シーン3:【暴力が創り出す秩序(オアシス)、あるいは新たなる『群れ』の誕生】
奈落のさらに奥深くへと進むにつれ、周囲の空気はより一層の重みと湿度を増していく。
岩肌にへばりつく発光苔の色は、赤紫色から深い藍色へと変わり、不気味なほどの静寂が私たちを包み込んでいる。
チャプ、チャプ……。
私のブーツが、足元のわずかな水たまりを踏みしめる音が響く。
隣を歩くガルムは、私の斜め半歩後ろという絶妙な位置を維持し続けている。これは獣の群れにおいて、明確に『上位者』へ付き従う者の歩き方だ。
「きゅぅ……」
胸元に収まったモッチが、周囲の濃密な瘴気にあてられたのか、少しだけ気怠そうに鳴く。
私は歩みを止めることなく、モッチの背中を指先で優しく撫で、私の清浄な魔力を少しだけ分け与える。
「……主よ、間もなくだ。我輩の群れがねぐらにしている大洞穴が、この先にある」
ガルムが低く唸るような声で報告する。
彼の言う通り、前方からかすかに、多数の獣が発する獣臭と、微細な魔力の波長が入り交じった匂いが漂ってきている。
王都の貴族たちが纏う、香水と嘘で塗り固められた匂いよりも、よほど素直で心地よい香りだ。
「黒狼族の群れ……全部で五十、いや、六十匹近くいるわね。全員があなたのように二足歩行の獣人なの?」
「いや、違う。二足歩行へと進化を果たし、完全な知性を得たのは我輩を含めて数名のみ。大半は、先ほど主が葬ったような四足歩行の巨大な狼の姿を保っている。……だが、奈落の環境で鍛え上げられた彼らの牙は、地上の魔獣など比較にならぬほど鋭い」
ガルムの言葉に、私は思わず口角を上げる。
「それは頼もしいわね。私の『軍団』の初期メンバーとしては、合格点といったところかしら」
「しかし、主よ。一つ懸念がある」
ガルムが申し訳なさそうに耳を伏せる。
「群れの者たちは、完全な実力主義。我輩が敗北を認め、主に忠誠を誓ったとて、彼らがすんなりと貴女様のような『小さな人間の雌』を新しい長として受け入れるかどうか……」
「あら、心配ご無用よ」
私はふふっ、と喉の奥で笑う。
「言葉で通じない相手には、もっと分かりやすい『言語』を使ってあげるから」
私のその言葉と同時に、目の前の視界が開けた。
巨大なドーム状の地下大洞穴。
天井は数十メートルの高さがあり、そこから垂れ下がる巨大な鍾乳石が、青白い魔力光を放って洞穴全体をぼんやりと照らし出している。
そして、その広大な空間の至る所に、漆黒の毛並みを持つ巨大な狼たちが群れをなして休息していた。
「グルルルルル……」
「ワォォォォォンッ!!」
私たちの侵入――正確には、見慣れぬ人間の匂いを察知した群れが、一斉に立ち上がり、警戒の咆哮を上げる。
暗闇の中で、数百の黄金色の瞳が、一斉に私へと向けられる。
肌を突き刺すような、生々しい殺意と敵意の壁。
「静まれェッ!!」
ガルムが一歩前へ進み出ると、洞穴全体を震わせるほどの轟音で吠えた。
「我輩は敗れた! この御方こそが、我輩を力で凌駕し、我らの新たなる主となる御方である!! 皆の者、頭を垂れよ!」
ガルムの宣言に、群れが一瞬だけ静まり返る。
しかし、次の瞬間。
「……冗談だろう、ガルムの旦那」
群れの奥から、ガルムに次ぐ巨体を持つ、片目に大きな傷跡のある獣人が歩み出てきた。
彼もまた、二足歩行へと進化した上位個体のようだ。手には、粗削りな骨の戦斧を握りしめている。
