シーン4:【闇商人との優雅なティータイム、運ばれてきた『絶望(ざまぁ)』の報せ】
岩盤をくり抜いて作った即席の特大浴場で汗と血の匂いを洗い流し、私は新しい衣服に袖を通す。
インナーの替えはいくつか空間収納の魔導具に入れてあるとはいえ、公爵令嬢たるもの、常に身だしなみには気を配らなければならない。濡れた長い髪を火の魔力で繊細に乾かし、丁寧にブラッシングをしていく。
「きゅぅ~……」
私の膝の上では、すっかりお湯でふやけて一回り小さくなったモッチが、気持ちよさそうに仰向けになって腹を見せている。そのピンク色のお腹を指先で撫でてやると、モッチは甘えたような声を漏らして目を閉じた。
(ふふ、本当に平和な空間ね)
周囲を見渡せば、巨大な黒狼たちがそれぞれの窪みで丸くなり、穏やかな寝息を立てている。私という絶対的な力の庇護下に入ったことで、彼らは奈落の過酷な生存競争から一時的に解放され、深い休息を得ているのだ。
だが、その平穏な空気を、ガルムの低い唸り声が切り裂いた。
「……主よ。招かれざる客が迷い込んだようです」
入り口付近で見張りをしていたガルムが、暗闇の奥へと鋭い視線を向ける。彼の鼻がヒクヒクと動き、異物を捕捉した。
私も即座に魔力探知を広げる。
魔物の気配ではない。微弱な魔力、不規則な心音、そして何より、地上の泥と安い酒、それから強烈な『恐怖』の匂いが混ざり合った、人間の気配だ。
「……ヒッ、ひぃぃぃぃッ!?」
ドンッ、と派手な音を立てて、洞穴の入り口に一つの影が転がり込んできた。
背中に自分の背丈ほどもある巨大な荷袋を背負い、薄汚れた革鎧に身を包んだ小柄な男。頭には防塵用のゴーグルを乗せ、ネズミのように怯えた目をキョロキョロと動かしている。
地上と奈落の上層を行き来し、古代の遺物や希少な魔獣の素材を密輸して日銭を稼ぐ、命知らずのならず者たち――通称『闇商人』だ。
「黒狼の群れ……!? 馬鹿な、ここは安全ルートのはず……っ!」
男は腰を抜かし、後ずさりしようとする。
しかし、彼の背後にはすでにボルグをはじめとする数匹の黒狼が回り込み、退路を完全に塞いでいた。凄まじい威圧感と、鋭い牙から滴る涎を前に、男は絶望の悲鳴を上げてその場にへたり込む。
「喰うか? 骨と皮ばかりだが、人間の肉は久しぶりだ」
「待て。主の許可なく殺すな」
狼たちが低く言葉を交わすのを聞いて、男はさらに目をひん剥いた。
「しゃ、喋った……!? ネームドの群れ……終わりだ、俺はここで喰われる……っ」
ガクガクと震え、今にも失禁しそうな男の前に、私はゆっくりと歩み出る。
コツ、コツ、とヒールのないブーツの足音が響く。男は、巨大な狼たちの群れを割って進み出てきた『人間の少女』の姿を見て、完全に思考が停止したようにポカンと口を開けた。
「あなた、王都の闇ギルドの人間ね? その荷袋に刻まれた紋章、宰相派のグラディウス侯爵が裏でパトロンをしている商会のものだわ」
私の言葉に、男はビクッと肩を跳ねさせる。
「あ、あんた、人間……? どうしてこんな所に……いや、それよりどうして俺の素性を……」
「質問しているのは私よ、ネズミさん」
私は男を見下ろし、極上の微笑みを浮かべる。
ただ笑っただけだ。だが、私の瞳の奥に潜む底知れぬ魔力の深淵を覗き込んだ男は、狼たちに囲まれていた時以上の恐怖を感じたのだろう。ヒュッ、と喉を鳴らして這いつくばった。
「も、申し訳ありません! 俺はただのゴミ漁りです! 命だけは、命だけはお助けを……ッ!」
「命乞いなら、私にメリットを提示してからになさい。……そうね、そのパンパンに膨らんだ荷袋の中身、全部見せてもらうわよ」
私が顎でしゃくると、ガルムが器用に爪先で男の荷袋の紐を切り裂いた。
中からドサドサと転がり出てきたのは、奈落で拾い集めたと思われる魔石の欠片や、古びた武具。そして、地上から持ち込んだと思われる保存食や日用品の数々だ。
その中に、私の目を惹く小さな銀色の缶があった。
「あら」
私は指先を軽く動かし、風の魔法でその銀缶をふわりと手元へ引き寄せる。
蓋を開けると、乾燥した茶葉が放つ、上品で芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。
