60頁 宮川瑠璃と秘密のお部屋。
翌朝5時。ついに俺は退院の日を迎えた。
窓の外は暗闇に覆われ、地平線から太陽が顔を出す兆候はまだない。
病室のベッドの上で、俺はりさちん先生が持ってきてくれたタッセル付きのトートバッグに母さんが買ってきた女物の私服を強引に押し込む。
こんな朝と呼んでいいのか分からないような時間にせっせと病室から出ていく準備をしているのは、他でもない俺自身が望んだからだ。
大勢の人達に見送られて華々しく退院とか、そういうのはなんか仰々しくて苦手だから、とにかく煙のように消え去りたい。
窓に飾られた大きなクリスマスリースと部屋の隅に置いてあるクリスマスツリーはそのままに、俺は男のときに履いていた小汚いスニーカーに両足を突っ込む。
久々に履いたスニーカーは、身体収縮の影響でぶかぶかになっていた。
「はぁ……」
思わずため息が出た。
そろそろこの姿にも慣れてきたと思ってたけど、こんな風に身体が収縮した事実を不意打ちで突き付けられると気が滅入る。
「どうしたの? 溜息なんかついちゃって」
病室の扉の前でずっと俺を待っていたりさちん先生が言った。
先生はベージュのコートに身を包み、肩からショルダーバッグを引っ提げて、夜勤明けの仕事帰りモード。
「別になんでもないよ……」
「そう? じゃ、行きましょうか?」
「うん」
ぎゅうぎゅう詰めに荷物を押し込んだトートバックは憎たらしいほど重く、大きくなっていた。
俺はそのデブったトートバッグを両手で抱きかかえると、りさちん先生の元へと駆け寄る。
「るーちゃん、もう忘れ物は無い?」
「無い、と思う……。たぶん」
振り返って忘れ物が無いか病室内を念入りに確認し終えると、二人揃って病室を後にした。
静寂に包まれた早朝の病院の廊下を無言で歩き、一般客用のエレベーターに乗り込む。
トートバッグを床に置いて1階のボタンを押すと、エレベータはゆっくりと動き出した。
エレベーターの扉ガラスには、紺色のジーンズに黒のダウンコート姿の黒髪ロングの可愛らしい少女の姿が映る。
今日の服装は男だったときに着ていた服だけど、上から下までどれもサイズが一回り大きい。
ジーンズなんかはウェストがゆるゆるすぎて、まるでデブが着ていたお下がりを着ているみたいになっている。
それでも腰まで伸びている長い黒髪のせいで、扉ガラスに映る俺の姿はそれなりに様になっている。
とはいえ、一回り小さくなった美少女フェイスと相まって、やはりと言うべきか、どう頑張っても男には見えなかった。
ちくしょう、どうせ髪を切ってもすぐに再生しちまうしなぁ……。
うーん、漫画に出てきそうなイケメンの剣客みたいに、ポニーテール風にしたら、少しは男っぽくなるかな?
そんな事を考えていると、エレベーターは静かに一階へと到着した。
エレベーターの扉が開くと、俺は先生と二人、広々とした無人のロビーを通り過ぎ、奥へと続く廊下をひたすら進む。
そして廊下の側壁にある少し不自然な鉄製の扉をりさちん先生がそっと開けると、凍えるような冷たい空気が一気に流れ込んできた。
同時に、扉の向こうには暗闇の中で輝くいくつかの街灯と、その街灯に照らされた街の景色がうっすらと見えた。
やはり外はまだまだ真っ暗で、朝を告げる小鳥の鳴き声は聞こえそうもない。
りさちん先生の後に続いて、俺もセンターの外へ出る。
建物の外壁沿いに少し歩くと、正門脇にある自転車置き場に到着する。
すると、『職員用自転車置場』と書かれた案内板の下で、父さんと母さんと、それからもう一人、見慣れない老人が立っていた。
品の良さそうなその老人は、白髪に白髭を生やし、寒空の下、枯草色の和服を見事に着こなしていた。
その上、白髪白髭の老人は、横にいる父さんよりも一回り背が高く、服の上からでも壮健さを感じさせるような佇まいだ。
「退院おめでとう、瑠璃」
「う、うん……ありがと」
父さんたちと合流すると、コートのポケットに両手を突っ込んだ父さんが、優しい口調で俺に話しかけた。
世間じゃ冬休みに入った会社も多いのに、父さんは今日も仕事だそうだ。
「るーちゃん良かったわねー! 一時はどうなるかと思ったわ!」
「母さん……」
「どうしたの? いつもみたいに「抱っこしてママー!」って甘えに来てもいいのよ?」
「は、はぁ!? んな事するか!」
「あら、覚えてないの? るーちゃんがこーんなに小さかった時は、毎日毎日抱っこにおんぶだったのにねー!」
りさちん先生が横で俺を茶化すようにクスクスッと笑った。
ちくしょう……笑うな!