「旦那が人間に敗れたってだけでも信じられねぇのに……。こんな、肉もついてねぇヒョロヒョロの小娘が、俺たちのアルファだと? 頭が奈落の瘴気でイカれちまったのか!?」
「無礼な口を叩くな、ボルグ! 貴様、主に殺されたいか!」
ガルムが激昂して前に出ようとするのを、私は片手で制止する。
「いいのよ、ガルム。彼の反応は極めて正常だわ。むしろ、何でもかんでも盲目的に従うだけの群れなら、私には必要ないもの」
私は一歩、前へと歩み出る。
周囲を取り囲む黒狼たちが、一斉に牙を剥き出しにして唸り声を上げる。
片目の獣人――ボルグは、見下すような視線で私を睨みつけた。
「おい、人間。旦那がどうしてアンタみたいな小娘に狂わされたのかは知らねぇがな。黒狼族(俺たち)を束ねたいなら、そのふざけた細腕で俺を納得させてみろ!!」
ボルグが戦斧を振り上げ、咆哮と共に私へと襲いかかってくる。
周囲の狼たちも、それに呼応するように一気に包囲網を縮めてきた。
(……なるほど。力を見せろ、というわけね)
私はボルグの攻撃を避けない。
ただ、静かに右手を持ち上げ、親指と人差し指を開く。
そして、振り下ろされた数トンもの威力を持つ戦斧の刃を、その二本の指で『ピタリ』と挟み込んだ。
「…………は?」
ボルグの動きが、完全に停止する。
戦斧は私の指先でがっちりと固定され、ミリ単位たりとも下へ降りることはない。
彼がどれだけ腕の筋肉を隆起させ、顔を真っ赤にして力を込めても、まるで巨大な岩山に武器を突き立てたかのように、微動だにしないのだ。
「悪いけれど、あなたを殴り飛ばして『ほら、強いでしょう?』なんていう退屈な証明をするつもりはないわ」
私は二本の指にほんの少しだけ魔力を流し込む。
パキィィィィンッ!!
それだけで、硬質な古代魔獣の骨でできていたはずの戦斧が、粉々に砕け散った。
「なっ……!?」
バランスを崩したボルグが尻餅をつき、周囲の狼たちが驚愕に後退る。
「あなたたちの棲家、少しジメジメしすぎね。床の岩盤もゴツゴツしてて、モッチのお昼寝には適さないわ」
私は周囲を見渡しながら、独り言のようにつぶやく。
そして、体内の魔力をゆっくりと、しかし莫大な量で練り上げ始めた。
私の身体の表面に、青白い魔力のオーラが陽炎のように立ち上る。
空間がミシミシと悲鳴を上げ、洞穴の空気が極限まで重くのしかかる。
「ヒッ……!?」
「な、なんだこのプレッシャーは……!」
先ほどまで私に牙を向けていた黒狼たちが、本能的な恐怖に当てられ、次々とその場にひれ伏し、ガタガタと震え始める。
尻餅をついたボルグに至っては、顔面を土気色にして息をするのも忘れているようだ。
「言葉ではなく、結果を見せてあげる。私があなたたちの主になれば、どれだけ快適な環境が手に入るかをね!」
私は右拳を固め、そのまま足元の巨大な岩盤に向かって、真っ直ぐに突き下ろした。
『魔力圧縮・爆砕造形』。
ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
まるで火山の噴火口の真上に立っているかのような、破滅的な轟音と震動。
だが、それは単なる破壊ではない。
私の拳から放たれた魔力は、地下深くの岩盤の『構造』を正確に捉え、計算し尽くされた亀裂を走らせる。
ズズズズズズ……ッ!