「『陽光の雫』……。王室御用達の最高級茶葉じゃない。侯爵の横流し品をくすねてきたのね?」
「ヒッ……! そ、それはたまたま手に入っただけで……!」
「素晴らしいわ。ちょうど食後のティータイムにしたいと思っていたところなの。……あなた、少しは役に立つじゃない」
私は指を鳴らす。
即座に地属性の魔法が発動し、洞穴の床の石が隆起して、滑らかな円形のティーテーブルと、優雅な装飾が施された二つの椅子を形成する。さらに、先ほどの温泉脈から引いてきた熱水を、空中で錬成した石のティーポットへと注ぎ込み、温度を完璧な八十五度へと魔力で調整する。
男は、無詠唱で次々と繰り出される神業のような魔法の数々を前に、完全に魂が抜けたような顔をしている。
「さあ、座りなさい。お茶を淹れてあげるわ」
「え……?」
「座れと言っているの」
私の声の温度が一度下がると、男は弾かれたように立ち上がり、石の椅子へと転がり込むように座った。
私はポットから、錬成した石のティーカップへと、黄金色に輝く紅茶を注ぐ。立ち上る湯気と香りが、奈落の瘴気を中和していく。
「さて。極上のお茶の代金として、地上の……王都の『今』の状況を、余さず私に話しなさい」
私はカップの縁に口をつけ、静かに男を見据える。
追放されてから、おそらく数日が経過しているはずだ。私が仕掛けた『時限爆弾』が、そろそろ爆発している頃合いだ。
「お、王都の……状況、ですか」
男は震える手でティーカップを持ち上げようとしたが、カチャカチャと音を立ててこぼしそうになるため、諦めて膝の上に手を置いた。
「ひ、酷い有様です……。ここ数日で、まるで国全体が狂っちまったみたいに……。まず、下層街で大規模な食糧暴動が起きました」
(……ビンゴね)
私は内心で拍手喝采を送りながら、表情を崩さずに先を促す。
「暴動? 王都の備蓄は十分に確保されていたはずだけれど」
「それが……流通を取り仕切っていた貴族たちが、突然『帳簿の計算が合わない』とか言って、自分たちの倉庫に穀物を溜め込み始めたんです。市場からパンが消え、値段が十倍に跳ね上がり……飢えた民衆が、ついに商館の打ちこわしを始めました」
「軍部は何をしているの? 治安維持の近衛兵が出動すれば、暴動など一日で鎮圧できるでしょう」
私が問いかけると、男は顔を青ざめさせながら首を横に振った。
「軍は……それどころじゃないんです。前線の砦から、『約束されていた軍資金と物資が届いていない』と猛抗議が来て……。調べたら、軍の上層部が組織ぐるみで横領していたことが明るみに出たとかで、近衛兵と前線部隊が一触即発の睨み合いになってます」
「あらあら。まあまあ」
私はカップをソーサーに置き、ふふっ、と堪えきれない笑い声を漏らす。
(当然よ。軍の馬鹿どもが横領した分を、私が毎月帳尻を合わせて、自分の公爵家の資産からこっそり前線へ補填してあげていたのだから。私がいなくなれば、その金の流れは完全に途絶える。前線の兵士たちは腹を空かせ、横領は一瞬で露見するというわけね)
自分たちの不正が、誰の犠牲の上に隠蔽されていたのかも知らずに甘い汁を吸い続けていた愚か者たち。その末路としては、あまりにも滑稽で美しい。
「……それで? アルフレッド王太子殿下と、グラディウス侯爵は?」
私の口から出た名前に、男はハッと息を呑んだ。
「王太子殿下は……お城のバルコニーから『民よ、冷静になれ! 皆で手を取り合おう!』と演説したそうですが、暴徒から石と腐ったトマトを投げつけられて逃げ帰ったそうです。今は城の奥に引きこもって、『なぜだ、なぜ誰も私の理想を理解しないのだ』と喚き散らしているとか……」
「……」
「宰相の侯爵様も、暴動の責任を押し付け合って、自分の派閥の貴族たちと仲間割れを始めています。おまけに、王都を覆っている『大結界』の魔力炉まで調子がおかしくなって、空の障壁が明滅し始めているって噂で……。このままじゃ、近いうちに隣国が攻め込んでくるか、魔獣の群れが王都になだれ込んでくるって、もっぱらの評判です」
男は一気にそこまで喋ると、ぜえぜえと肩で息をした。
「……あはっ」
私は、両手で顔を覆う。
肩が小刻みに震える。
ククッ、フフフッ、アハハハハハハハッ!