「あ、あのなぁ、そういう恥ずかしい話はやめろって!」
「うんうんそうよねー、恥ずかしいわよね」
分かってるなら言うんじゃねーよBBA!
「でもね、るーちゃん。こんな事でも言わないと、母さん、なんだか、るーちゃんが他所様の子供に思えてくるから……」
「な、なんだよ……それ」
少し照れる俺。
でもそうか、そうだよな……。
かつて男だった宮川瑠伊の存在を失ったのは、何も俺だけじゃないんだ。
父さんだって母さんだって、かつての瑠伊にはもう会えない。
それどころか昨日の北条たって、いや、北条だけでなく原田も今井も平沢もクラスのみんなも、そして、俺のことを何でも知っていた祐馬でさえも、もう宮川瑠伊には会えない。
そう思うと、俺はなんて残酷な選択をしてしまったのだろうか……。
『過去の自分を消し去る』という選択は、決してヒロイックで儚げな綺麗事じゃなかったんだ。
結果的に、これまで俺と関わってきたみんなの思い出に大きな爪痕を残したまま消えた事になるのだから、これほど愚かな選択はない。
その事に、俺は……どうして気づけなかったのだろう?
いや違う。
そんなのはとっくに気づいていたんだ。
けれど、俺は自分の事にしか気が回らなかった。
ただ自分を守る事で精いっぱいだったから。
だから気づかないフリして、あるいは気づこうともせず逃げ続けた。
父さんも母さんも、本当に今の俺の姿を受け入れているのだろうか?
もしかして、辛い思いを噛み殺して、俺の前だからって無理して親らしく振舞ってるんじゃないだろうか?
そんな思いが頭を過ったその時、
「母さん、間違いなく瑠璃は俺たちの子だよ」
父さんは母さんの肩に手を乗せて、元気づけるように言った。
「う、うん。……そうよね! 大丈夫よるーちゃん! 女の子になってもるーちゃんは私たちの大切な子どもなんだから。ねっ?」
「母さん……」
「そうだよ瑠璃。だから、いつか瑠璃が再び家に帰って来た時には、父さんと一緒にお風呂に入って洗いっこしよう。な?」
……。
「おい」
「な、何だい? 瑠璃」
「「な?」じゃねーよ! 死ねっ! このドスケベ変態ろりこんおやぢがっ!!」
「ははははっ、なんだなんだ? 女の子になって早速照れてるのか? まったく、可愛いじゃないかウチの娘は。何、平気平気! 父さんの裸なんて毎日見てただろ?」
「毎日は見てねーよ! つかそういう問題じゃねーよ!」
「ふふふっ、るーちゃんったら怒った顔も可愛いわねー!」
「うるせぇBBAぁ! 笑うな!」
「こらっ! るーちゃん? 女の子なんだからそんな言葉使っちゃダメよ。 メッ! だからね?」
う、うぜぇ……。
何が「メッ! だからね?」だ?
なんか久々に鳥肌立ったぞ!?
「あのさぁ母さん、そのブリッ子いい加減にやめたら? もう若くないんだしさ」
「な、なによぉ~! るーちゃんのくせに! この、このぉ!」
母さんはそう言いながら左腕で俺の頭部を抱え込み、右手に握りこぶし作って俺の頭にグリグリとねじ込んだ。
「い、痛い痛い痛いっ!」
「母さんだってまだまだ若いんだからっ! 繁華街歩いたら、女子高生みたいにすごい勢いでナンパとかされちゃうんだからっ!」
ねーよ!
