第41話: 帰郷
黄金麦の畑が見えた。
馬車が丘を越えた瞬間——風景が開けた。フィールデンの谷。朝日に照らされた畑が、金色に輝いている。穂が風に揺れている。出発した時よりも——穂が重い。実りが進んでいる。
「師匠! フィールデンっす!」
ルッツが馬車の窓から身を乗り出した。
「ルッツ、危ないですよ」
「でも見てくださいよ! 畑! 石窯の煙! ——帰ってきたっす!」
帰ってきた。
アネリーゼは窓枠に手を置いて、畑を見つめた。黄金麦。石窯の煙。チーズ小屋の屋根。——全てが出発前と同じに見えて、少し違う。
自分が変わったのだ。
砂漠を歩いた。火山の温泉に浸かった。山賊に灼熱茸を食べさせた。海で海藻を採った。星空の下で——肩が触れた。
同じ景色が、違って見える。
馬車が村の入り口に止まった。
ハンスが出迎えていた。白い髭。日に焼けた顔。少し痩せたように見える——留守の間に苦労をかけた。
「おかえり、アネリーゼ」
「ただいま、ハンスさん」
「無事でよかった。——ルッツも元気そうだな」
「元気っす! 師匠の荷物持ちで筋肉ついたっす!」
リーナが走ってきた。エプロンの裾を翻して。
「アネリーゼ! おかえりなさい! 痩せたわね——ちゃんと食べてたの?」
「食べていました。……たぶん。途中からはエルマーさんが——」
「エルマーが? ああ、あの人も帰ってきたのね。よかった」
エルマーが馬車から降りた。黙って畑の方を見ている。
「あの畑は——ちゃんと育ってるな」
独り言のように呟いた。アネリーゼを見て、次に畑を見て——同じ顔をしている。安堵の顔。
チーズ小屋に旅の収穫を広げた。
テーブルの上に並んだのは——世界の発酵文化の断片。
「これが砂漠の種菌です。乾燥してあるので、水に戻せば発酵乳が作れます」
「これが温泉の耐熱菌。穀物のデンプンを糖に変える能力がある——味噌や醤油のような調味料を作れる可能性があります」
「これが岩塩。十種類以上のサンプル。ミネラル組成が全部違います」
「これが魚醤。トビアスさんの五十年もの。そして海藻の干物。出汁が取れます」
ハンスが一つ一つ手に取って見ている。目が——潤んでいる。
「アネリーゼ。お前さん、すごいものを持ち帰ってきたな」
「まだ実験段階です。これからフィールデンの環境で、フィールデンの素材と合わせて——」
「わかっとる。だが——これだけの収穫を持ち帰ってきた。お前さんの母親も……喜んでるだろう」
母。エレナ・ヴァイスガルテン。
港町のトビアスが言った。「お前の母親、俺のこの壺を見て——泣いた」。母もこうして世界を巡り、発酵文化の断片を集めていたのだろうか。
「……ありがとうございます、ハンスさん」
リーナが新しい食材に目を輝かせている。
「この海藻! 面白い形ね。これで出汁が取れるの?」
「はい。ルッツが干したものです」
「ルッツが? すごいじゃない」
「へへ。師匠に教わったっす」
ルッツが照れている。旅の前とは顔つきが変わった。子供の丸さが消えて、少し——大人に近づいている。
「エルマーも来て。これ味見して」
リーナがエルマーを呼んだ。エルマーが億劫そうに近づいてくる。
「この耐熱菌で作った甘酒粥、味見してくれない?」
「俺は味なんか——」
「この人、味がわかるのよ。畑の土みたいだとか、変な言い方するけど」
リーナがアネリーゼの方を見て笑った。エルマーが鼻の頭を擦った。
「……誰が言った」
「エルマーさんが言ったんですよ」
「……うるせえ」
午後。チーズ小屋の整理をしていた。
旅の間にエルマーとリーナが管理してくれたチーズは、順調に熟成が進んでいた。三期目の仕込みまで完了している。発酵壺の酵母も元気だ。
——エルマーが守ってくれた。
畑も。酵母も。チーズも。石窯も。全部。
窓の外を見た。エルマーが畑に出ている。帰ってきて最初にすることが——畑の確認。この人は変わらない。
だが——。
「アネリーゼ」
ハンスの声。表情が曇っている。
「何ですか」
「……実は、お前さんが留守の間に——王都から使者が来ておる」
