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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第40話: 星空の食卓

 港の丘に食材を並べた。


 帰路の前夜。明日の朝、フィールデンに向けて出発する。その前に——旅で集めた食材を、全てこの場所で料理したかった。


 砂漠の干し肉。火山の灼熱茸。港の魚醤と海藻。岩塩鉱山の塩。ファーリスの種菌から作った小さな発酵乳。温泉の耐熱菌で起こした穀物の甘酒。そしてエルマーが持ってきたフィールデンの黄金麦パン。


 全てが一つのテーブルに——いえ、丘の草の上に広げた布の上に——並んでいる。


「師匠、世界の一皿っすよ、これ!」


 ルッツが興奮している。目が輝いている。


「世界の一皿——いい言い方ですね、ルッツ」


「だって全部違う場所のものっすよ。砂漠と火山と港と——全部混ざってるっす」




 料理を始めた。


 まず、灼熱茸を薄く切った。この茸は生では硬いが、薄切りにして魚醤に浸すと——時間をかけて旨味を吸い込む。


「ルッツ。海藻の出汁を取って」


「はいっす!」


 ルッツが干し海藻を水に浸し始めた。手つきが確かになっている。旅の初日とは別人だ。


「エルマーさん。パンを焼いてもらえますか」


「焼くって、直火でいいのか」


「はい。表面だけカリッと。中は柔らかいまま」


 エルマーが黙って流木の火にパンを翳した。手慣れている。——石窯の前で何百回と繰り返した動作。


 三人が自然に役割を分担している。アネリーゼが味の設計。ルッツが出汁と下準備。エルマーが火と力仕事。


 誰も指示されていない。自分の場所を知っている。




 料理が完成した。


 干し肉を薄切りにして、魚醤と海藻出汁で軽く煮含めたもの。灼熱茸を岩塩で焼いたもの。発酵乳をかけた穀物の甘酒粥。焼いたパンに、魚醤と海藻出汁を混ぜたうま味ペーストを塗ったもの。


 世界の食材が一皿ずつ並んでいる。


「いただきます」


 三人で食べた。


 干し肉は、噛むほどに旨味が出る。魚醤のイノシン酸が肉のアミノ酸と合わさって、複雑な味の層を作っている。灼熱茸の歯ごたえ。岩塩の甘い塩味。発酵乳の酸味が穀物の甘みと溶け合っている。


「……うまい」


 エルマーが言った。短い言葉。だが——目を閉じて噛んでいる。味を感じている。味に集中している。この人が目を閉じて食べるのを、初めて見た。


「ルッツ、あんたの出汁は——食えるな」


「マジっすか! エルマーさんに褒められた!」


「褒めてねえ。悪くねえと言っただけだ」


「それ褒め言葉っすよ! エルマーさんの!」


 笑い声が丘に響いた。——笑い声。こんなに笑ったのはいつ以来だろう。




 食事の途中で、荷物の中から手紙を見つけた。


 港町を出発する直前、宿屋に届いていたもの。旅立ちの朝の慌ただしさの中、荷物に入れたまま読めずにいた。——マティアスの筆跡。三通目。


『ヴァイスガルテン


 選択的味覚増幅に成功した。


 前回の間接魔法をさらに発展させた。蓄熱石の応用で、味覚増幅魔法を特定の成分にだけ作用させる方法を見つけた。グルタミン酸だけを増幅し、他の成分はそのまま残す。


 結果——発酵パンの旨味だけが増幅された。酸味も甘みもそのまま。酵母は生きたまま。パンは発酵パンのまま。


 わかったことがある。


 これは発酵の否定ではない。発酵の拡張だ。


 魔法は発酵を殺すのではなく、発酵が生み出す味の一部を選んで強める道具になり得る。道具は使い方次第だ。——お前に教えられた。


 次に会う時、俺のパンを食べさせる。発酵パンを。


マティアス・アッシェンブレンナー』




 手紙を読み終えた。


 「発酵の否定ではない。拡張だ」——マティアスが辿り着いた哲学。


 三通の手紙で、マティアスは変わった。


 一通目: 魔法が微生物を殺した。直面。

 二通目: 間接魔法で微生物を生かした。突破。

 三通目: 魔法で発酵を拡張した。完成。


 「道具は使い方次第だ。——お前に教えられた」。


 笑みが浮かんだ。


「あの人、本当に——」


「マティアスか」


 エルマーが横から言った。声に感情がない。——いえ、感情を消している。


「はい。三通目の手紙です。発酵と魔法の融合に成功したと」


「ふうん」


「すごいことです。魔法で発酵を壊すのではなく、発酵が生む味を選んで増幅する——」


「あんたの旅の収穫もすごいんだろ」


「はい。でもマティアスさんの発見は——」


「あいつの話はもういい」


 エルマーが干し肉を千切って口に入れた。顔を背けた。怒っているようには見えなかった。ただ——何かを拒むような沈黙だった。マティアスの名前を出すたびに、彼の表情がわずかに固くなることに、アネリーゼはようやく気づいた。


