61頁 契約と特訓と少年と。 前編
はぁ、はぁ、はぁ……。
もう無理……走れない……。
乱れる呼吸を整えながら、俺は多摩川の河川敷の原っぱで大の字になって倒れていた……。
「おいおいおいおい! もうくたばっちまったのか! お嬢ちゃんよぉ?」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ボサボサの長髪に爆発した黒髭をたくわえたのダミ声のおっさんが、何かにつけて俺に罵声をかけ続けるが、呼吸が乱れてまともに返事もできない。
クソッ、もう少し走れると思ってたのに何てザマだ。
ていうか、そもそもいきなりランニング1時間なんて、病み上がりの元患者にやらせる事じゃねーだろ!?
俺は見ての通りのか弱い乙女なんだぞ?
もっと優しく接しろよ!
そして思いっきり甘やかして、気持ち悪いぐらい褒めまくってチヤホヤしろよ!
「オラ立てっ! あと30分だ。楽勝だろ?」
「もう……無理」
「よしよし、今行けるっつったな? んじゃあ俺様が10数え終えるまでに立てよ? もしも立たなかったら、そのちーちゃいケツを両手で鷲掴みにしてモミモミしてやるからな」
「……変態」
「がははははっ! スケベの次は変態ときたか! 別におめぇみてぇな青臭ぇガキのケツなんか揉んだってちーとも楽しくねーんだよ!」
何が『楽しくねーんだよ』だ!? 思いっきり楽しそうに言いやがって。
ちくしょうヒゲゴジラめ、いつか多摩川に沈めてやる!
「いちにさんしごるななはちっ!」
「ちょっ!?」
早口でカウント8まで数える男。それに釣られて急いで立ち上がる俺。
その間リアルで1~2秒しか経過してない。
「くーーーーーーーーーう」
そして異様に長いカウント9の間に、俺は完全に立ち上がる。
「じゅう! よぉーし、もうひとっ走りいけるな? あと40分だ!」
「10分増えてるんですけどー」
「ああん? 馬鹿かお前は? テメェがぶっ倒れたから延長だ!」
「んな無茶苦茶な」
「無茶なもんか! 本番の舞台じゃ3~4時間ぶっ続けで動き回る事だってあるんだぞ? この程度で音を上げてどうすんだオラッ! つべこべ言わずさっさと走りやがれ!」
「ひぃぃぃぃ!」
ち、ちくしょう!!
どうしてこうなった!?
◇ ◇ ◇
遡ること数時間前……。
1月3日。 午前9時過ぎ。
今日、俺は劇団員として七色座と正式に契約する。
契約と言っても、細々とした手続きは事前に父さん達が済ませてくれていたので、あとは俺が七色座に行って書類に直筆で名前を書くだけだ。
そういえば奈良屋さんは今日から例の夕凪台中の演劇に携わるんだっけ?
あれから何も聞いてないけど……。
そんな事を考えながら自分の部屋でパジャマを脱ぐ。
寝汗を掻いたのか、身体が少しベトベトしてなんだか気持ち悪い。
もしかして、まだ身体の変化が起こってるのかな? でも以前のような気持ち悪さは全くないし、とりあえず下着を履き替える前に先にトイレに行っておこうかな。
「おはよーーございまーす!!」
トイレに向かう途中、突然大きな男の声と同時に、玄関の戸がガラガラと開いた。
そして玄関に現れたのは熊のような熊谷さんだった。
それにしても相変わらず声が馬鹿みたいに大きい。
……ていうか。
「わわわっ! る、瑠璃さん! ど、どうして下着姿なんですか!?」
「あ、えと、き、着替えの途中で、おトイレ行きたくなっちゃって……」
「そ、そうですか、では急いで行ってきてください!」
「う、うん」
トタトタとトイレに向かって走り出す俺。
み、見られた……。
パンツとブラだけのみっともない下着姿を。しかも、よりによって子供っぽい色気のかけらもない下着を……だ。
ああもうっ! すっげぇ恥ずかしいんだけど!?
