シーン5:【絶対封印の粉砕、そして毒舌妖精(リシェラ)の目覚め】
果てしなく続くと思われた天然の岩肌が、突如としてその姿を消した。
代わりに私たちの視界を覆い尽くしたのは、鈍い銀色に光る『壁』だ。
「……人工物、ね」
私は冷ややかな金属の壁にそっと指先を這わせる。
継ぎ目の一切ない、滑らかで硬質な未知の金属。その表面には、人間の血管のように複雑な幾何学模様の溝が彫り込まれており、そこを青白い光が脈打つように流れている。
「いかにも。ここから先が、奈落の『中層』……我輩たち奈落の住人でさえ、本能的に立ち入ることを避ける不可侵の領域だ」
ガルムが耳をピンと立て、警戒を露わにして低い声で唸る。
私の胸元では、モッチが金属壁から発せられる微弱な冷気に身を震わせ、さらに奥へと潜り込んでしまった。
王国の公的な歴史書によれば、奈落のダンジョンとは『古代から存在する天然の魔窟』であり、底知れぬ縦穴に凶悪な魔獣が巣食うだけの場所だと記されている。
だが、目の前に広がる光景はどうだ。
これは明らかに、高度な魔法文明を持っていた何者かが、途方もない年月と労力をかけて建造した『巨大な施設』の跡地だ。
(……王家は、この事実を知っていたのかしら。それとも、単なる無知?)
いや、前者だろう。
禁忌として奈落への立ち入りを厳しく禁じているのは、ここに眠る『歴史の真実』を隠蔽するためだ。あのアルフレッドの脳内お花畑な頭では知る由もないだろうが、王家の暗部を担っていた宰相あたりなら、薄々感づいていたのかもしれない。
「面白いわね。泥舟の底に、こんな素敵な秘密基地が隠されていたなんて」
私は金属の通路を、ヒールの音を響かせながら堂々と進む。
迷路のように入り組んだ通路の先には、一際巨大な両開きの扉が立ち塞がっていた。
扉の表面には、見たこともない古代文字がびっしりと刻み込まれ、何重もの魔法陣が南京錠のように重なり合って回転している。
「主よ、気をつけろ。その扉から漏れ出す魔力の密度は異常だ。ただ近づくだけで、我輩の毛皮が焼けるように痛む」
「ええ、分かるわ。これは……『絶対封印』ね」
私は扉の前に立ち、幾重にも重なり合う魔法陣の構造を視線でなぞる。
火、水、風、土、光、闇。六つの基本属性が複雑に絡み合い、互いの弱点を補完し合うように構築された、芸術的とも言える完璧な術式。
これを正規の手順で解除しようとすれば、王国最高の宮廷魔導師が百人がかりで計算しても、優に一世紀はかかるだろう。
「……中に、とんでもないものが閉じ込められているようね」
「引き返しますか、主よ。これほどの封印を施さねばならない存在……我々でも手に負えぬ化け物やもしれませぬ」
ガルムが私を庇うように一歩前へ出る。
だが、私はその背中を軽くポンと叩いて押し退けた。
「何言ってるのよ、ガルム。目の前に『開けるな』と書かれたプレゼントボックスがあるのよ? 開けない選択肢なんて、私の人生には存在しないわ」
私はふんわりと微笑みながら、ゆっくりと右拳を握り込む。
「それに、百年もかけて暗号を解くなんて、私の性分じゃないの」
ギリィッ……!
私の体内の魔力が、心臓のポンプを通して右腕へと一気に集束していく。
青白いオーラが拳の表面で渦を巻き、空間そのものが軋みを上げて悲鳴を上げる。
魔法陣の解析? 術式の解除?
そんなものは、頭の固い学者どもにやらせておけばいい。
どんなに複雑で強固な結界だろうと、それを維持している『絶対値』を上回る物理的・魔力的な暴力を叩き込めば、耐えきれずに崩壊する。それが私の編み出した、最も合理的でシンプルな『結界解除法』だ。
「ちょっとうるさくなるわよ。モッチ、耳を塞いでおきなさい」
胸元のモッチに声をかけ、私は大きく息を吸い込む。
そして、幾重にも重なる魔法陣の中心――術式の核となる一点へ向けて、渾身の右ストレートを叩き込んだ。
「粉砕なさい(ブレイク)ッ!!」
ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
拳が魔法陣に触れた瞬間、太陽が爆発したかのような閃光が通路を包み込んだ。
術式が私の異常な魔力質量に耐えきれず、次々とバグを起こして連鎖爆発を始める。
パァンッ! ガガィィィンッ! パリィィィィィンッ!!
分厚いガラスが何百枚も同時に叩き割られたような、甲高く耳障りな破壊音が連続して響き渡る。
「……ふぅ」
閃光と煙が晴れた後。
そこには、跡形もなく消し飛んだ魔法陣と、無残にひしゃげて内側へと吹き飛んだ巨大な金属扉の残骸があった。
「……信じられん。古代の絶対封印を、ただの一撃で……物理で粉砕したというのか……」
ガルムがポカンと口を開け、尻尾をだらりと下げている。
「さあ、お宝とのご対面よ」
私は軽快な足取りで、吹き飛んだ扉の先――円形の広大な空間へと足を踏み入れる。
部屋の中心には、周囲の魔力回路からすべてのエネルギーを供給されている巨大なカプセルが鎮座していた。
カプセルは透明な水晶でできており、中は乳白色の液体で満たされている。
そして、その液体の中に『何か』が浮かんでいた。
「魔獣……いや、違うわね」
私は水晶のカプセルに顔を近づける。
中に浮かんでいたのは、驚くほど小さな人影だった。
身長は十歳程度の子供ほど。透き通るような銀色の長い髪に、雪のように白い肌。
尖った長い耳と、背中に折り畳まれた薄い半透明の羽。
(妖精……? いや、それよりもっと古い、おとぎ話に出てくる『古代妖精』の類かしら)
私がカプセルの表面をトントンと指先で叩いた、その時だ。
プシューッ!!