ていうか父さん、そこでぼーっと見てないでそこのBBAをなんとかしろよ! てめーの嫁だろ!?
「ね、あなた! 私、まだまだ若いわよね?」
「あ、ああ……そうだな。まるで妖精のようだよ」
はぁ……。
父さんも母さんも、二人そろってどうしようもないところとか、いい年してまだバカップル貫き通してるとことか、本当ちっとも変ってないじゃないか。
本当、馬鹿みたいだ。
けど、そうだよな……。
こんな父さんと母さんでも、二人にとって俺が自慢の子だって事は、地球が爆散しても変わらないんだ。
たとえ、俺がどんな姿になろうとも……。
「あーおほん、瑠璃ちゃん、少し良いかね?」
グリグリこぶしの仕返しに、俺が母さんに卍固めをかけようとしていたその時、白髪交じりの和服のじいさんが俺に話しかけてきた。
「あ、はい」
この人の存在を完全に忘れていた。
世界で一番みっともない家族団らんの一幕に、『観客』がいたんだった。
「まずは初めましてかの、瑠璃ちゃん。儂は妻木徳之丞と言っての、この『国立超難病特殊医療研究センター』の所長をしておる者じゃ」
「は、初めまして……」
「ほっほっほっ、よろしくね、瑠璃ちゃん。ちなみにの、儂はそこの莉沙とは義理の父でもあるんじゃが、うちのバカ娘が入院中に迷惑をかけたそうで大変申し訳ない」
「い、いえ。りさち……先生にはいっぱい助けてもらいましたからっ!」
「そうよ、るーちゃん、もっとわたくしを褒めなさい!」
後ろにいるりさちん先生が、なんか小声で世迷言言ってきたっぽいので無視した。
「これ莉沙、お前はちと黙っとれ。というか莉沙、昨日は瑠璃ちゃん途中でほっぼり出してどこにバックレおったのじゃ? このバカタレが!」
「お義父……、し、所長! 今それ言うの無しでしょ!? それに昨日の事は散々説明したじゃない!?」
「あー五月蠅い、五月蠅いのう。もう少し静かにせんか! 大体、お前のそのキンキン声はいちいち脳に響く! もう少し黙って喋れといつも言っておろうが!」
「あーはいはい! そーですね! その台詞は聞き飽きました! 分かりました! おっしゃる通りわたくし、黙りながらいっぱい、いーっぱい喋りまくってやりますから!」
りさちん先生は不機嫌そうな顔をして、じいさんをじっと睨んでいる……。
たぶん心の中で、表に出せないようなひどい暴言を浴びせかけているのだろう。
「いやいやすまんのぅ瑠璃ちゃん。これからこんなバカ娘と一緒に暮らすなどと、まるで拷問じゃて。心中お察しする」
「い、いえ、別に大丈夫ですから」
「そうか、じゃといいんじゃがの……」
おいおい、先生の家ってそんなに酷いのかよ?