黒狼たちが寝床にしていた凹凸の激しい岩肌が、魔力の波によって次々と削り取られ、平らで滑らかな石の床へと作り変えられていく。
さらに、衝撃波は洞穴の壁面を正確にえぐり取り、雨風(瘴気)を防ぐための、個室のような巨大な窪みを等間隔で数十個も瞬時に形成してしまった。
「な……ああ……」
ボルグが、信じられないものを見る目で、物理的に『再構築』された洞穴の光景を見回している。
ただ拳を一つ振り下ろしただけで、荒れ果てた野生の洞窟が、洗練された石造りの神殿のような空間へと変貌を遂げたのだ。
「これだけじゃ、まだサービス不足かしらね」
私はさらに感覚を地下へと伸ばす。
超感覚が、岩盤の数十メートル下に、豊かな地下水脈が流れているのを捉えている。しかも、地熱によって温められた温泉だ。
「ここね」
私は床の特定の一点を踵でドンッ、と踏み抜いた。
ゴポォォォォォォォォッ!!
踏み抜いた亀裂から、凄まじい勢いで熱水が間欠泉のように噴き上がる。
私は即座に魔力で障壁を作り、飛び散る熱湯をコントロールする。
噴き出した湯は、先ほどの衝撃で造形しておいた巨大な石の窪みへと滝のように流れ込み、あっという間に巨大な『天然の露天風呂』が完成した。
もうもうと立ち上る白い湯気。硫黄の心地よい匂いが、洞穴に充満していた死臭とカビの匂いを完全に浄化していく。
「ふぅ。温度もちょうどいいわね。これなら、戦闘の疲れも完璧に癒やせるわ」
私は額に浮かんだわずかな汗を拭いながら、満足げにうなずく。
そして、茫然自失となって固まっている群れの狼たちへと振り返った。
「どう? これでもまだ、私に従うことに不満があるかしら?」
静寂。
滝のように流れ込む温泉の音だけが響く中。
「……あ、アォォォォォォォンッ!!」
最初に吠えたのは、先ほどまで私に逆らっていたボルグだった。
彼は地面に額がめり込むほどの勢いで平伏し、完全なる服従と畏敬の念を込めて、長く高い遠吠えを上げた。
それを皮切りに。
「ワオォォォォォンッ!」
「アオォォォォォンッ!!」
数十匹の黒狼たちが一斉に地に伏し、私を讃える遠吠えの大合唱が地下空間に響き渡る。
それは恐怖による服従ではない。
己たちの常識を遥かに凌駕する『神の如き力』への純粋な心酔と、その力が自分たちに恵みをもたらしてくれたことへの圧倒的な感謝だ。
「……主よ。貴女様は、やはり規格外だ」
ガルムが私の横に歩み寄り、深く首を垂れる。
「群れの全員が、心の底から貴女様を真のアルファとして認めました。もはや彼らは、貴女様のためならば火の中、水の中、そして奈落の底の底まで付き従うでしょう」
「頼もしいわね。でも、まずはゆっくり休むこと。……お風呂、入っていいわよ?」
私がそう言うと、狼たちは互いに顔を見合わせ、やがて歓喜の声を上げながら、我先にと新設された巨大な温泉へと飛び込んでいった。
バシャバシャとお湯を掛け合い、気持ちよさそうに目を細める凶悪な狼たちの姿は、どこか微笑ましいものがある。
(……王国の貴族たちは、権力と金で他人を縛り付けるけれど)
私は温泉の縁に腰を下ろし、ブーツを脱いで素足を温かいお湯に浸す。
(本当の秩序っていうのは、こうやって圧倒的な暴力を提示して初めて成り立つものなのよ)
「きゅいきゅいっ!」
モッチも私の胸元から飛び出し、器用に犬かき(?)をしながらお湯の上をポヨンポヨンと泳ぎ始めた。
「あはっ、可愛いわね、モッチ」
私はモッチにお湯をかけながら、腹の底から笑い声を上げる。
奈落の底。
生還率ゼロの絶望の迷宮。
しかし、私にとってはここが、王国よりも遥かに居心地の良い、私の手で創り上げる最高の『遊び場』だった。
さて、お風呂から上がったら、次はどうやってこの迷宮を蹂躙してあげようか。




