑った。
「その子に、監視任務お願いしよう」
「青凪空斗と天使の接触を継続観測」
「必要なら少し圧もかけて」
「承知しました」
青雛が一礼する。
数分後。
大きなドアが開く。
9〜10話で青凪空斗を襲った男。
同じ高校に通う、白澄晴気が姿を現した。
制服姿。
けれど、その目には生徒らしい光はない。
「お呼びでしょうか、施設長」
「んー」
黒霧が、晴気を見て少し考える。
「あ、でも君バイトだったっけ」
「後で悪い口コミとか書かれたらどうしようかな〜」
苦笑いする。
その軽さが、逆に気味が悪い。
晴気は、小さく笑った。
「報酬次第ですね」
「いいね、そういうの好き」
黒霧の目が細くなる。
「じゃあ簡単な仕事」
「青凪空斗を見てて」
「潰すのはまだ先でいい」
「……育てるんですか?」
晴気が、少しだけ口元を上げる。
「うん」
黒霧は笑った。
「この世はさ」
「才能とスタートラインの偏りが、ありすぎるんだよ」
ソファにもたれながら、
指先で宙に円を描く。
「生まれた瞬間に強い子もいれば」
「何をしても届かない子もいる」
「不公平だよねぇ」
少しだけ、目を細める。
「それを持つ人間は、空気みたいなものだよ」
「目には見えない」
「でも——」
指先を、ぎゅっと握る。
「圧と時間をかければ、ちゃんと形になる」
モニターに映る
能力波形のグラフが歪む。
「削って、混ぜて、濃縮して」
「最後に残った個体が」
「本当に強い個体だ」
その声には、
異様な確信があった。
「人間だろうが」
「動物だろうが」
「人外だろうが」
「それ以外は、消えても問題ない」
青雛の睫毛が、微かに揺れる。
黒霧は、まるで世間話でもするように笑った。
「ま、俺は神様の配分ミスを修正してるだけだよ」
「そのために」
「政府にも、能防隊にも協力してもらってる」
視線が、ゆっくりと青雛へ落ちる。
「その完成形が」
「天使神力」
そして——
「青雛ちゃんだ」
その一言で、
部屋の空気がさらに冷えた。
* * * * * *
同時刻。
拠点へ戻った僕は——
「……まだ、震えてる」
赤月さんが僕の手を見て、小さく笑った。
「そりゃ……怖かったですし」
「そっか」
そう言って、
赤月さんがそっと手を重ねる。
「でも、生きて帰れた」
「えらいよ、そらくん」
「……ありがとうございます」
コップを受け取る。
ポケットに手を入れる。
あの破れたラベル。
『観測対象:青凪——』
そこまでしか、読めない。
「……やっぱり」
「これ、僕のことなんですかね」
赤月さんが、
ほんの少しだけ視線を落とす。
「……多分」
その一言が、やけに重い。
「でも」
赤月さんはすぐに、
いつもの柔らかい笑みを作った。
「今は考えすぎなくていいよ」
「今日はちゃんと生きて帰れた」
「それだけで十分」
その笑顔を見て、
少しだけ安心した——はずなのに。
頭の奥で、
黒い部屋の記憶がちらつく。
“3”
何かを見た。
絶対に、見た。
でも思い出せない。
「……赤月さん」
「ん?」
「もし僕が」
言いかけて、止まる。
「……いや、なんでもないです」
赤月さんは少しだけ目を細めて、
「言いたくなったらでいいよ」
そう言って、隣に腰掛けた。
ソファが、わずかに沈む。
距離が近い。
さっきまで施設の冷たい空気の中にいたせいか、
彼女の体温がやけに近く感じた。
「今日、隣で寝てあげよっか?」
急に、悪魔みたいに甘い声で言ってきた。
……二回目だ。
「っ……」
思わず身体が固まる。
心臓が、嫌なくらい音を立てる。
「……赤月さん?」
恐る恐る、横を見る。
返事は、ない。
肩に、ふわりと重みがかかった。
「……え」
赤月さんは、そのまま僕の肩にもたれかかって眠っていた。
長い金髪が、静かに腕へ流れる。
規則正しい寝息。
少しだけ開いた唇。
さっきまでの鋭い表情が嘘みたいに、無防備だった。
「……なに、それ」
小さく笑ってしまう。
でも——
この人を起こしたくないと思った。
静かな部屋。
なのに。
外から、
かすかにサイレンの音が聞こえた気がした。
その夜。
僕は、誰かに見られている気がした。
読んでいただきありがとうございます。




