シーン2:【最恐との邂逅、重力と暴力の熱烈な挨拶】
バキィィィィンッ!!
「開けゴマ(物理)!!」
私の右足から放たれた回し蹴りが、最深部へと続く厚さ三メートルはあろうかという黒曜石の扉を、蝶番ごと文字通り『粉砕』する。
凄まじい轟音と共に、扉の残骸が巨大な空間の奥へと砲弾のように吹き飛んでいく。
「ちょっと! もう少し静かに入れないの!? せめてノックくらいしなさいよ!」
遅れて飛んできたリシェラが、私の頭の上でギャーギャーとわめく。
「あら、ごめんなさい。でも私、こういうお行儀の良いご挨拶は苦手なの」
私はインナーの襟元を正し(といっても、すでにボロボロだが)、舞い散る土煙と砕けた石の雨の中を、堂々とした足取りで進み入る。
そこは、王都の巨大闘技場がすっぽりと収まってしまうほどの、途方もなく広大な円形ドームだった。
床は一面、鏡のように磨き上げられた漆黒の水晶で覆われ、天井からは無数の氷の刃のような鍾乳石が垂れ下がっている。
そして。
ドームの中央。
「……ッ」
私の後ろに続いて入ってきたガルムが、息を呑んで立ち止まる。
私自身の歩みも、自然と停止した。
空間のちょうど真ん中に、巨大な『漆黒の結晶』が浮遊していた。
高さは十メートル近い。幾何学的な面を持つその結晶の表面には、まるで生き物のように脈打つ赤い魔力のラインが走っている。
ドクン……。ドクン……。
結晶の内部から響く、巨大な心臓の鼓動音。
それが一回鳴るたびに、この広大なドーム内の重力がグワンと歪み、私の内臓を下へと強く引っ張り下ろそうとする。
空気が重いのではない。空間そのものの質量が、結晶を中心に異常な数値を弾き出しているのだ。
「……あれが、ゼノヴァル」
私の声が、少しだけ震えた。
恐怖ではない。武者震いだ。
結晶の中に、うっすらとシルエットが見える。
身長は二メートルを超え、背中からは六枚の漆黒の翼が折り畳まれるように生えている。頭部には、ねじれた二本の角。
壁画で見た姿そのものだ。
だが、壁画から受ける印象とは比べ物にならない。ただそこに『在る』だけで、世界の法則が彼を中心に書き換えられていくような、圧倒的で絶対的な『格』の違い。
「……きゅ、きゅいぃぃぃ……ッ!」
胸元のモッチが、限界を迎えたようにガタガタと震え、私の服の隙間から滑り落ちそうになる。
私は慌ててモッチをすくい上げ、ガルムの方へと振り返った。
「ガルム、モッチを少し預かってて。リシェラ、あなたも下がっていなさい」
「主よ、本気ですか……? あれは、我々の手におえる存在ではありません。ただの余波だけで、我輩の毛皮が逆立ち、骨が軋むほどの……」
「いいから、預かって。私のかわいいモッチが、プレッシャーでぺちゃんこになっちゃうわ」
私は強引にモッチをガルムの腕に押し付ける。モッチは「きゅぅぅ……」と涙目で私を見つめたが、ガルムの豊かな胸毛の中に潜り込むと、少しだけ安心したように丸くなった。
「あんた、死ぬわよ。あれは寝ているだけでこれだけの重力を発生させてるの。目覚めたら……」
「目覚めさせるのよ」
私はリシェラの忠告を遮り、再び前を向く。
結晶へと続く、真っ黒な水晶の床を歩き出す。
コツ……コツ……。
私の一歩ごとに、静寂だった空間に波紋が広がる。
距離が縮まるにつれ、重力はさらに増し、普通の人間なら膝をついて這いつくばるレベルに達している。
だが、私は体内の魔力を逆回転させ、反発力を生み出すことで、完璧な姿勢を保ったまま歩みを止めない。
「……おはよう、眠れる森の魔王様」
結晶の数メートル手前で立ち止まり、私はそっと語りかける。
返事はない。
ただ、赤い脈動が少しだけ早くなった気がした。
「何百年も寝ていて、退屈じゃない? 王国の連中があなたに押し付けた『悪役』の汚名、私が代わりに背負ってあげたわよ。……だから、そろそろ起きて、私と『遊んで』くれないかしら」
私が右手を結晶に伸ばそうとした、その瞬間だった。
ピキッ……。
結晶の表面に、微細な亀裂が走った。
「ッ! 下がりなさいクローディア! 自己防衛機能が起動するわ!!」
リシェラの絶叫と同時だった。
ドオォォォォォォォォォォンッ!!!!