「あははははははっ! 傑作! ねえガルム、聞いた!? 泥舟が沈むどころか、自分たちで船底に穴を開けて爆発炎上しているわ!」
私は腹を抱え、涙が出るほど笑い転げる。
最高だ。私が想像していた以上の速度で、見事なまでに転げ落ちている。
理想だけを語り、現実の汚泥から目を背け続けたアルフレッド。
私を排除すればすべてが自分の思い通りになると信じて疑わなかったグラディウス侯爵。
そして、私の力に守られていることすら気づかずに、私を『悪役令嬢』と蔑んだ貴族たち。
彼らは今、本当の地獄を味わっている。
自分たちがどれほど無能で、どれほど私が彼らの尻拭いをしていたかを、骨の髄まで理解させられている最中なのだ。
「ああ……お茶が美味しい。今まで飲んだどんな紅茶よりも、この『絶望の報せ』というスパイスが効いていて格別だわ」
私は優雅にカップを持ち上げ、黄金色の液体を喉の奥へと流し込む。
冷や汗を流しながら私の狂気じみた高笑いを見ていた男は、ふと何かに気づいたように、目を限界まで見開いた。
「あ、あんた……まさか……。数日前に、王太子殿下から婚約破棄されて、奈落へ落とされたっていう……『悪逆の公爵令嬢』……?」
王都の裏社会でも、私の追放劇はすでに知れ渡っているらしい。
私はカップを静かに置き、男に向かって極上の、そして身も凍るような冷たい笑みを向ける。
「悪逆、ね。ええ、そうよ。私がこの国で一番の悪党だわ。だって、あんな無能な連中を甘やかして、自分たちで国を回せると勘違いするまで『守って』あげてしまったのだから。……私の罪は重いわね」
「ヒィッ……!」
男は椅子から転げ落ち、後ずさる。
目の前にいる少女が、ただの戦闘狂ではなく、国家の命運すら盤上で弄んでいた怪物であることを理解したのだ。
「安心しなさい。あなたを殺しはしないわ。美味しいお茶と、極上の喜劇を聞かせてくれた代金よ」
私は空間収納から、上層で狩ったキメラの体内から抜き取った、拳大の魔石を一つ取り出し、男の足元へ放り投げる。
地上で売れば、遊んで暮らしても一生困らないほどの純度を持つ高級素材だ。
「ひぃっ、こ、こんな高価なものを……!?」
「あげるわ。ただし、条件があるの」
私は立ち上がり、男の胸ぐらを軽く掴んで、彼の耳元へと顔を寄せる。
「これからも定期的に、地上の『喜劇』の続きを私に届けなさい。殿下がどれだけ無様に泣き叫んでいるか。侯爵がどれだけ見苦しく足掻いているか。……次に会う時、お茶請けになるような面白い話を持ってこなかったら、その時はモッチの餌にするわよ」
「きゅるるるるっ!」
空気を読んだモッチが、男に向かって(全然怖くない)威嚇の声を上げる。
「は、はいぃぃぃぃッ! 必ず! 必ずお持ちします、クローディアお嬢様ァァァッ!」
男は魔石を抱え込むと、荷袋もそのままにして、弾かれたように来た道を全速力で逃げ帰っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は満足げに息を吐く。
「……さて。地上の下らない喜劇は、時々お茶請けに楽しむとして」
私はガルムへと振り返る。
私の眼には、すでに次の闘争への飢えがギラギラと輝き始めていた。
「行きましょう、ガルム。この程度の準備運動じゃ、私の中の魔力が全然燃え尽きてくれないの。……さらに下へ向かうわ。中層の底へ」
「御意。……主の征く道、我らの牙が切り拓きましょう」
ガルムが深く頭を下げる。
背後で、休息を終えた黒狼の群れが一斉に立ち上がり、地鳴りのような咆哮を上げた。
私を頂点とする『奈落の軍勢』が、いよいよ本格的に動き出す。
狙うは、この迷宮のさらに深い闇。そして、そこに眠る未知の強敵たちだ。