「使者?」
ハンスの目が暗い。
「奥の部屋に案内してある。——話を聞いてくれ」
奥の部屋に、一人の男が座っていた。
王都の紋章が入った外套。疲れた顔。目の下に深い隈。——何日も馬を飛ばしてきたのだろう。
「ヴァイスガルテン殿か」
「はい。何用でしょうか」
使者が懐から手紙を出した。封蝋に王都の印。
「王都から至急の要請です」
手紙を受け取った。封を切った。
『フィールデン在住 アネリーゼ・フォン・ヴァイスガルテン殿
王都において、保存魔法の不安定化が確認された。
原因は調査中であるが、保存魔法をかけた食品が次々と腐敗を始めている。王都の食糧庫の約三割に影響が及んでおり、このままでは数週間以内に深刻な食糧不足が発生する見込みである。
貴殿が発酵・保存技術に精通していると聞き及び、至急、王都に助力を請う。
——王都行政府 食糧局』
手紙を置いた。
「保存魔法が——不安定化?」
「はい。二週間前から始まりました。最初は一部の食糧庫だけでしたが、急速に広がっています」
保存魔法。食品に魔法をかけて腐敗を防ぐ技術。この世界の食糧供給を支える根幹。
それが——崩れ始めている。
「食品が腐り始めた。至急、王都に——」
使者の声が震えていた。この男自身が——恐怖している。
食糧が腐る。保存ができない。都市の食糧供給が止まる。——飢餓。
「ハンスさん」
「聞いた。……大変なことになったな」
エルマーが奥の部屋に入ってきた。畑から戻ったらしい。手紙を見て——表情が変わった。
「何だ。何があった」
「王都の保存魔法が不安定化しています。食品が腐り始めた」
「……それは」
「飢餓の始まりです」
窓の外を見た。
フィールデンの畑が夕日に染まっている。黄金麦が風に揺れている。石窯の煙が細く上がっている。
帰ってきたばかりだ。旅の荷を解いたばかりだ。世界の発酵文化を集めて、これからフィールデンで実験を始めようとしていたのに。
だが——。
保存魔法が崩壊すれば、王都の人々が飢える。子供が。老人が。——食べ物が腐っていく。
発酵は——保存の技術だ。
魔法が使えなくなった世界で、食品を保存する方法を知っているのは——。
「行きます」
声が出ていた。
「あんた——」
「王都に行きます。私が知っている発酵の知識で——何かできるかもしれない」
エルマーが——何も言わなかった。目を閉じて、一つ息を吐いた。
「俺も行く」
「エルマーさん——」
「畑はハンスに任せる。……あんた一人で行かせるわけにはいかねえ」
「俺もっす!」
ルッツが手を挙げた。
「師匠の行くところに俺も行くっす!」
夕陽が沈む。フィールデンの畑が暗くなっていく。
帰ってきたばかりなのに——もう、出発の準備を始めなければならない。
だが不思議と、焦りはなかった。
旅の収穫がある。砂漠の乾燥発酵。岩塩の発酵制御。温泉の耐熱菌。魚醤。海藻。——全ての知識が、この危機のために集められたかのように感じる。
母が残した発酵の知識。旅で集めた世界の技術。仲間の力。
——飢餓に、料理で立ち向かう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「デンプンの糖化」は日本酒やビールの醸造で最も重要な工程の一つです。麹菌がデンプンをグルコースに分解し、そのグルコースを酵母がアルコールに変える。二段階の微生物リレーです。エルディナールの耐熱菌は麹菌の「火山版」——高温に適応した亜種というイメージで書きました。
塩分濃度で菌の種類が変わるという話。魚醤は30%、味噌は12〜13%、醤油は16〜18%と、塩分濃度で発酵のプロファイルが全く異なります。塩が多いと耐塩菌だけが生き残り、少ないと多様な菌が共存する。塩の量を決めるだけで、最終的な味の方向性が決まる——シンプルだけど奥が深い技術です。
次回は「山賊の晩餐」。旅の途中でトラブルです。
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