「瑠璃ちゃん、莉沙の事をどうか、どうか、よろしくお頼み申し上げる」
所長は俺に深々とお辞儀をしながら言った。
「はい! 任せてください!」
「あのー、なんか逆だよねー? わたくしの方が年上なんですけどー」
「妻木先生、瑠璃を……どうぞよろしくお願いします」
じいさんに不満をぶつけるりさちん先生に、今度は父さんと母さんが頭を下げた。
「あ……。いえいえいえっ! も、申し訳ありません。わたくしも、ふ、不束者ではありますが、精一杯るーちゃんの事お世話させて頂きますので!」
「いえいえ、瑠璃がご迷惑をお掛けしますが、どうぞよろしくお願いします」
「いえいえいえ、とんでもないっ!」
父さんと母さんとりさちん先生が、お互いに何度もペコペコしあっている。
なんか、この互いに遜る様子を外人に見せて「これが日本の伝統芸能なんだ」と真顔で教えてやりたい。
そして「彼らは一体何をしているのか?」とでも聞かれたら、「自分がどこまで卑屈に遜ることができるか競いあってるんだ!」と懇切丁寧に間違った日本文化を教えてあげたい。
ともあれ、今日から俺はりさちん先生の家で一緒に暮らす。
夕凪台にはもう戻らない。
そして俺は、新しい中学でたった3か月の期間限定の女子中学生生活を過ごし、卒業後は都内の高校へと進学する。
ここのところ色んな事がありすぎて、新しい生活の事なんてもうすっかり忘れていたけれど、もしも俺が普通の男子中学生のままだったら、入院なんてしてなくて毎日必死になって受験勉強してたんだろうな……。
「ではでは、そろそろ行きましょうかねー」
「ええ」
りさちん先生の一言で、父さん達がゆっくりと歩き出す。
「そうか。では儂はここでお別れじゃな。瑠璃ちゃん、元気での!」
「はい!」
「妻木所長、娘を救って頂きありがとうございました」
「いやいや、この老いぼれは何もしておらんて……」
じいさんに別れを告げて歩き出す。
この一歩が、俺の本当の新しい一歩。
今日から本物の女としての日常生活が始まる。
今着ている男モノの服は最後の記念。
この服を脱いだら、もう二度と元の男には戻らない。
「妻木、後は頼んだぞ」
「……はい! 所長!」
研究センターから立ち去る前、所長がりさちん先生に掛けた一言が、なんていうか、ちょっぴり映画のワンシーンっぽくって、なんかカッコ良かった。
………
……
…
「さってと、んじゃお父様お母様、遠路はるばるお疲れでしょう? 折角ですから、わたくしの家にお立ち寄りください」
「先生、申し訳ございませんが、私達はここで夕凪台に戻りたいと思います」
「いやいやいや、そんな事おっしゃらずに、すぐ近くですし、ぜひぜひ家に寄ってってください! 月並みですが朝食でもご用意させて頂きますので……」
「いえ、お気持ちは有難いですが、私も妻もしばらくは娘との接触を控えたく思いますので」
「あ……。そうでしたね」
そうだ。
これは七色座との約束だ。
今後、芸能界の情勢が落ち着くまで父さんと母さんと直接会わないという約束。
とはいえ、これはあくまで口約束でしかないから、破ろうと思えばいつでも破る事はできる。
けれど、その約束を破る時が来るのは、きっと俺が役者になる夢を諦めた時なんだろう。
だが、俺は絶対に諦めたりはしない。
だから、父さん達とはここでお別れだ……。
まぁでも、父さん達とは時々電話とかビデオチャットとかするから、今生の別れって訳じゃない。
それに、この先は別離を悲しむ余裕もないくらいの日々が始まるんだから。
「父さんも母さんも、身体には気を付けてよ?」
「お前もな、瑠璃。辛くなったら、いつでも家に戻ってきていいからな」
「うん……。でも、父さんとは一緒に風呂には入らないから!」
「ああ」
◇ ◇ ◇
「もしかして、先生の家ってここ?」
「そだよー」
研究センターから徒歩3分。
クリスマスに初めて奈良屋さんと会ったあの公園のすぐ隣に建っていた和風の一軒家。ここが先生の家らしい。
道路側から敷地を見ようとしたけど、上品で背丈のある竹垣や、松とか和風っぽい木々に囲われていて建物まではよく見えなかった。
先生の後に続いて敷地に入ると、縁側付きの庭が広がる。
都心の一軒家にしてはやや広めのその庭は、もう何年も手入れがされていないのか、荘厳さが失われて廃墟に片足突っ込んでいる日本庭園みたいで不気味だ。
何となく、闇世界のゴーストニンジャとか潜んでいそうな雰囲気がする。
そして、家の外観は『純和風のお屋敷』って感じだけど、外から見た感じは全然古臭くはないけど古いというか、古き良き上品さがある建物だ。
なんていうか、大正ロマンってやつ? よく分かんないけど。
ガラガラガラガラ……。
りさちん先生がカギを開けて玄関の引き戸を開ける。
「たっだいまぁ! って言っても誰も居ないんだけどねー」
「お、おじゃまします……」
「おじゃまします、じゃないでしょ、るーちゃん。今日からここが我が家なんだから!」
「う、うん」
それにしてもここがりさちんの家だったとは……。
てっきりどっかの駅前の高そうなマンションにでも住んでるかと思っていたのに。
いや、まぁこの家もなんかすごい高そうで相当アレなんだけどさ、ほら、天井がやたらと高いし、木の柱もなんか普通じゃないっていうか立派そうだし。
けれどなんだろう?
