34頁 返り血シャワー
迫り来る不気味な気配がぬうっと風呂場の中へ侵入すると、その気配はピタリと消えた。
何事かと思いつつも息を殺して警戒していると、2枚セットの浴槽のフタの1枚がそっと持ち上げられた。
それまで暗闇に包まれていた浴槽内に風呂場の電灯の光が差し込むと同時に、俺は洗濯かごを盾しながら勢いよく立ち上がって、フタごと侵入者に体当たりを仕掛けた!
「死ねぇぇぇぇぇぇ!!」
俺の全体重を乗せた体当たりによって、侵入者は浴槽のフタに下敷きなるとバランスを崩して尻もちをついた。
「お、おわぁぁぁぁああああああ!!!」
侵入者は板状のフタの隙間から、ゾンビのような俺の姿を見たせいか、情けない悲鳴を上げた。
「キャッーーーーーーーーーー!」
目の前の侵入者の悲鳴が連鎖するかのように、今度は2階の奥の方から聞き覚えのある女の悲鳴が聞こえた。
俺はそのまま侵入者を放置して、女の悲鳴が聞こえた2階へと急いだ。
「ま、まてっ……!」
もがきながら俺を静止する侵入者の声を無視して、悲鳴が聞こえた階段を勢いよくで駆け上がると、電灯がついていた俺の部屋へと勢いよく踏み込んだ!!
すると俺の部屋の中には、ベッドの横でへたりこんで青ざめていた母さんの姿があった……。
「る、るーちゃんのおばけ……」
その言葉を最後に、ゾンビ姿の俺を見た母さんは失神してしまった。
「あー……。お、おかえり、母さん」
俺は母さんに声をかけたが、たぶん届いてないんだろうな。
少し遅れて、父さんが慌てた様子で部屋にやって来くると、俺の姿とベッドの血を見て硬直してしまった……。
◇ ◇ ◇
──宮川家軍法会議
なんとなくそんな雰囲気だからそう名付けてしまったけど、ただの家族会議。
被告人は俺。弁護人はいない。
俺はリビングのテーブル横で、血まみれの制服姿のまま一人正座させられている。
後からコソコソ入ってきたくせに、なんで俺だけこんな理不尽な目に……。
あの騒ぎの直後、母さんの悲鳴を聞きつけて近所の老人達がすぐに駆けつけてきたけど、父さんが貞子のような姿の俺を指さして、またろくでもない事をしでかしたと説明すると、みんなすぐに納得して散っていった。
うん、「また」なんだ。すまない……。
去年、文化祭の出し物がお化け屋敷に決まった日のこと。
俺は学校の倉庫にあった埃だらけのお化けの衣装を着て、その姿のまま家に帰ったんだ。そしたら母さん、さっきみたいなすっごい悲鳴をあげて気絶してしまってさ、近所を巻き込んで結構な騒ぎになった事もあるんだ。
それだけじゃない。今年の春休み、俺はタンスの奥から偶然見つけた父さんと母さんの中学の頃の気持ちの悪い交換日記を目の前で朗読してあげたら、父さんは呪言でも浴びせかけられたかのように苦しみ出し、母さんは母さんで、奇声をあげてながら必死に交換日記を奪い返しにきたんだよな。
あまりに怖いので、俺は日記を持ったまま玄関外まで逃げると、そのときもやっぱりというか、母さんの奇声を聴いて近所の人が駆けつけてきた。
とまぁ、そんな昔話はともかく、時折、母さんの悲鳴が響き渡るイベントが発生する宮川家の騒動に、そろそろご近所さん達も慣れてきたというか、童話の狼少年のように、そのうち本気でヤバい状況になって必死に叫んでも、その時はもう誰にも相手にされなくなる日が来るかも知れない。
でもさ、今日の出来事だって言い換えれば少し遅れたハロウィンみたいなもんだろ?
