シーン5:【獲物の気配、血が沸き立つ夜の始まり】
モッチを胸元に抱え、私は大股で闇の通路を突き進む。
足音は立てない。だが、隠れる気もない。
魔力を隠蔽せず、むしろ「私がここにいるぞ」と誇示するように、全身からプレッシャーを垂れ流しながら歩を進めていた。
「きゅぅ……」
胸元で、モッチが少し不安そうに身を縮める。
私の放つ殺気に怯えているのか、それともこの先の闇に潜む『何か』に怯えているのか。
「大丈夫よ、モッチ。どんな化け物が出ようと、私が指一本触れさせないから」
私は歩きながら、そっと胸元の白い毛玉を撫でて安心させる。
モッチは私の手のひらにすりすりと頭を擦り付け、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
通路は徐々に下り坂になり、空気の質がさらにねっとりと重みを増していく。
壁面に生える発光苔の色も、淡い緑色から、毒々しい赤紫色へと変色していた。
ここから先は、先ほどまでの「上層」とは明確に違う領域。より濃密な瘴気と、より凶悪な生態系が支配するエリア。
(……来る)
ピタリ、と私の足が止まる。
超感覚が、前方およそ五百メートルの空間から、異常な質量の気配を捉えた。
これまでのキメラとは比較にならない。
例えるなら、先ほどのキメラが「そこら辺の野犬」だとしたら、今感知した気配は「武装した重騎兵の一個大隊」に匹敵する。
ドスン……。
微かな、しかし地鳴りのような重低音が響く。
足音だ。
それも、二本足の。
ドスン……、ドスン……。
一定の規則正しいリズムで、それは近づいてくる。
暗闇の奥、赤紫色の発光苔に照らされた空間に、巨大なシルエットが浮かび上がった。
「グルルルルル……」
地を這うような低い唸り声。
姿を現したのは、身長三メートルを超える、筋骨隆々の獣人だった。
全身を黒鋼のような硬質な毛並みで覆われ、頭部には狼の耳。
そして何より異質なのは、その手に握られた、身の丈ほどもある巨大な大剣だ。
野性の魔物ではない。明確な知性と、戦闘技術を持ち合わせた『戦士』の姿。
「……ほう。こんな上層に、人間の雌が落ちてくるとはな」
獣人は、しゃがれた低い声で言葉を紡いだ。
人間の言葉を介する魔物。
私の記憶の中の図鑑が、再び猛スピードで検索をかける。
(黒狼族……いや、ただの獣人じゃない。この異常な魔力密度。間違いなく、奈落の環境で突然変異化した個体ね)
「きゅ、きゅいぃっ……!」
モッチが震え上がり、私の胸の谷間の奥深くへと潜り込もうとする。
無理もない。彼が発するプレッシャーは、先ほどのキメラの群れとは桁が違う。
だが。
「……あはっ」
私の口元は、自然と三日月型に吊り上がっていた。
「やっと、まともに言葉が通じる『玩具』が出てきたわね」
私はモッチを庇うように少しだけ姿勢を落とし、獣人――黒狼に向かって挑発的に手招きをした。
「おしゃべりは好き? それとも、さっさと殺し合う方が好みかしら?」
私の言葉に、黒狼はピクリと耳を動かした。
その凶悪な金色の瞳が、私の細い身体を値踏みするように舐め回す。
「……狂っているのか? いや、違うな」
黒狼は、私から発せられる異常な魔力の波長を察知したのだろう。
ニヤリ、と牙を剥き出しにして嗤った。
「その細腕に宿る力……なるほど、ただの餌ではないらしい。我輩の剣の錆となるに相応しい、極上の『獲物』の匂いがする」
「奇遇ね。私も今、ちょうど強めのサンドバッグが欲しかったところなの」
ギリィッ、と黒狼が大剣を構える。
その瞬間、彼から放たれた殺気が実体を持った風となり、私の髪を激しく揺さぶった。
王国の近衛兵など百人束になっても敵わない、圧倒的な暴力の結晶。
(最高……ッ!)
全身の細胞が、歓喜に打ち震える。
私が求めていたのは、これだ。
血と肉と魔力がぶつかり合う、純度100パーセントの死闘。
理不尽な政治も、馬鹿げた婚約破棄も、腐った貴族どもの顔も、今はすべてがどうでもいい。
目の前にいる、この巨大な肉塊をいかにして粉砕するか。
それだけが、今の私を満たしてくれる唯一の真実だ。
「行くぞ、人間の小娘……ッ!!」
ドバァンッ!!
黒狼が石畳を粉砕し、弾丸のような速度で距離を詰めてくる。
振り下ろされる巨大な大剣。
その軌道を、私は一切の恐怖なしに見据える。
「さあ、始めましょうか」
私は歓喜の笑みを浮かべ、黒狼の凶刃に向かって、素手で真っ向から飛び込んだ。
奈落の底で。
悪役令嬢の、終わらない狂宴が幕を開ける。