死にたい、なんか死にたくなってきた!
「あ、瑠璃さんっ!」
「な、なに?」
「身体を冷やさないよう、先に着替えてからの方がいいのでは……と思いまして」
「あ、うん……」
だから、漏れそうだったから下着のままなんだって!
ていうかなんだよこれ?
男の時は見られても全然平気だったのに何なんだよ!?
おかしいだろ俺。気にしすぎか?
俺の身体を見つめる熊谷さんの獣のような視線が脳裏に残る。
熊谷さんに悪気はないんだろうけど、ついつい見てしまうのは男の本能なんだろうな。こんなちんちくりんでも一応、胸とかお尻とかは完全に女の体つきしてるし。
とにかく俺は急いで部屋に戻って、一度は脱ぎ捨てた湿り気のあるパジャマをもう一度着ると、急いでトイレへと駆け込んだ。
はぁ……。本当、最低最悪の朝だ。
つかインターホンぐらい鳴らしなよ熊谷さん、りさちん先生の家は道場じゃねーぞ?
便座に腰をかけて用を足しながら、俺はブツブツと小言を繰り返した。
………
……
…
「妻木先生、瑠璃さん、改めてご挨拶を! 明けましておめでとうございます!」
「おめでとうございます」
「お、おめでとう……」
「あ、るーちゃん! まだそんなカッコしてるの? 早く着替えなよ?」
「う、うん」
パジャマ姿の俺を見て言う先生も、夜勤明けから帰ってきたままの恰好だから全然人の事を言えないと思うんだけど。
ちなみに今日のりさちん先生の恰好は、タートルネックのニットのセーターにジーンズパンツ。そして髪はポニーテールではなく解きほぐしたロングヘア。
正月の怠惰な汚姿と比べたら、これでもかなりマシな方。
一方、今日の熊谷さんは、少しサイズが合っていないピチピチ気味のスーツ姿。
なんか格闘ゲームに出てくるような筋肉モリモリのガチムチキャラに無理やりスーツ着せました、みたいになってる。たぶん体力ゲージが半分ぐらいになるとビリピリに破れるはずだ。
「瑠璃さん、食べ終わったらすぐに着替えて出発の支度をしてくださいよ!」
「ふぁい」
地声の大きい熊谷さんの声に、口にパンを放り込みながら気の抜けた返事をする俺。
牛乳と一緒にパンを胃に流し込もうとするが、男の頃より小さくなったせいか、パン1つとってもボリューム感が違って、完食するのも一苦労だ。
そしてどうにかパンを食べ終えると、熊谷さんは手に持っていた紙袋から新しい服をそっと取り出して俺に渡した。
「瑠璃さん、今日はこの服に着替えていただけますか?」
「え?」
着替え……?
「あの、聞いてないんだけど、もしかしてまた変な撮影とかあるんです?」
「いえいえ、そのような予定はございません!」
「じ、じゃあまた奈良屋さんの指示?」
「いえ、今回は米沢さんから瑠璃さんにプレゼントだそうです」
「ひかりさんが?」
「はい、ちなみにこの服は米沢さんがこの前のお詫びにと、自らのポケットマネーで買ったとのことです」
「この前……」
北条と更衣室での一件のことかな。
「いいのに別に。でも今日着てほしいってことは、やっぱり何かあるの?」
「あります! 大ありです! ですが、瑠璃さんにはまだ秘密です」
「何なのそれ? もったいぶるなぁ」
「すいません、一応《守秘義務》ってのがありますので、契約書にサインを頂くまで瑠璃さんは部外者ですので……」
「律儀だねー、熊谷さんって」
「いえいえ。とは言っても実は今回については隠す程でもないんです。どのみち今日の昼には公開されますんで」
「なんだ。それだったら今すぐ教えてよ」
「いやいやいや、まだダメです。今日はかなり大きなサプライズですので!」
「けち!」
「まぁまぁまぁまぁ、言うほど大したことないからさ、るーちゃん」
「……どうして部外者のりさちん先生が知った風な口利いてるんですか?」
「実はわたくし、昨夜奈良屋さんにこーそりと教えてもらいましたからー」
「な、なんですとー!?」
大声で驚く熊谷さん。そしてりさちん先生はドヤ顔でスマホを俺に見せた。
そのスマホをじっとのぞき込む俺。
なになに?
