シーン2:【令嬢の仮面を脱ぎ捨てて、奈落の門を潜る】
「――ひ、捕らえろ! その女を直ちに連行しろォッ!」
大広間の空気が凍りついた数秒後。
ようやく我に返ったアルフレッドの、悲鳴のような命令が響き渡る。
私の周囲を取り囲むように、銀色の鎧に身を包んだ近衛兵たちが四人がかりで槍を突きつけてくる。彼らの切っ先は、主の号令にもかかわらずカタカタと情けない音を立てて震えている。
「動くな、悪役令嬢! 少しでも妙な真似をすれば、この場で斬り捨てるぞ!」
近衛兵の隊長らしき男が、顔面を滝のような汗で濡らしながら怒鳴る。
その声は裏返り、威嚇というよりは命乞いに近い響きを帯びている。
(……斬り捨てる、ね)
私は槍の穂先をちらりと一瞥する。
王宮が誇る最高品質の鋼。しかし、私の眼にはそれが枯れ枝より脆いおもちゃにしか見えない。
一歩踏み込んで槍の柄を握り潰し、そのまま隊長の顔面に膝蹴りを叩き込むシミュレーションが脳内を駆け巡る。所要時間、約〇・三秒。
けれど、私はすっと両手を胸の前で交差させ、大人しく彼らに従うポーズを取る。
「……乱暴になさらないで。自ら歩いていきますわ」
私が静かに微笑むと、近衛兵たちはビクッと肩を跳ねさせ、恐る恐る私の両腕に分厚い鉄の枷を嵌める。
ガシャン、という重苦しい金属音。
これは『封魔の枷』と呼ばれる特殊な魔導具だ。装着者の魔力を強制的に遮断し、ただのひ弱な人間に変えてしまう代物。
(あら、冷たくて気持ちいいわね。でも……)
私は手首に嵌められた枷の感触を確かめるように、指先を軽く動かす。
ミシミシッ、と微かな金属の軋む音が鳴る。
魔力を封じられたところで、私の肉体は幼少期からの地獄のような鍛錬によって、すでに常人の限界を遥かに超えた領域にある。ただの純粋な握力だけで、この程度の鉄くずならビスケットのように噛み砕くことが可能だ。
「さ、さっさと歩け!」
背中を槍の柄で小突かれ、私は大広間を後にする。
すれ違う貴族たちが、まるで汚物を見るような、あるいは得体の知れない化け物から逃げるような視線で私を見送る。
アルフレッドとミレイユは、私の姿が見えなくなるまで互いに身を寄せ合い、ガタガタと震え続けている。
(さようなら、無能で愛すべき王国の寄生虫たち。私という防波堤を失ったこの国が、果たして何日持ち堪えられるか……せいぜい泥舟の上で足掻きなさいな)
王城の輝かしい喧騒を背に、私たちは地下へと続く螺旋階段を下っていく。
カン、カン、カン……。
石造りの階段に、近衛兵たちの重いブーツの音と、私の硬質なヒールの音が交互に響く。
十段、二十段、五十段と下るにつれて、空気の質が劇的に変わっていく。
甘い香水と豪奢な料理の匂いはとうの昔に消え失せ、代わりに鼻腔を突くのは、じめじめとした苔の匂いと、古い鉄の錆びた臭い、そして――地底から這い上がってくる、濃密な『死』の気配だ。
壁に等間隔で掲げられた松明の炎が、チロチロと心細げに揺れている。
光の届かない階段の奥底は、まるで巨大な獣の口のようにぽっかりと開いており、すべてを呑み込もうと待ち構えている。
「……おい、急げ。こんな場所に長居したくない」
「だ、隊長。下から吹いてくる風が、冷たすぎます……」
近衛兵たちが、ガチャガチャと鎧を鳴らしながら愚痴をこぼす。
彼らの吐く息はすでに白く濁り、極度の緊張から体温を奪われているのが丸わかりだ。
対照的に、私の全身は今、かつてないほどの熱を帯びている。
(ああ……良い匂い。血と、獣と、古い魔力の入り混じった、極上の芳香)
深く息を吸い込むたびに、肺の奥底まで冷たくも濃密な空気が満ちていく。
社交界の薄っぺらい空気を吸うよりも、よほど健康的で生きている実感が湧く。
どれくらい下っただろうか。
時間にして三十分ほど歩き続けた頃、螺旋階段がふつりと途切れ、広大な地下空間へと出た。
「着いたぞ。ここが貴様の墓場だ」
隊長が槍で前方を示す。
そこには、王城の地下空間を二分するようにそびえ立つ、巨大な青銅の扉があった。
高さは優に十メートルを超え、表面にはおぞましい姿をした古代の魔物たちが、苦悶の表情で絡み合う凄惨なレリーフが彫り込まれている。
これが、『奈落のダンジョン』の入り口である『大封縛の門』。
ゴォォォォォォォォ…………ッ!!