 ルッツが遠くの岩場で記録帳を書いている。——この弟子は本当に空気を読むようになった。




 食後。


 丘の上から海が見える。日が沈んだ。紫から藍へ、空の色が変わっていく。


 一つ。二つ。——星が灯り始めた。


「すげえっす……」


 ルッツが寝転んで空を見上げている。港町の灯りが丘の下に見える。海面に漁火が点々と浮かんでいる。


 静かだった。波の音だけが遠くから聞こえる。


 ルッツが——寝た。記録帳を胸の上に載せたまま、口を開けて寝息を立てている。旅の疲れ。若いのに、よくここまで持った。




 二人きりになった。


 丘の草の上に、並んで座っている。海を見ている。星を見ている。


 沈黙。


 沈黙が——苦しくない。


「あんた」


「何ですか」


「……旅で、一番うまかったもんは何だ」


「一番……」


 砂漠のファーリスの発酵乳。岩塩鉱山で舐めた甘い塩。温泉の耐熱菌が作った甘酒。港町の五十年ものの魚醤。海藻出汁と魚醤の「海と山の婚礼」。


 だが——。


「エルマーさんが荷物に入れてくれた干し肉です」


 言ってしまった。


 エルマーが固まった。


「……俺のじゃねえよ。ルッツが——」


「エルマーさんの干し肉です。切り方が不揃いで、塩が多めで、噛んでも噛んでもなかなか味が出なくて——」


「悪かったな不揃いで」


「悪くないです。全然悪くないです。……不味くはなかったです」


 沈黙。


 エルマーが顔を背けた。——耳が赤い。月明かりの下でもわかるくらい、赤い。




 時間が経った。星がもっと増えた。


 海面の漁火が遠くなっている。ルッツの寝息が規則正しい。


 肩が——触れた。


 いつの間にか。どちらが近づいたのか。——わからない。


 触れている。エルマーの肩が、アネリーゼの肩に触れている。硬い。温かい。


 ——離れない。


 どちらも、離れない。


 心臓の音が聞こえる。自分のだけか。エルマーのも聞こえるのか。わからない。静寂の中で、心拍だけが鳴っている。


「……」


「……」


 言葉がない。言葉は要らない。


 星が降っている。海が光っている。肩が触れている。それだけで——世界は完成している。


 アネリーゼは動けなかった。動きたくなかった。このまま——このまま。


 エルマーも動かない。


 名前をつけなくていい。今はまだ。今はこのまま。肩が触れているだけで——十分だ。




 どれくらいそうしていたか。


「……寝るか」


 エルマーの声。低い。掠れている。


「……はい」


「明日は早い」


「はい」


 立ち上がった。肩が離れた。——冷たい。肩が離れた場所が、冷たい。


 ルッツを起こした。「うーん……もう朝っすか……」寝ぼけている。


 丘を下りて宿屋に戻った。三人で。並んで歩いた。


 振り返った。丘の上に、食卓の跡が月明かりに照らされている。布と皿と、空になった壺。


 ——旅で一番美味しかったもの。


 嘘をついた。干し肉ではない。今夜のこの食卓だ。全員で食べた世界の食材。ルッツの出汁。エルマーが焼いたパン。アネリーゼが設計した味。


 三人で作った食卓が——一番美味しかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


温泉卵のシーンで書いた「卵白と卵黄の凝固温度の違い」は実際の食品科学の基礎知識です。卵白のタンパク質は58〜80℃で段階的に変性し、卵黄は65〜70℃で固まり始める。70℃の温泉に浸けると、白身はとろとろ、黄身はねっとり——という絶妙な温泉卵ができる。温泉の恒温環境がこの精密な温度管理を「勝手に」やってくれるんです。


ヒルダの「低温調理」、現代のスーヴィード(真空低温調理)と原理は同じです。65〜70℃で何時間もかけて加熱すると、コラーゲンがゼラチンに変わり、筋繊維がほぐれて、驚くほど柔らかい仕上がりになる。温泉郷の人たちは何百年も前からこれをやっていた。テクノロジーと伝統は、しばしば同じところにたどり着きます。


次回は「地熱の厨房」。耐熱菌と穀物が出会います。


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