──『舞台 エターナルスフィアオンライン 制作発表会』──
ふむふむ、なるほど……ゲームの舞台化ねぇ。
「ふぅん」
「あら、もっと驚くかと思ったのにつまんない反応ね」
「うん、いまいち凄さが分かんないし。ていうかこれ、うちの父さんと先生が夢中になってるゲームだよね?」
「そう! そこ!」
りさちん先生、なんかすごい食いつき……。
「るーちゃんには分かんないかも知れないけど、壮大なスフィアの世界がついに、ついにっ! 舞台化されるんだよ!? 実写化なんて絶対不可能だって言われてたぐらいなのよ!? そしてそして主役が、ななな、なんとっ!」
「妻木先生! その情報は正式発表まで内密におねがいしますっ!」
「あ……。ごめんなさい」
「あのさ熊谷さん、これって俺とは関係ないよね?」
「いえ、瑠璃さんは今日から七色座の一員となりますので一応関係はあります!」
「そ、そっか……。でもどうしてひかりさんがわざわざ自腹切って買った服を着ろって指定されるわけ?」
「本日、瑠璃さんの正式契約は七色座で行いますが、同時に先の舞台の発表会もまた七色座で行われます」
「つまりブッキングしてるんだ……」
「はい。そういう理由で本日多数のお客様が七色座に参られますから、おそらく、瑠璃さんにみすぼらしい恰好はさせまいとのお心使いでしょう」
「なるほどねぇ」
「あら、よかったじゃないるーちゃん。素敵なお洋服プレゼントされて!」
とは言ってもなぁ……。
そもそも俺は七色座がどういう劇団なのか未だに知らないんだよな。
七色座のホームページもずっとディザーサイトのままで、特にこれといった情報も載ってないし。
奈良谷さんが言ってたけど、七色座は個性派俳優が中心とかだっけ?
一応ホームページはお金かけてしっかり作ってるって感じがするから、おそらく規模的には決して小さくはないんだろうけど、やっぱり人気ゲームの舞台化を任されるとなると、七色座って、結構しっかりした劇団なのかなぁ?
……あるいは、ドキュメンタリー番組に出てくるような胡散臭い雑居ビルを間借りしてる泡沫劇団だったりして。
「あ! 瑠璃さんに先生から1つ伝言です!」
「奈良屋さんから? なんだろう?」
「『今後、自分のことを『俺』と呼ぶのは禁止』とのことです」
「げっ……!」
それも前に奈良屋さんに指摘されたよな。「もったいない」とか「自分の価値を下げてる」とかって。それと日頃の行いの積み重ねが大切だとも言われたっけ。
けど、やっぱりすぐにはなぁ……。
だけど、そんな事もう言ってられないか。
うーん……。
し、しょうがないな、少しずつ話し方から直していくか。
「されば致し方ござらぬ、以後、自らを「拙者」と名乗る事に致し候」
「却下よ、るーちゃんったらもう、いつの時代に生まれたのよ!」
「弥生? 縄文だったかなー。趣味で埴輪とか古墳作ってた。あ、……でござる」
「あとから言い直さない! 却下よ?」
「ちっ」
りさちん先生に2回連続でダメ出しされた……。
ちくしょう、2~3年後ぐらいには『大江戸言葉女子』が大ブレイクするはずだったのに……。
「まったくもう先生はノリが悪いなぁ。じゃあ熊谷さん、一応自分のことは『私』って呼ぶようにしてみますね!」
う……、自分で言ってて気持ち悪いぞ。
「はい、それでお願いします! ……では早速ですが、瑠璃さんはその服に着替えてきてください! あ、妻木先生」
「はいはい」
「すいませんが、瑠璃さんの着替えのお手伝いして頂いてよろしいですか?」
「あ、いいですよー! そういう事ならぜひぜひ任せてくださーい! るーちゃんをとびっきりの美少女にしてあげますから!」
「しなくていいって! 普通でいいから」
「なーに言ってるの? さ、こっちにいらっしゃい?」
ち、ちくしょう!