換気をしてないのか、家の中には得も言われぬ独特の匂いが漂っている。
「るーちゃんの部屋はそこの和室の隣の部屋ね」
「部屋って……。ここの襖の奥って事だよね? やたら広いけど……」
「12畳あるからねー」
「広っ!」
だだっ広い和室の壁際には、木製のベッドと机と椅子、テレビ、それと箪笥が2つに古びたドレッサーが置いてあった。
「なんか、落ち着かないなぁ」
「すぐ慣れるわよ」
「ところでさ、先生の部屋はどこなの?」
「さぁ?」
「俺、りさちん先生の部屋が見たいんだけど」
「な、無いわよ、そんな部屋」
「いやいや、こんだけ広いんだったら、自分のお部屋ぐらいあるんでしょ? 探してみようかなー」
「ちょっ! ダメ! 絶対ダメ! まだお掃除してない部屋とかあるからダメ!」
「ふうん」
お掃除をしていないとか言っても、俺は信用しない。
なぜなら、『他人を部屋に入れたくない言い訳第1位』のセリフを言う人に限って、大抵部屋を綺麗にしているからだ。
それに先生の事だから、きっと年甲斐もなく若作りしたピンクの壁紙の部屋で、ファンシーなぬいぐるみとか、天蓋付きのプリンセスベッドとか、可愛らしい小物に囲まれた乙女度MAXな部屋なんだろう。
でもまぁ、そんな趣味の世界を他人に見せたくないって気持ちはよく分かる。
けれど、これから先生と一緒に暮らすんだから、やっぱり何かあったときの為にも家の構造を隅々まできちんとチェックしておかないとな!
お?
ここかな?
俺は廊下の側壁に張り付いてあった古くさい引き戸をそっと開いた。
すると勾配のキツい木製の階段が目の前に姿を現した。
「なるほどな、こういう仕掛けになっていたのか……」
「あっー!! ダメダメダメダメッ! そこから先は絶対立ち入り禁止だから!」
「ふむ……」
なんかりさちん先生が鬼の形相で迫ってきた気がしたので、俺は逃げるように階段を駆け上がった。
「ちょっと! るーちゃん! 止まって! 止まりなさ……」
グワッシャーン!
金属製の桶か何かをド派手に落っことした音がした。
「もうっ! なんでこんなところに金だらいがあるのよーっ! って、そうだった、先月、風水に使ってたんだっけ?」
独り言を言っている先生を無視して、俺は逃げるように2階へ駆け上がると、最初に目についた手前のドアを開けて、強盗のように部屋の中へと押し入った!
