シーン1:【剛腕と大剣の交響曲(シンフォニー)、そして誇り高き狼は地に伏す】
「行くぞ、人間の小娘……ッ!!」
黒狼の咆哮と共に、視界を覆い尽くすほどの質量が上段から迫り来る。
身の丈を優に超える、無骨な黒鋼の大剣。刃こぼれすら禍々しい威圧感を放つその凶器が、空気を悲鳴のように引き裂きながら私の脳天へと落下してくる。
(……素晴らしいわね!)
極限まで高揚した私の脳内では、時間の流れが泥のように遅く感じられる。
黒狼の隆起した上腕二頭筋の繊維が収縮する様子、大剣が巻き起こす風圧で舞い上がる埃のひと粒ひと粒までが、鮮明な映像として網膜に焼き付く。
彼の踏み込みは完璧だ。重心の移動に無駄がなく、荒々しい外見に反して高度に洗練された武の理を感じさせる。
けれど。
「直線的すぎるわよ、ワンちゃん」
私は口角を限界まで吊り上げながら、迫り来る死の刃に対して、あえて半歩だけ『前』へと踏み込む。
後ろに退けば、大剣のリーチと風圧の餌食になる。横に躱せば、その巨体から繰り出される次撃の薙ぎ払いに対応が遅れる。
だから、最も危険で、最も死に近い懐へと飛び込む。
ゴォォォォォォォォッ!!
私の鼻先数ミリを、超質量の鋼が通過していく。
前髪の数本が刃の風圧で切り裂かれ、パラパラと宙を舞う。それと同時に、石畳に激突した大剣が爆発的な衝撃波と土煙を撒き散らす。
「なっ……!?」
黒狼の金色の瞳が、驚愕に見開かれる。
必殺の一撃を、自らの懐に潜り込むという狂気の選択で無効化される。彼の常識からは考えられない反応なのだろう。
「きゅ、きゅいぃっ!」
私の胸の谷間にすっぽりと収まっているモッチが、凄まじい轟音に短い悲鳴を上げる。
「ごめんなさいね、ちょっと揺れるわよ」
私はモッチを庇うように胸元へ左手を添えながら、空いた右手を黒狼の無防備な腹部へと叩き込む。
ただの打撃ではない。魔力を拳の表面に超高密度でコーティングし、触れた瞬間に内部へ浸透させる『魔力徹し』の技。
ドゴォォォォォンッ!!
「ガハァッ……!?」
硬質な毛皮と分厚い筋肉の鎧を透過し、直接内臓を揺さぶる衝撃。
黒狼の巨体がくの字に折れ曲がり、口から大量の唾液と少量の血が噴き出す。
しかし、彼はそこらの有象無象の魔物とは違う。
私の打撃を受けながらも、その衝撃を逆利用して後方へと跳躍し、見事に距離を取って着地してみせる。
ズザザザザザッ、とブーツの底を石畳に擦りつけながら、黒狼は荒い息を吐き出す。
「……馬鹿な。ただの人間の雌が、これほどの魔力を……そして、その異常な胆力。貴様、何者だ」
腹部を押さえながら、黒狼が低い声で唸る。
その目には、先ほどまでの「ただの獲物」を見る侮蔑の色はない。明確に「自分と同等、あるいはそれ以上の強敵」を警戒する戦士の光が宿っている。
「ただの公爵令嬢よ。ちょっとばかり、お稽古事を頑張りすぎただけのね」
私はドレスの残骸であるインナーの裾を軽く払い、妖艶に微笑む。
「どうしたの? もう終わりかしら。自慢の大剣が泣いているわよ」
挑発。
理性を吹き飛ばすための、甘く危険な劇薬。
黒狼の全身の毛が、怒りと闘争本能によって逆立つのがはっきりとわかる。
「……舐めるなよ、小娘ェェェェッ!!」
地を割るような咆哮と共に、黒狼が再び突進してくる。
今度は単調な上段からの振り下ろしではない。
右から左へ、左から右へ。
暴風のような大剣の連撃が、私を微塵切りにせんと襲い掛かってくる。
ガガガガガガガガッ!!!
私はそのすべてを、両手に纏わせた魔力の防壁と、最小限の体捌きで弾き返す。
火花が散る。
鋼と魔力が衝突する甲高い音が、地下空間に木霊する。
(ああ……楽しい。なんて楽しいの!)
王宮の舞踏会で、他人の足を踏まないように気を遣いながら踊る退屈なワルツなんかより、ずっとずっと心躍る。
命の削り合い。一瞬の判断ミスが死に直結する、この極限の舞踏。
黒狼の剣は重く、そして速い。一撃ごとに私の腕を痺れさせ、床の石畳を粉砕していく。
「オオオオオオオオッ!!」
黒狼の気迫がさらに増す。
大剣の刀身に、赤黒い魔力の炎が纏わりつき始める。
(なるほど、獣人特有の『闘気』ね。出し惜しみなし、全力の殺意。最高だわ!)