このまま病室の時みたいにすんなり着せ替え人形になったりしねーぞ!?
反撃してやる!
「熊谷さんさ、2階にオモシロ部屋があるんだけど、ちょっと見てきてくれない? ついでにスマホで撮影してネットに投稿して全世界に晒……」
「るーちゃん!! いいからこっち来なさい!」
「ちょっ! 痛い痛いっ! 耳引っ張るのは反則だって!」
「熊谷さん、2階には決して行っちゃダメですから!」
「は、はい……。では玄関でお待ちしてますんで!」
ちっ、熊谷さんのヘタレ野郎め……。
りさちん先生は俺の耳をつまみながら、俺の部屋へと強引に引きずり込んだ。
………
……
…
「あら可愛い!」
「か、可憐だ……」
まただ。
まーたこれだ。
今回はひかりさんが選んで俺にプレゼントしてくれた服らしいけど、今回もなかなかの破壊力がある。
ダークブラウンのチェッククレリックシャツに、同じダークブラウンのVネックのジャンスカ。それら地味目の服の上から羽織った真っ赤なPコートが強烈なアクセントとなっている。が、このコートの存在が逆に見事なバランサーとして機能している。
「こ、このコート少し派手すぎない?」
「大丈夫大丈夫、とっても似合ってるし、すっごい可愛いわよ?」
「で、でもちょっと恥ずかしいんだけど……」
「あのねるーちゃん、初めて会った人の第一印象ってのは、およそ7秒程度で決まって、そして55%は外見で判断されるって言われてるのよ?」
「へー。ちなみに残りの45%はなんなの?」
「次が声や話し方などの聴覚的印象で38%。ま、これはメラビアンっていう昔の心理学者の説だけどね」
「ふぅん。先生ってそういうの詳しいんだね。年の功ってヤツ?」
「こらっ! いちいち年の話にもってかない! と・に・か・く! るーちゃんのその恰好なら、絶対みんな可愛い可愛いって言ってくれるはずなんだから、もっともっと胸張って自信持ちなさい?」
いや、確かに自分でも可愛いと思うけど。
でも何ていうか、照れくさいっていうか……。
「るーちゃん、先生ちょっとお手洗い行ってくるから、そこで待っててくれる?」
「はいはい、出してらー」
「だから、そういう言い方しないの! ちゃんと女の子らしくするのよ?」
りさちん先生がそう言い残すと、俺の部屋から出て行った。
《女の子らしく》って何だよ? まず定義を教えろよ?
股間にスティック刺さってなかったら女の子でいいだろ?
ちなみに股間にスティック刺されたら女に進化するんだぜ。
……我ながら最低な発想だなおい。
……。
女の子らしく、か……。
俺は辺りを見回してから、自分の部屋の襖をピシャリと閉めた。
そしてドレッサーの前に立つと、鏡に映る自分の姿をじっと見つめてみた……。
か、可愛い……。
今回ひかりさんが用意した服を着た俺も、これまたとんでもなく可愛い。
前回もそうだったけど、服装1つでこんなに印象が変わるものなのかと改めて思い知らされる。とはいえ、相変わらず身長が低いのが気になるけど……。
って事はそうか。
母さんが買ってくるような子供っぽい服は着ないで、大人っぽく見せることができるファッションにしたら、こんな身長でも多少は子供っぽく見えなくなるかも知れない。
よし! ファッションについては当面の研究課題だな。
無意識に手を顎に当てて考えるポーズをしていた俺が鏡に映っていた。
何を思ったのか、あるいは魔が差したのか、ふと俺は女の子らしい可愛らしいポーズを取ってみた。
「にゃ~ん♪」
うおっっ!