カプセルの下部から激しく白い冷気が噴き出し、表面の水晶が音を立てて左右にスライドし始めた。
内部を満たしていた乳白色の液体が一瞬にして気化し、部屋全体が深い霧に包まれる。
「ゴホッ、ゲホッ……! ちょっと、なんなのよもう!」
霧の中から、高く澄んだ、しかしひどく不機嫌そうな声が響いた。
カプセルの縁に手をつき、銀髪から水滴を滴らせながら身を起こしたのは、先ほどまで眠っていた古代妖精の少女だ。
彼女は大きな翠緑の瞳を瞬かせ、まだ焦点の合っていない目で周囲をぐるぐると見渡す。
「非常停止プログラム作動!? 信じられない、私の『第零級・時空凍結式』が外部から強制破棄されたっていうの!? どこの無能な管理AIよ、設定ミスにも程があるわ!」
ブツブツと早口で文句を言いながら、彼女はバサリと背中の羽を広げ、カプセルからふわりと宙へ舞い上がった。
「あら、おはよう。随分と寝起きが悪いお姫様ね」
私が声をかけると、妖精の少女はビクッと肩を揺らし、初めて私とガルムの存在に気がついた。
彼女は空中に浮かんだまま、目を細めて私をジロジロと観察する。
「……人間? それに、そっちの毛むくじゃらは黒狼族の変異体? どうしてこんな防衛レベル最大の深層施設に、知能の低そうな猿と犬が入り込んでいるわけ?」
(猿と犬)
その暴言にガルムが静かに牙を剥くが、私は手で制して笑顔を深める。
「猿とはご挨拶ね。私はクローディア。その絶対封印とやらが少しお邪魔だったから、ノックの代わりに叩き壊させてもらったの」
「……はぁ? 叩き壊した?」
妖精の少女は呆れたように鼻で笑い、私の全身を魔力的な視界でスキャンするような仕草を見せた。
その直後。
彼女の翠緑の瞳が、限界まで見開かれた。
「な、ななな……何よその魔力構造!? 肉体細胞の奥深くまで超高密度のマナが癒着しているじゃない! あなた、人間というより『人型の魔力爆弾』よ!? まさか、本当にあの結界を力業で……!?」
「ええ、拳一つでね。私は細かい計算が苦手なの」
「野蛮! 野蛮の極み! 数百年かけて私が完璧に組み上げた美しい術式を、筋肉と暴力で蹂躙するなんて! これだから後世の退化した人類は嫌いなのよ!」
彼女は空中で地団駄を踏むように足をバタバタとさせ、私に向かって小指を突きつける。
「私はリシェラ! かつてこの世界を統べていた『叡智の民』の末裔にして、第一級魔導研究員よ! あーあ、最悪! こんな脳筋ゴリラ女に起こされるくらいなら、あと五百年は寝ていたかったわ!」
「……ふふっ」
毒舌を機関銃のようにまくし立てるリシェラを見て、私は思わず口元を押さえて笑い声を漏らす。
見た目は儚げで美しい妖精なのに、口を開けばこの上なく生意気で減らず口ばかり。
王宮の、表面上だけ取り繕った退屈な令嬢たちの会話より、よほど聞いていて心地が良い。
「笑い事じゃないわよ! 結界が破られたってことは、この施設の防衛システムが完全に沈黙したってことじゃない! これじゃあ、下層から『アレ』が這い上がってきても止められないわ!」
リシェラが顔色を変え、床の下――さらに深い奈落の底を指差す。
「アレ?」
「最下層に封印されている『特異点』よ! かつて世界を崩壊の縁まで追い込んだ、最恐のバグデータ! 人類はそいつを『魔王』って呼んで恐れていたはずだけど!」
魔王。
その単語が鼓膜を震わせた瞬間。
私の全身の血が、一気に沸点を超えて逆流した。
心臓が早鐘を打ち、視界が歓喜で赤く染まる。
「……魔王」
私はうっとりと、その甘美な響きを舌の上で転がす。
「ええ、そうよ! 結界が消えた今、最下層への道は開いちゃってるの! あの化け物が目覚めたら、私たちどころか地上の国まで一瞬で消し飛ぶわよ! だから早くここから逃げ……」
「リシェラ」
私は、震えるほどの笑顔で、宙に浮く妖精を見つめ返す。
「最下層への道は、どこから続いているのかしら?」
「え……?」
リシェラが、私の異常な興奮状態に気づき、言葉を失う。
「逃げる? 冗談でしょう? そんな『最高の遊び相手』が下で待っているというのに、どうして私が背を向けなければならないの」
私はドレスのインナーの胸元を強く握り締め、腹の底から湧き上がる高揚感を抑えきれずに笑う。
最強の魔物。生還率ゼロの象徴。
それが今、私の手の届く場所で眠っている。
「案内してちょうだい、リシェラ。私を、その魔王とやらの寝室まで」
「あ、あんた……本物の狂人ね……」
リシェラが絶望したように顔を覆い、ガルムが深く静かな服従の溜息をつく。
奈落の底で、生粋の戦闘狂と、黒狼の主、そして毒舌の古代妖精という、奇妙で最凶のパーティーが誕生した瞬間だった。
私の視線はすでに、誰も足を踏み入れたことのない『最下層』の闇へと真っ直ぐに向けられている。