……ってな感じでどうにか言い訳できないか考えたけど、目の前にいる父さんと母さんの空気はなんかシャレになってない感じだし、流石にこのピリピリした空気の中で、そんな言い訳は通じる気がしない。
「お、俺は悪くないからな! 父さんと母さんがコソコソ家に入ってくるから、てっきり空き巣か何かだと勘違いしたんだって! ま、マジで怖かったんだからな!!」
「そう言う割には電話には出ない、家の鍵は開けっ放し。しかも今度はゾンビゲームの真似事か。もう来年から高校生だろう? 受験も近いってのに遊んでいていいのか?」
いつも遊んでいるばかりで頼りなさそうな父さんが、父親らしく見えた。
「電話って、知らない番号だったし……」
「巣鴨のおばあちゃんの番号でしょう!」
「そんな番号しらねーよ!」
ちくしょう! 今どき固定電話からかけてくんじゃねーよ!
てかゾンビゲームの真似事って……。俺、そんなゲーム遊んだことないんだけどな。
どちらかと言うと思い当たるのは、テレビで放送されてた昔のB級映画で、人がゾンビに齧られている光景を見てゲラゲラと爆笑しながら見てた事ぐらいだ。
……って父さんからしたらあんまり変わらないか。
「るーちゃん、父さんはあんな事いってるけど本当に心配してたのよ? せめて電話には出なきゃ」
「あ、あのさ、今回は本当にゲームとか、そういう真似事じゃないんだ。本当、遊びなんかじゃなくて大変だったんだからな。どこから言えばいいのかな……」
朝起きたらゾンビになってました……。とか?
てかこの雰囲気、まともに取り合ってくれるのかな。
「とにかくるーちゃん、先にそのケチャップまみれの服は脱ぎなさい。そのシミ落ちるのかしら? もう手遅れかもしれないけど、今すぐに洗濯しなきゃいけないわ。ヘンな臭いもするし……」
「あっ、ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってよ。着替えるのはいいけど、とりあえず先に母さんだけ部屋に来てよ」
「あらあら、もしかして小学校の頃みたいに脱がせてほしいの? るーちゃん」
「な、なんでそうなるんだよっ!」
んなわけねーだろ馬鹿親がっ! ちくしょう!
ちくしょう!
ちくしょう……。
「最近の男の子ってのは軟弱なヤツが多くなったと聞くようになったが、お前もか瑠伊……。とうとう家族の前で着替えもできなくなるとはなぁ。毛でも生えたか?」
「う、うっさい! い、いろいろあんだよ!」
「父さん、るーちゃんだって年頃の男の子だから」
「あー分かった分かった、とりあえず先に着替えてこい。だが話はまだ終わってないからな瑠伊。さっさと着替えて汚れ落とし終わったらここに戻ってこい」
父さんは不快そうにそう言うと、テレビのスイッチを付けた。
俺と母さんは2階に上がって俺の部屋に入る。
母さんは汚れたベッドのシーツや布団を片づけると、窓を全開にして空気を入れ替えた。
外の冷たい空気が、部屋に充満していた異臭や小便臭さをすこしずつ消していく。
「この部屋……。やっぱり何かあったのね」
「う、うん。それより母さん、先に脱がせて。う、上の服だけ、そっとね」
「もう、また悪い事考えてるの? 本当いつまでも子供なんだから。……あらっ? この赤いの、これて絵具じゃないわね……」
「たぶん、俺の血」
「えっ!?」
「いいから脱がしてよ。ゆっくり。俺は大丈夫だからさ」
「え、ええ……」
母さんは俺の前に立って、血まみれの俺のシャツのボタンを1つ1つ、ゆっくりと外していく。
シャツの下はまるで返り血でも浴びたかのようだった。
赤黒い固まった血が俺の肌に張り付いていて、俺の身体からはあの甘い匂いと血の匂い、それから少しだけ、小便臭い匂いが仄かに漂った。