ヤバいヤバい! 今のはとんでもなく可愛い!
よ、よし……。こんどはこういうポーズで、表情も作ってみたりとか……。
「ふふっ♪」
うほほほおぉぉぉぉぉお!
今の笑顔もヤバい! なんか今すんごいドキドキしたって!
で、でもやっぱり自分じゃねーよこんなのっ!
てかこんな可愛い子に告白されたら、どんな男でも1発で絶対落ちるわ!
よ、よし……次はこういうポーズで……。
いや、こういうのもいいな……。
……。
うへへへへ、なんかニヤニヤしてきたぞ。
今の俺、傍から見たら絶対キモい。ふひひ。
……!!
なにか気配を感じ取った俺は気配を殺して、チラリと襖の奥の様子を窺う。
だが、先生が戻ってくる気配は無い。
気のせいか……。
じ、じゃあ今度は、愛の告白シーンの練習だ!
俺はドレッサーの鏡に映る自分を見つめながら、すうっと息を吸い込む。
そして胸に手を当てながら、乙女チックに少し上目遣いで見つめる。
「あの……。私ね、ずっと、ずっとね、君の事が好きだったんだよ……」
ぐっはああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!
ああああああぁぁぁぁあうあああ!!!
死んだ!
俺の中の男脳が即死したっ! 爆発した!
なんつー破壊力だ!!
これはもう無理だろ! つーか俺、こんな子と付き合いたいんだけど!
こんな子現実にいるの? いた! ここにいたー!
ど、どうしよう? どうやったら鏡の中に入れるのっ!?
はぁ、はぁ、はぁ……。
ちょっとテンション上がりすぎた。
落ち着け俺。
「い、今のは練習だからな……。今日から、わ…私も劇団員だし、あと1回……」
ゴクリ……。
「ねぇ瑠伊くん、私ね、まだ帰りたくない。その、二人っきりになりたいな……」
うひょぉぉぉおお!!
「へぇ、そういう子がいいんだ、るーちゃんって」
「うわああああぁぁぁぁぁ!!」
いつの間にか自分に夢中になりすぎて、りさちん先生が部屋の襖をあけていた事に、俺は全く気付かなかった。
「なんかるーちゃんって、女の子になってから性格変わったっていうか、生き生きしてて楽しそうねー」
「あ、あははははは……」
ま、また変なトコ見られた……。
死にたい。やっぱり死にたい。さっき死ねば良かった。
武士らしく、立派な最期を遂げればよかった。
ああ、誰か!? 今すぐ俺を殺してくれっ! 誰でもいいから介錯をーっ!!
顔が熱くて発火しそうだ……。
実際鏡を見てみると、俺の顔はものすっごい真っ赤になってるし。
しかし情けない。
鏡の前で恥ずかしいポーズ取って、聞くに堪えない甘いセリフ吐いて自分に陶酔しきって周りも見えなくなるなんて。これじゃ気持ち悪いナルシスト・ロリじゃねーか!