………………。
「な、なんじゃこりゃーーーーー! げほっ、げほっ! うおっぷ!」
扉横の照明の電源をオンにすると、部屋の中は見渡す限りの大惨状が露わになった。
片付けという概念が欠けたこの部屋には、まともな足の踏み場すら見当たらない。
壁や天井には新選組の服を着た漫画か何かのキャラクターのポスターや、顎が尖がった少女漫画風のイケメンキャラクターのポスターで埋め尽くされていて、ベッドの上には脱ぎ捨てたままと思われる衣類が山のように積み上がり、足元にはコンビニのビニール袋や、おもちゃみたいなフィギュアや、古い雑誌がそこかしこに転がっている。
しかも、それらのゴミの匂いと、腐った女の化粧水っぽい匂いを混合した濃厚な悪臭が部屋中に充満していて、とてつもなく息苦しい。
壁際にあるひと際大きい本棚には、これまた山のような漫画本とゲームソフトがぐっちゃぐちゃに置かれていて、壁面の中央には同じようなゲーム画面が映っている液晶テレビが3台、それから電源が付きっぱなしのデスクトップパソコン2台と、ゲーム機が4~5台ほど置いてある。
そしてゲーム画面が映っている液晶テレビをよく見ると、画面には3人のキャラクターがただ中世の町に突っ立っているだけで、ゲームの町の音楽らしき音がまるでゲームセンターみたいにバラバラのタイミングで好き勝手に鳴ってる。
汚部屋の中心部だけは周りより少し片付いているように見えるけど、そこにはキーボードとコントローラーが大量に転がっていて、そのすぐ横には、飲みさしの黄色い液体の入った2リットルのペットボトルが数本転がっていた。
何て言うかまるで、隕石が落ちたクレーターみたいだ。
「見・た・わ・ね……」
突然、殺気に満ちた声が後ろから聞こえた。
「見・た・わ・よ……」
「見たわよ……、じゃないわよ! るーちゃん、何いきなりわたくしの部屋に入り込んでるのよ!?」
「こ、ここが先生の部屋なんだ、へー」
「そ、そうよ。わたくしのオアシスよ!」
きったないオアシスだなぁ……。
「いい? るーちゃん。この部屋で見たことは忘れなさい。もしも誰かに言ったら呪うわよ?」
「呪うって……。あ! 先生、あそこの画面さ、なんで同じ画面映してるの? つけっぱなしじゃ電気代もったいなくない?」
とりあえず話を逸らしてみる。
「人の話を聞きなさいっ!」
駄目だった、ちくしょう……。
「ちなみにアレはあのままでいいのよ、3アカだから」
「さんあか?」
「3アカウント同時プレイ」
「??? 全然意味が分かりません。日本語でお願いします」
「あー。えーと、なんて言ったらいいかなー? 要は、ネットゲームで3人のキャラを同時に操作してるのよ」
「ふぅん、操作って一人でしてるの?」
「そうよ、凄いでしょう!」
何が凄いのか全然分からない……。
「へー。……よく分かんないけどさ、そんな事して楽しいの?」
「た、楽しいわよー?」
そう言う割には、先生はどこかバツが悪そうだ。
「でもさ先生、こういうのって、普通は友達とか彼氏とかと一緒に遊ぶモノなんじゃないの?」
「ま、まぁ、そういう遊び方も出来るわね……」
「いやいや『そういう遊び方も』って、普通は先生のやり方が異端なんだよね? あ、そうか。先生って彼氏も友達も居ないから一人で遊……」
「シャラップ! そこまでよ、るーちゃん! それから先は絶対口にしたら駄目よ!」
「駄目って……あぁ、彼氏の話?」
「そ、それもあるけど……」
「あ、じゃあ、友達の方?」
「ぎょわああぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーー!」
俺の一言に、先生は奇声をあげて急に悶え始めた。
な、なんなんだ?
もしかして「友達」が地雷ワードだったのか!?
「だ、大丈夫? 先生」
「な、何でもないわよ! ちなみに誤解されると嫌だから言っとくけど、わたくしにだって、普通にお友達ぐらい居ますから! ……実際に会ったことは無いけど」
最後の一言は余計だろ……。
小声で言ったつもりなんだろうけど、ばっちり聞こえてしまった。
ていうか、そもそもそれは友達と呼べるのだろうか?
誰か偉い人、ここに高名な言語学者を招聘して、りさちん先生に《友達の定義》について是非講義してあげてほしい。
「ねぇるーちゃん、もうこの話は止めよっか? お互い傷つけ合うだけで不毛だもの」
「お互……? う、うん」
お互いって、俺は別に傷ついてないんだけど、いちいち突っ込むと面倒くさい事になりそうだから止めることにした。
「じ、じゃあさ先生、あっちの新選組の服のポスターは何?」
「あ! 忘れてた! そうよ! そうだわ! デイリー回さなきゃ! もう6時過ぎてるじゃない!」
「でいりー?」
「あ、ごめんね、今のもゲームの話」
「そ、そうなんだ……。先生って忙しいんだね」
「そうなのよ! だから話かけないでねるーちゃん! 7時更新までもう時間ないから!」
「う、うん……」
先生は俺をほったらかしにして汚部屋の中央でゲームをし始めた……。
3つ並んでいるゲームの画面の真ん中だけがいつの間にか別のゲームの画面になっていて、その画面の中央には、壁に貼ってあるポスターと同じキャラがキラキラの笑顔を浮かべながら、時々なんか臭いセリフを喋っている。
「あのさ、先生」
「ごめん、今ちょっと手が離せないから、好きにしてて」
「う、うん……」
先生が結婚できない理由が分かった気がした。
いい年した女が汚部屋の中央で乙女ゲーに夢中。実に残念な現実。
それにしても、こうして後ろから見るとすっごい汚い構図だ。
別に他人の趣味を否定する気なんてさらさら無いけどさ、でもさすがにこの部屋の汚さと汚臭はだけはヤバいと思うぜ。
このまま行けばご近所さんから石投げられて、最後には行政代執行で家ごと丸々掃除されちゃうぞ?