さすがの母さんも、この異様な俺の容姿と臭いで、俺の様子が冗談ぬきでおかしいと認識したようだった。それまでとは打って変わって、母さんの表情は悪さをするいたずらな息子を見るような表情は消え失せ、驚愕と心配が混じったかのような表情になっていた。
「なによこれ……。い、痛くはないの?」
母さんは血まみれの俺の地肌を目にすると、一旦手を止め、心配そうに俺に訊いた。
「平気」
「ほ、本当に?」
「うん。大丈夫だから」
やがて母さんがすべてのボタンを外し終わると、血を吸って重くなったシャツをそっと、ゆっくりと脱がしはじめた。
脱がす際、肌を覆っていた血の塊のようなものが、シャツにくっついてペリペリと部分的に剥がれると、その下からは俺の白くてキメの細かい肌が姿を現した。
母さんはその様子に動じず、シールでも剥がすかのように慎重に、ゆっくりとペリペリと血糊のようなものと巻き添えにしながら俺のシャツを脱がせていった。
そして……
俺の上半身は裸になった。
「あっ……」
母さんの目の前には、以前に増して膨らんだ血まみれの双丘が堂々と姿を現した……。
今までホラー映画みたいに血まみれだった俺の身体に気を取られ、胸まで気が回らなかったんだろう。
血まみれの俺の姿と、膨らんだ胸を直視すると呆気にとられた。
「ベッドの血や身体の表面の血はさ、今朝起きたらこうなってたんだ。別にどっかで転んで怪我したとかじゃなくて……」
「そう……」
「昨日は1日中ベッドで寝ていた、というか、気を失ってたみたいで、俺、全然覚えてなくてさ、何が起きたのか本当にわかんないんだ。身体のほうはもうずっと前からなんかおかしくてさ、修学旅行にいったら、なんていうか、一気に爆発したっていうか……」
痛ましいそうな表情で俺を見る母さん。
「……本当に痛くはないの?」
「大丈夫」
「でもどこから出血したのかしら?」
「わかんないよ。でもきっと汗みたいに血が出たのかも……。とにかくこんなだけどさ、外傷はないから意外と平気なんだ。たぶんこのまま風呂にも入れるよ。それに肌なんかはほら、嫌になるぐらい綺麗になってるしさ」
「あら、本当ね」
「でも、旅行中は身体の内側がずっと痛かった。何度も何度も、死にたくなるぐらい辛くてさ。俺、このまま破裂して死んでしまうかもしれないって、本当何度も思ったよ?」
「そうだったのね……」
母さんは俺をぎゅっと抱きしめた。
「ごめんね、母さん何も知らなくて……。でも無事でよかったわ」
「……」
母さんは俺から離れて立ち上がる。
「ちょっとここで待ってなさい。その身体拭かないとね。タオルと洗面器持ってくるわ」
「あ……母さん」
「何?」
「救急車はまだ呼ばないで」
「え? ええ……」
母さんは血まみれの服と掛け布団を手に取り、部屋を出て階段を下りて行った。
よほどショックだったのだろう、その後ろ姿はどこかおぼつかない様子だった。
──あなた、るーちゃんの事だけど……
下の階からヒソヒソと母さんと父さんの話し声が聞こえた。
しばらくすると、母さんはお湯の入った洗面器とタオル類を何枚か持って俺の部屋に戻ってきた。
「ひとまず血を拭き取ってみるけど、本当に腫れものとか外傷はないのね?」
「うん、たぶん平気だと思うから」
「痛かったら言うのよ?」
「うん……」
母さんは無言で俺の腕を、ゆっくりと慎重に拭き取る。
母さんがタオルでひと拭きするだけで、まる強力な洗剤を使ったかのように、俺の身体に付着していた血の塊がひと拭きで綺麗に取れた。
そして白く幼い赤子のようなキラキラと輝く肌が姿を現した。
「まぁ、本当に作り物みたいに綺麗な肌ね」
作り物……。
そんな、人間じゃないみたいに言わないでよ……。
それともこのまま放置したら、俺の身体は、彫刻か何かにでもなるの?
「胸は自分で拭く?」
「あ、うん」
母さんから新しい濡れタオルを受け取る。
「じゃあ母さんは背中を拭いてあげるわね」
「う、うん」
じ、自分で拭くのか……?