「きゅいっ! きゅいっ!」
胸元で、モッチが私を応援するようにポヨンポヨンと跳ねる。
その柔らかな感触が、私の集中力をさらに鋭く研ぎ澄ませていく。
「ええ、分かっているわ。そろそろフィナーレにしましょうか」
私は両足に力を込め、石畳を深く踏みしめる。
迎撃の構え。
黒狼はそれを好機と見たのか、大剣を大きく上段へ構え、己の全魔力と全闘気をその一刃に込める。
空間が歪むほどの超質量のエネルギー。
それが、燃え盛る流星となって私の脳天へと落下してくる。
「灰塵と散れェッ!!」
私は逃げない。躱さない。
右の拳を腰の横に引き絞り、体内の魔力を限界の限界まで――細胞が悲鳴を上げるほどに圧縮し、一点に集中させる。
青白い光が、私の右拳を包み込む。
「粉砕――ッ!!」
落下してくる大剣の刃に対して、私は下から上へと、渾身のアッパーカットを放つ。
ドッッッ……!!
一瞬、世界から音が消え失せる。
極限まで圧縮された私の魔力と、黒狼の全霊を込めた闘気が、刃と拳の衝突点において完全に拮抗する。
コンマ数秒の静寂。
そして。
パァァァァァァァァンッ!!!!
「なっ……!?」
黒狼の絶望に満ちた声が、爆音にかき消される。
私の拳が、大剣の刃を『物理的』に打ち砕く。
何百、何千という戦闘を潜り抜けてきたであろう黒鋼の巨剣が、まるで薄いガラス細工のように無数の破片となって宙を舞う。
キラキラと輝く鋼の雨が降り注ぐ中、私の拳は勢いを殺すことなく、黒狼の顎を的確に捉える。
ゴシャッ!
「ガ……ァ……ッ」
数トンの巨体が、重力を無視して宙に浮き上がる。
白目を剥き、完全に意識を刈り取られた黒狼は、そのまま数メートル後方の壁へと激突し、ズズズ……と崩れ落ちる。
「ふぅ……」
私はゆっくりと拳を下ろし、乱れた呼吸を整える。
舞い散る鉄屑が石畳に落ちるチャリン、チャリンという音だけが、静寂の戻った空間に響き渡る。
「きゅっ!」
モッチが胸元からひょっこりと顔を出し、私の頬を舐めて勝利を祝福してくれる。
「ありがとう、モッチ。お利口にしてて偉かったわね」
私はモッチの頭を撫でながら、壁際で意識を失っている黒狼の元へと歩み寄る。
致命傷は避けている。力加減は完璧だ。
しばらくすると、黒狼の巨体がピクリと動き、ゆっくりと金色の瞳が開かれる。
「……殺せ」
掠れた声。
立ち上がることすらできない状態の黒狼は、屈辱と、しかしどこか晴れやかな表情で私を見上げる。
「戦士として、全力を尽くして敗れた。悔いはない。強き者よ、我輩の首を刎ねるがいい」
潔い。奈落の魔物でありながら、その精神性は王国の腐りきった騎士どもよりもよほど高潔だ。
私は彼の目の前にしゃがみ込み、その豊かな黒い毛並みを覆う頭へ、そっと手を伸ばす。
「……?」
黒狼が戸惑う中、私は彼の耳の裏の、一番柔らかそうな部分を優しく掻き撫でる。
「誰が殺すと言ったの?」
「な、何を……」
「強いのは好きよ。それに、あなたからはとても良い『誇り』の匂いがする。気に入ったわ」
私は微笑む。
計算された令嬢の笑みではない。心の底から湧き上がる、純粋な歓喜の笑み。
「私に仕えなさい、ワンちゃん。そうすれば、もっと強敵に出会わせてあげる」
私の言葉に、黒狼は目を見開く。
彼の中の野性の本能が、目の前にいる少女が自分を遥かに凌駕する『真の主』であることを理解していく。
絶対的な力と、底知れぬ器の大きさ。
黒狼はゆっくりと首を垂れ、私の足元にその巨大な額を擦りつける。
「……我輩の名は、ガルム。黒狼族の長にして、奈落を彷徨う刃」
ガルムの声には、もはや敵意も迷いもない。
「我が命、我が牙、我が群れのすべてを、今この瞬間より貴女様に捧げよう。……我らが真の主よ」
「ええ。よろしくね、ガルム」
私はガルムの頭を撫でながら、満足げに頷く。
「きゅいっ!」
モッチも私の胸元から、新しい仲間を歓迎するように小さな声を上げる。
奈落の底で、私にとって初めての『手駒』を手に入れた瞬間だ。
(さて、運動の後は食事が必須ね)
私はお腹の虫の存在を意識しながら、この巨大な狼に極上の肉料理を振る舞う準備へと頭を切り替える。