門の隙間から、地鳴りのような低い風の音が漏れ出している。
いや、ただの風ではない。
それは地下深くで蠢く、無数の凶悪な魔物たちが放つ咆哮の残響であり、濃縮された魔力の奔流だ。
扉の前に立つだけで、常人ならば発狂して泡を吹いて倒れてもおかしくないほどの絶望的な重圧。
「ひっ……!」
近衛兵の一人が、そのプレッシャーに耐えきれずに後ずさる。
隊長も顔色を土気色に変え、ガチガチと歯の根を鳴らしている。
「あ、開けろ……! 早くこの女を突き落として、門を閉めるんだ!」
隊長の怒声に急かされ、兵士たちが巨大な滑車と鎖を操作する。
ギギギギギギギギ……ッ!!
耳を劈くような軋み音を立てて、青銅の扉がゆっくりと、僅かな隙間を開く。
その瞬間、吹き付けてきたのは圧倒的な『闇』。
光すらも呑み込む絶対的な暗黒が、ポッカリと口を開けた奈落へと続いている。
覗き込んでも底は見えない。ただ、這い上がってくる狂気と殺意の風が、私の真紅のドレスを激しく煽る。
「さあ、飛べ! 王家からの最後の情けだ。自ら飛び込むか、それとも我々に槍で突き落とされるか、どちらかを選べ!」
隊長が、震える切っ先を私の背中に向けて怒鳴る。
私は奈落の縁に立ち、吹き上げる暴風を全身で受け止めながら、ゆっくりと振り返る。
「……ええ、もちろん飛び込むわ。でも、その前に一つだけ、準備をさせていただけるかしら?」
「準備だと……? ふざけるな、罪人に許された時間など――」
「五秒で終わるわ」
私はそう言い放つと、両手首に嵌められた『封魔の枷』を胸の前に持ち上げる。
そして、フッ、と小さく息を吐き。
バキィィィィンッ!!!!
力任せに両腕を外側へ引き裂いた。
王城の魔導師が鍛え上げた絶対の拘束具が、まるで薄いガラス細工のように粉々に砕け散り、金属片が宙を舞う。
「なっ……!? か、枷を素手で……!?」
近衛兵たちの目が、限界まで見開かれる。
驚愕で凍りつく彼らを尻目に、私はそのまま両手を己のドレスの襟元へとかける。
「こんな窮屈で重たい服、遊び場にはふさわしくないもの」
ビリィィィィィィィィィッ!!!
最高級のシルクと金糸で織られた、数百万ゴルドは下らない特注のドレス。
それを、私は躊躇いもなく真っ二つに引き裂いた。
無残に破れた真紅の布地が、奈落の風に乗って蝶のように舞い上がる。
ドレスの下から現れたのは、薄着の令嬢の肌着――ではない。
黒を基調とした、極限まで無駄を省いた動きやすいタイトな戦闘用インナー。
そして、過酷な鍛錬によって無駄な脂肪が一切削ぎ落とされ、しなやかな豹のように引き締まった、私の真の肉体だ。
手脚の筋肉は鋼のように硬く、しかし女性らしい曲線美を残したまま、圧倒的な暴力のポテンシャルを秘めている。
「な、なんだその格好は……お前は、本当にエルヴァンシアの公爵令嬢なのか……!?」
腰を抜かした隊長が、信じられないものを見る目で私を見上げる。
「ええ、間違いなく。……でも、今日からはただの『私』よ」
私は足元のヒールを蹴り飛ばし、裸足に近い革張りのブーツソールを奈落の縁にかける。
吹き上げる瘴気の風が、私の長い髪を荒々しく揺さぶる。
全身の血が、これから始まる果てしない殺し合いと生存競争を予感して、歓喜の産声を上げている。
「それじゃあ、ごきげんよう。……せいぜい、私が戻るまで国を滅ぼさないように頑張ることね」
私は近衛兵たちに向けて妖艶なウインクを一つ投げ、そのまま躊躇うことなく。
自ら、真っ暗な奈落の底へと身を躍らせた。
「あああああ……ッ!! 最高ね……ッ!!」
重力に引かれ、凄まじい速度で落下していく最中。
風を切り裂く轟音の中で、私は長年押し殺してきた己の狂気を、満面の笑みと共に解放した。
ここから先は、誰の目も気にしなくていい。
淑女の仮面も、国家のしがらみも、すべて地上に置いてきた。
さあ、狩りの時間だ。