結晶の中から、目に見えない巨大なハンマーで叩き潰されたような、超高密度の『重力波』が全方位に向かって爆発した。
「ガハッ……!?」
後方にいたガルムが、見えない力に押し潰されて膝をつく。リシェラも空中でバランスを崩し、床に叩きつけられる。
私自身も、上から何十トンという鉄塊を乗せられたような衝撃を受け、ブーツの底が漆黒の水晶床にメリメリとめり込んだ。
(すごい……! 寝ぼけ眼で放った威嚇で、これほどの威力……!)
私は歯を食いしばり、口角を限界まで吊り上げる。
ピキピキピキッ、パァァァァァァァァァンッ!!!
凄まじい音と共に、十メートルの漆黒の結晶が粉々に砕け散った。
黒い破片が星屑のように舞い散る中、中心からゆっくりと『それ』が姿を現す。
「……愚かな。何百年経とうとも、人間の強欲さと浅ましさは変わらぬか」
地を這うような、冷たく、そしてどこまでも深く響く男の声。
舞い散る黒曜石の欠片を払い除け、ゼノヴァルが私を見下ろしていた。
蒼白く美しい顔立ち。しかし、その瞳は血のように赤く、一切の感情を排した絶対零度の冷酷さを湛えている。
六枚の黒翼がゆっくりと広がり、ドーム内の魔力が彼の周囲に渦を巻いて吸い込まれていく。
「己の欲望のために封印を破り、再び世界を破滅に導こうとするか。……哀れな人間よ。貴様らのその罪深き血は、我が黒炎によって……」
魔王としての威厳をたっぷりと込め、人類への絶望と断罪の言葉を紡ごうとするゼノヴァル。
その、尊大で冷徹な長台詞の途中で。
「――御託はいいわよ、寝起きのおっさん」
「……は?」
ドンッ!!
私は、己を押し潰そうとする超重力の結界を、体内の魔力爆発による推進力で強引に引き剥がし、一瞬にしてゼノヴァルの眼前――数十センチの距離まで肉薄した。
ゼノヴァルの赤い瞳が、驚愕に見開かれる。
絶対的な重力場の中で、人間がこれほどの速度で動けるはずがない。彼の何百年という常識が、私の行動を予測できなかったのだ。
「そんな退屈な歴史の話、私は聞き飽きているの。……今はただ、力と力で語り合いましょう!」
私は満面の笑みと共に、右の拳を限界まで引き絞り。
一切の手加減なし、魔力圧縮率1000%の超絶的なストレートを。
魔王ゼノヴァルの、その端正で美しい顔面のど真ん中へ、真っ直ぐに叩き込んだ。
ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!!!
「ガ、ブッ……!?」
歴史上最恐と謳われた魔王の顔面が、私の拳の衝撃で凄まじく歪む。
発生した衝撃波が空間の重力を吹き飛ばし、ドームの天井の鍾乳石が次々とへし折れて落下してくる。
「嘘……でしょ……?」
後方で見ていたリシェラが、顔面を蒼白にして呟く。
「……主よ、流石にそれは……」
ガルムも、呆然として口をパクパクさせている。
ズドォォォォォォォンッ!!
私のパンチをモロに食らったゼノヴァルの巨体は、そのまま後方へ数十メートル弾き飛ばされ、漆黒の水晶の壁に深々とめり込んだ。
壁からパラパラと瓦礫が落ちる音だけが響く中、私は右手をぷらぷらと振りながら、最高に機嫌の良い声で言った。
「さあ、起きたでしょう? 本気の朝の運動、始めましょうか!」
壁にめり込んだ魔王が、ゆっくりと顔を上げる。
その顔には、怒りでも絶望でもなく。
「……貴様、何者だ?」という、純粋な混乱とドン引きの表情が浮かんでいた。