「でもお芝居の練習はお家に帰ってからにしなよ? 熊谷さん待ちくたびれてるよー?」
「う、うん……」
俺の焦燥ぶりを知ってか知らずか、軽く流す先生。
「瑠璃さーん! 時間も押してますし、そろそろ準備はよろしいですかー!」
玄関から熊谷さんの大きな声が聞こえた。
「は、はーい! 今行きまーす!」
「るーちゃん、迷子にならないようにね? かばんとお財布持った? それから車には気を付けるんだよー?」
「せ、先生は行かないの?」
「わたくしは部外者ですからー。それに連日の大掃除と夜勤明けでもうクタクタだし。なに、大丈夫だって! 心配いらないわよ! うん、るーちゃんならできるっ!」
りさちん先生なりに元気づけたつもりなんだろうけど、先生が無意味に大丈夫とか言うとなんか逆に不安になってくる。
ともあれ、俺は白のソックスを急いで履いて、ひかりさんが用意したというブラウンの可愛らしい靴に足を突っ込むと、熊谷さんと共に家を後にした。
◇ ◇ ◇
熊谷さんの運転する安っぽい軽自動車の助手席に乗って、都内のお高くとまったビルの地下駐車場へ入る。熊谷さんの話では、この近寄り難い高級ホテルみたいなビルの中に七色座の事務所があるらしい。
誰もいない地下の駐車場で車から降りて、関係者専用のエレベーターに乗り込む。
後ろ部分がガラス張りになっているエレベーターが地上に出ると、高く昇るにつれて都会の景色がどんどん広がっていく。けれど風景を楽しむ時間は一瞬で、エレベーターがあっという間に10階に到着するとドアが静かに開いた。
熊谷さんの後に続いて恐る恐るエレベーターから降り立つと、そこは大理石等の白を基調としたツヤツヤ感満載の高級感溢れるフロアだった。
「お待ちしておりました、瑠璃さん」
「あ、ひかりさん、おはようございます」
エレベータホールにはひかりさんが待っていた。
ひかりさんはいつもと同じピシッとしたスーツスタイルだった。
年明けから3日目だというのにこの完全武装ぶり、なんかこの人からは休日の概念が感じられない気がしてきた。
「な、何かすごいトコだね……。こ、ここが七色座なの?」
「はい。とある方のご厚意によりこの階全体を格安でお借りしております」
「すごっ!」
まるでファッションビルのワンフロアを丸々買い取ったみたいだ。
「なんか化粧品とか宝石とか、高そうなものが売ってそうだね」
「まぁこの辺りの雰囲気はそうですね。ですが奥の事務所には更衣室や仮眠室やシャワールーム等もございますので、どちらかというとホテルに近いかと思います」
「へー、本当にすごいんだ……」
「ところで瑠璃さん」
「は、はい?」
ひかりさんは俺の耳元にそっと顔を近づけ、コソコソと小声で話し始めた。
「本日、あちらの通路の奥には多数のお客様がいらっしゃってます。皆様方にお会いしたら笑顔で元気にご挨拶をしてくださいね?」
「お、お客様って、ファンの人達?」
「いえ、本日はマスコミの方々です」
「マスコミ……。ああ、今日発表の?」
「発表……?」
ひかりさんの顔が急に険しくなった。
「熊谷さん。瑠璃さんに今日のことについて漏らしましたか?」
「い、いえ、自分からは何もっ!」
「あ、熊谷さんは何も言ってないよ? 今日の発表会の事は、りさちん先生にスマホを見せてもらって知ったんです! 奈良屋さんからだって自慢げに……」
「なるほど、そういう事ですか。まったく、あの男は……」
ひかりさんが「またか」といった表情をしながら額に手を添えた。
「まあいいでしょう。現状況を改めて説明いたしますと、もうすぐ隣のスタジオで舞台の制作発表会が行われます。現在マスコミの皆様方には一般フロアホールにて待機していただいておりますので、粗相のないようお願いいたしますね」
「はい」
「瑠璃さん、そちらの通路をまっすぐ進めば一般フロアに出ます。フロアをそのまま真っすぐ行けば事務所はすぐありますので、ここからは瑠璃さんお一人で向かってください」