「はぁ……」
全くしょうがないなぁ、りさちんは……。
仕方がない。俺の生活もかかってるし、これからお世話になるから、ちょっくらお掃除でもしてあげましょうかね!
とりあえず俺は、この汚い空気を換気するために、閉め切ってあったカーテンをそっと開けて、それからカーテンに隠れていた窓を思いっきり全開した。
すると、窓の外からひんやりとした新鮮な空気が入り込んできた。
ああ、空気が綺麗って、本当はすっごく幸せな事だったんだなぁ……。
「ちょっ! るーちゃん! 何窓開けてるのよ!?」
「へ?」
「早く閉めて! 埃が入っちゃうじゃない!」
「いや、でもこの部屋だけなんかすごい変な匂いするから……」
「そ、それは気のせいよ。だって、この部屋は空気清浄機を24時間つけっぱなししてるから!」
「空気清浄機?」
「ほら、あそこ!」
先生は部屋の奥にある空気清浄機っぽい機械を指さした。
しかし、機械のランプは点灯しておらず、遠目からは動いているようには見えない。
「な、なんか止まってるみたいだけど……」
「え? そんな事ないわよ? 知ってる? 今どきの空気清浄機ってね、すっごい静かなのよ?」
「へーそうなんだ」
「それにセンサーが埃とか異臭とか感知するとね、自動でフルパワーになるのよ?」
いやいや、このとてつもない異臭にセンターが反応しないのはおかしいだろ!? 絶対故障してるだろ!
とりあえず俺は、先生のゲームの邪魔をしないよう、先生の背後からそっと奥へと進んで、ピクリとも動いていない空気清浄機に近づいてみた。
ブオォオオオオン!!!
俺が近づくと、空気清浄機がセンサーが反応したのか、突然フルパワーで動き出した。
「び、びっくりしたぁ! 電源入ってたんだ」
「ね?」
ブオォォォオオ……ガガガガ……
ん?
ガガガガ……ガリガリガリガリ! ……ガコンッッ!!
………………。
「先生、何もしてないのに壊れた」
「……るーちゃん」
「な、ナンデスカ?」
「ブレーカー、落ちちゃった……」
汚部屋を見回すと、照明も、テレビもゲーム機もパソコンも、電気を必要とする全ての家具が静かに息を引き取っていた……。
「先生、この部屋掃除しよっか……」
「やだっ! デイリーがまだぁぁ! るーちゃんブレーカー元に戻してきて!」
「やだよ! 暗いし、どこにあるか分かんないし、俺、背低いし! それに漏電でもしたら火事になっちゃうよ?」
「火事よりデイリーの方が先だから!」
「駄目だって! もう、先生は出入り禁止! と・に・か・く! ブレーカー戻したら、俺がこの部屋をしっかり掃除したげるから、先生はちょっと部屋から出てって!」
「うわー面白い冗談だねー! ついでに今のはダジャレのつもりだったのかな?」
「面白くねーよ! 冗談でもねーから! ってそこ! 窓閉めちゃ駄目だから!」
「どうしてよ? いいじゃない、寒いしそれに埃が入ってくるじゃない? って、ちょっとちょっと! それはレアものなんだから大切に扱ってよ!」
「レアだったら床に置いちゃだめでしょうが!」
「ち、違うの、それは床に飾るものなのー!」
結局、先生の汚部屋が隅々まで綺麗になったのは年明けの事だった……。