この俺の手で、不自然な、この腫物を……。
俺は自分の胸を恐る恐る拭く。
その感触は、幼い頃に触った母さんの胸と同じ感触で、触り心地のいい柔らかい肉の塊の感触だった。
だけど、自分の胸だったこともあってか、やはりどこか気味が悪い。
気分的には俺のタマが胸にスライドして膨らんだものを弄っている感じだ。とにかくこの異物感、本当に気味が悪い。
でも、元々俺は女子のおっぱいは大好きだった。
というか、女子のおっぱいは男の夢であり、人生の目標そのものであるとさえ思っていた。
だから胸の大きい女子とすれ違う度に、いつかはあの胸を揉みたいとか、触りたいとか、乳首を摘んで、くりくりして弄ってみたいと思っていた。
しかしいざ自分の手で、こうして実際に膨らんだ胸をタオルで拭いていると、全然嬉しくなんかなくて、とても揉んだり触ったりして楽しむ気持ちにはなれない……。
見事に腫れた俺の胸は、小さな俺の体には全然似つかわしくなくて、それでいてネットで見たエロ動画に出てくる女優の不自然に整形された胸よりも、ずっとずっときれいな色と形をしていた……。
母さんが作り物だと表現したのも頷ける気がした。
……だけど、これはただ腫物だ。
俺の胸にくっついているのは、お椀型のただの腫物だ。
俺は頭の中で必死にそう思い込もうとしているのに、俺はとうとう我慢できず泣いてしまっていた……。
男である事を全否定されたかのような綺麗で醜い身体、痛み、そしてその痛みが告げる死への恐怖。
色々な感情が混ざり合い、いつまで経っても涙が止まりそうになかった。
タオルを持つ手は震え続け、その事実を入念に確認するかのように、俺は何度も何度も胸を拭いた。
「るーちゃん……。髪もヴィックじゃなくて地毛なのね」
「うん……昨日1日で伸びたみたいなんだ。普通だったのに……」
母さんは俺の頭と髪を優しく撫でると、バスタオルを俺の身体に巻き付けた。
「救急車呼ばないといけないわね……」
「それは、絶対嫌だ……」
「るーちゃん……」
「この身体さ、母さんにも見せるのも嫌だったんだよ? それどころか修学旅行の間、ずっと痛い思いをしながら必死に我慢して隠してきたんだよ? ぐすっ、な、なのにさ、今更、分けもわからない医者なんかにモルモットみたいに調べられるなんて、絶対に嫌だよ……」
「そ、そうね。そうよね……」
意外にも母さんは食い下がらなかった。
母さんは親馬鹿だから、ヒステリックになって何が何でも俺を救急車へ乗せようとすると思ったのに。
「でもとにかく、父さんと相談してからにしましょ」
「や、やだよ……」
不思議と母さんに見られるよりも、父さんにこの身体を見られる方が精神的な抵抗が強かった。
「るーちゃん、聞きなさい。父さんと母さんはね、どんな事があってもるーちゃんの味方だから……ね? だから父さんには見せましょ? その胸は隠したままでいいから。ね?」
母さん……。
なんなんだよ、それ……。優しすぎるよ……。
いつもはその過保護なまでの優しさがとにかく鬱陶しくて、嫌で嫌でたまらなかった。
だけど今は、その優しさが、慈愛が、とても嬉しい。
「……わ、分かった、父さんにも見せる……よ」
俺と母さんはリビングに戻ろうと立ち上がると、まるでタイミングを見計らったかのように、父さんが部屋に入って来た。
「……その、すまん。部屋の外でずっと聞いていた。というかちょっとだけ覗いた」
「な、なんだよ……それ。見んなよ……」
「すまん。でも心配だったから」
「ちくしょう、見んなよな……。ちくしょう……」
また涙が出てきた。何でだよ……。
おかしいだろ? 俺、こんなにも涙もろかったっけ……。
父さんは謝りつつもバスタオルで隠している俺の胸をチラチラと見ている。
俺は何故かその視線に強烈な嫌悪感を覚えた。
「す、すまん。でも横乳ぐらいしか見えなかったし、先っちょは全然」
「死ねよ変態!!」「お父さん!」
「ああ、悪かった! 悪かったよ……謝る。だけど瑠伊、その、下も無いのか?」
下……。
レッサーで、ミニマムで、チャイルドな俺の大事なエレファント。
俺の身体が如何にぶっ壊れようとも、俺が偽物ではない、本物の俺であるという証。
最後の証。
だけど、今朝起きてからおかしな事が多すぎて必死だったから、その存在がどうなっているのか、全く確認していなかった……。