「えっ? 一人って……ひかりさん達は!?」
「申し訳ありません。私どもはこれから別件の用事がありますので。あと個人的な事情を申し上げますと、私は『剣雪斗』の元・付き人という立場上、今日ここに来ている方々と顔を合わせるのは非常に不味いのです」
「そうなんだ、ひかりさんって大変なんだね」
「いえいえ。それから先ほども申し上げた通り、本日は七色座主催の舞台公演の発表会ですが、今回の発表会に今話題の月浦蓮人様と、水無瀬拓耶様のご両名が参加されますので、お二人には特に失礼のないようお願いします」
「はい。……って、えっ? マジで!?」
月浦蓮人は若干9歳の天才小役として、すでに数々のテレビドラマに出演している。
最近はバラエティ特番にも引っ張り蛸だ。
そしてもう一人、水無瀬拓耶は《剣雪斗の後継者》と目されているマニーズの実力派アイドル。
とにかく二人とも知らない人は居ないぐらい有名なタレントだ。
「ですので、これまで無名に近い七色座の注目度は、今日の会見を機に一気に跳ね上がるかと思われます」
「あの……、ひかりさん」
「何でしょう?」
「ひかりさんはこの前、『奈良屋さんは1からのし上がりたい野望を持ってる』って言ってたけど、結局、外部の人頼みなの?」
「勘違いなされているようですね、瑠璃さん」
「え?」
「奈良屋は1から劇団を立ち上げ、苦労の末に業界とのコネクションとスポンサーを獲得したのが今なんですよ?」
「え……?」
「もっとも、そのやり方は決して手放しで褒められたものではありませんが……失礼しました、今のは余計な一言でした。今は時間が足りません。この話は止めておきましょう。とにかく、瑠璃さんはそちらの通路からすぐに事務所へと向かってください。いいですね?」
「は、はい……」
ひかりさんは押し切るように俺に言うと、腕時計を見てすぐにエレベーターに乗り込んだ。続いて熊谷さんも別れの挨拶無しに一緒にエレベーターに乗るり込むと、二人は逃げるように行ってしまった……。
白いフロアに一人ポツリと取り残された俺は、ゆっくりと通路を歩きだす。
この先のホールにマスコミの人たちがいるらしいけど、俺はただの下っ端だ。たぶん、サッカーで例えると球拾いのボールボーイ程度にしか思われないに違いない。
そう自分に言い聞かせてもなお、緊張してさっきからドキドキしっぱなしだ。
けれど、そういう時こそ「胸を張って堂々としていなきゃ!」と、己を奮い立たせる。
関係者専用の通路をしばらく歩くと、一般フロアの大きなエントランスホールに出た。
なんだこりゃ、でけぇ!
思った以上に広いエントランスホールの正面には、今日の会見に使用されるスタジオのドアが全開になっている。にも拘わらず、多くのマスコミ人間はスタジオ内ではなく、ホールで何やら忙しそうに機材の調整をしていたり、スマホやノートパソコンを弄っていたり、携帯でどこかの誰かと連絡を取り合っていたりと、皆それぞれに忙しそうにしていた。
「おはようございます! おつかれさまでーす!」
ひかりさんに言われた通り、俺は笑顔で堂々とマスコミの群衆を通り抜ける。
一部の大人たちは挨拶を返してくれたものの、特に珍しがられることもなく、淡々とそれぞれの仕事に没頭しているだけだった。
そして、マスコミ人間を避けながらエントランスホール反対側の事務所の入り口へと続く通路に着いたその時。
「瑠璃ちゃん瑠璃ちゃん、こっちこっち!」
「えっ?」
奥の通路の陰でポツリと立っていた男の子が、いきなり大声で俺を呼び寄せた。
すると、周囲にいたマスコミ人間達が一斉にその声に反応して、男の子の方へ振り向いた。
直後、皆一様にカメラを男の子に向けると、各社のレポーターらしき女どもがマイク片手に一斉に駆け寄ってくるのが見えた。
「逃げよう!」
背の低い男の子に手を掴まれたまま、七色座の事務所へと駆け込む。
その間、背後から失明しそうなほど眩いフラッシュが絶えなく焚かれた。




