第42話: 飢えた王都
王都マギアノーヴァの城門が見えた時、最初に感じたのは匂いだった。
魔力の匂い——甘く、金属的な、この世界の大都市に共通する匂い。だがそれに混じって——腐敗の匂い。酸っぱく、重く、鼻の奥に張り付く異臭。
「……ひでえ匂いっすね」
ルッツが鼻を押さえた。エルマーは顔をしかめたが、何も言わなかった。
城門を抜けた。
市場は悲鳴のような喧騒に満ちていた。
パン屋の棚に並んだパンが灰色に変色し、崩れている。肉屋の肉が異臭を放ち、蠅がたかっている。果物屋の棚は空に近い——かろうじて残っている果物も、表面に黒い斑点が浮いている。
「これ……全部腐ってるっすか」
「保存魔法が切れたんです。魔法で鮮度を保っていた食品が——一斉に本来の時間に追いつかれた」
三日前のパンは三日分腐る。一週間前の肉は一週間分腐る。——一ヶ月前に仕入れて保存魔法で封じていた食品は、一ヶ月分の腐敗が一度に襲う。
市民が広場に集まっている。顔色が悪い。子供が泣いている。配給の列ができているが、配られているのは硬い乾パンだけ。
「腐った食品をどうすればいい」
すれ違った女性が呟いていた。その問い自体が——この世界の断絶を物語っている。保存魔法に依存した世界では、「食品が腐る」という現象そのものが未知なのだ。
アネリーゼは広場の端に場所を確保した。
「エルマーさん。火を起こしてもらえますか」
「ああ」
「ルッツ。荷物から壺を出して。漬物と干物と——発酵パンの種を」
「はいっす!」
旅の荷物を開いた。フィールデンから持ってきた発酵保存食。漬物。干し肉。干し海藻。チーズの小切れ。そして——酵母を生かしたパンの種。
エルマーが素早く火を起こした。旅で慣れている。石と薪を組み、息を吹きかけ——数分で安定した炎が上がる。
「パンを焼きます。——待ってください。すぐに」
生地をこね始めた。フィールデンの黄金麦粉。水。塩。酵母。手が覚えている。何百回と繰り返した動作。
パンの匂いが広場に漂い始めた。
焼き上がったパンを切り分けた。小さく。限られた量だから——一人分は手のひらに乗るくらい。
隣に漬物を並べた。干し肉を薄切りにした。海藻を水で戻した。
「どうぞ。食べてください」
最初に近づいてきたのは子供だった。五歳くらいの男の子。母親の手を握っている。
「何これ。パン?」
「はい。発酵パンです。酵母で膨らませた——」
子供がかじった。口をもぐもぐさせて——首を傾げた。
「酸っぱい」
「ええ。酵母が作った酸味です。……嫌でしたか?」
「……嫌じゃない。おなか空いてたから」
母親が頭を下げた。「ありがとうございます」。声が震えていた。
もう一人。もう一人。次第に人が集まってくる。
「何だこのパン。見たことない」
「見た目が悪いな。……でも食べられるのか」
「酸っぱい——でも、噛んでると甘くなる」
「この茶色いの何? 漬物? 酸っぱ——あ、でも悪くない」
「干し肉? 硬い。硬いけど——味がある」
一人の男が口をもぐもぐさせながら呟いた。
「……不味くはない」
アネリーゼの手が止まった。——不味くはない。エルマーの口癖。この世界の人々も同じ言葉を使うのだ。
列ができ始めた。
夕方まで炊き出しを続けた。
パンの種は尽きた。漬物も残り僅か。干し肉はとっくになくなった。
「師匠……材料がもう——」
「わかっています」
列はまだ続いている。百人以上が並んでいる。子供。老人。若い夫婦。魔法料理しか食べたことがない人々が——発酵保存食を求めて並んでいる。
保存食の歴史が脳裏をよぎった。ナポレオンが懸賞金を出して瓶詰め保存法を発明させた1804年。大航海時代の船乗りが壊血病で死んでいった時代。人類は常に「食品をどう保存するか」と格闘してきた。
魔法がその格闘を丸ごと消し去った。そして格闘の記憶すら失われた。
——だから今、腐った食品の前で途方に暮れている。
「小麦が足りない」
声が出た。
この炊き出しを続けるには——大量の小麦が要る。漬物の材料が要る。発酵の種が要る。フィールデンから持ってきた分だけでは、到底足りない。
「ああ」
エルマーが言った。焚き火の前に座って、残り火を見ている。
「足りねえな」
「どうすれば——」
「俺に心当たりがある」
エルマーが立ち上がった。琥珀色の目が——炎を映して光っている。
「辺境の農民に伝書を出す。フィールデンだけじゃねえ。近隣の村も含めて——黄金麦と在来種の小麦を集める」
「集められますか」
「農民はな。都会の連中と違って、互いの畑を知ってる。誰が何を育てて、どこに余りがあるか——全部わかる。魔法の流通が止まった今、動けるのは辺境の農民だけだ」
エルマーの背中が大きく見えた。——この人は、こういう人だ。黙って火を焚いて、必要な時に立ち上がる。
夜。広場の片隅で寝支度をした。
王都に宿を取る金はない。炊き出しの場所を離れるわけにもいかない。
毛布を敷いた石畳の上で、空を見上げた。王都の空は星が少ない。魔法の灯りが明るすぎて——星を隠している。サルーテの丘で見た星空が遠い。
「あんた」
エルマーが隣の毛布に横になった。
「何ですか」
「追放された場所に——戻ってきちまったな」
「……はい」
王都マギアノーヴァ。この城壁の向こうに——ヴァイスガルテン家がある。父がいる。私を追放した父が。
「許すのか」
「許すかどうかは……考えていません。今は——飢えている人がいます。それだけです」
「……そうか」
エルマーが寝返りを打った。背中が見えている。
「あんたの料理は——うまかった」
「え?」
「今日の炊き出し。子供が食って笑ってた。……あれでいい」
——あれでいい。
最高の褒め言葉だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「最後の晩餐を作らせてほしい」というアネリーゼの台詞は、書く前から決めていました。料理人が命の危機に直面したとき、料理人として取るべき行動は何か——武器を取ることでも逃げることでもなく、料理を作ること。それがアネリーゼの本質です。
ガストンの「均一じゃない味。凸凹のある味」という表現。これはこの物語の核心テーマそのものです。魔法食品は均一で安定している。でも均一さは——つまらなさの別名でもある。発酵食品は一つとして同じものがない。温度が1度違えば味が変わる。時間が1日違えば風味が変わる。その「凸凹」こそが美味しさの本質。完璧な均一より、不完全な多様性のほうが——人の心を動かす。
次回は「種の守人」。旅の折り返し地点です。
評価・ブックマーク・感想をいただけると励みになります!




