第39話: 海と山
潮が引いた海岸は、別世界だった。
朝一番。トビアスに教わった時刻に海岸に出ると、昨日まで水の下にあった岩場が露出していた。黒い岩に——緑と茶と赤紫の海藻がびっしりと張り付いている。
「すごいっす。こんなに生えてるんすか」
ルッツが岩場に飛び乗った。足が滑る。
「ルッツ、気をつけて。海藻は滑りますから」
「わ、わっ——うわっす!」
盛大に転んだ。エルマーが首の後ろを掴んで引き起こした。
「足元見ろ」
「す、すいませんっす……」
海藻を採取した。
三種類。緑の薄い葉のもの。茶色い厚い帯状のもの。赤紫の細い糸状のもの。
「この茶色いのが出汁に一番向いています。トビアスさんが言っていたのはこれでしょう」
茶色い海藻を持ち上げた。分厚く、ぬめりがある。表面に白い粉が浮いている——これがうま味成分だ。マンニトールとグルタミン酸の結晶。
「師匠、この白いの何すか?」
「うま味の成分です。舐めてみて」
ルッツが恐る恐る舐めた。
「あ。甘い? しょっぱいのかと思った——甘いっす」
「マンニトールという糖の一種です。そしてその奥に——」
「あ。何か、じんわり来るっす。舌の奥が——」
「それがグルタミン酸。うま味です」
浜辺で鍋を沸かした。
流木で火を起こし、トビアスから借りた鍋に水を張った。茶色い海藻を切って入れる。
「弱火でじっくり。沸騰させてはいけません。沸騰するとえぐみが出る」
「何度くらいっすか」
「60度から70度。指を入れて、ちょっと熱いくらい」
じわじわと水の色が変わっていく。無色透明から——薄い琥珀色に。海藻の成分が水に溶け出している。
香りが立ってきた。海の匂い。だが生臭さではない。磯の匂いの中に、甘い旨味の匂いが混じっている。
「エルマーさん」
振り返ると、エルマーが海藻の根元をしゃがんで見ていた。
「どうしました?」
「この海藻、根元に泥がついてる」
「ああ、洗い落とさないと——」
「待て。この泥——潮の泥だ」
エルマーが泥を指で取って見ている。黒い。きめが細かい。
「この泥を畑にまいたら——」
「畑に?」
「海の養分が入ってる。窒素。リン。カリウム。——畑の土に足りねえものが全部ある」
アネリーゼは目を見開いた。海藻の泥を畑に還す。海の養分を山に持っていく。——海と山の循環。
「エルマーさん、それは——」
「別に。農夫ならみんな知ってる。海辺の畑に海藻を漉き込むと作物がよく育つ」
「いいえ。それだけじゃない。海の養分が畑に入れば、畑の作物の味が変わる。味が変われば、その作物から作る発酵食品の味も変わる。——海と山が繋がるんです」
エルマーが鼻の頭を擦った。
「そんな大げさな話じゃねえよ」
「大げさです。すごく大げさで、すごく大事な話です」
出汁が取れた。
海藻を引き上げ、澄んだ琥珀色の液体が鍋に残った。香りが鮮烈。
「さて——魚醤を合わせます」
トビアスからもらった魚醤の小瓶を開けた。琥珀色の液体を、海藻出汁にほんの数滴、垂らす。
匂いが——変わった。
海藻の出汁だけの時とは全く違う。深みが何倍にもなっている。磯の匂いの中に、魚の旨味が溶け込んで、新しい何かが生まれている。
「味見しましょう」
木の匙で掬った。口に運んだ。
——。
世界が変わった。
トビアスが言った通りだった。しょっぱさと旨味が別々のものではなくなる。一つになる。口の中で——爆発する。
海藻のグルタミン酸と魚醤のイノシン酸が合わさった瞬間、うま味が単体の七倍から八倍に跳ね上がる。舌の上で味が何層にも広がり、飲み込んだ後も余韻が続く。
「これが……『海と山の婚礼』……」
「師匠! 俺にも!」
ルッツに匙を渡した。一口飲んで——目が点になった。
「……なんすかこれ。味が——味が止まらないっす。飲み込んだのにまだ来るっす」
「うま味の相乗効果です。二つの異なるアミノ酸が合わさると、味の感知が爆発的に強まる」
「エルマーさんも飲んでくださいよ!」
エルマーに匙を渡した。
同じ鍋から掬って口に運ぶ。——アネリーゼが使った匙を、そのまま。
エルマーが一口含んだ。目が——一瞬、大きくなった。
「……これは」
「どうですか」
「畑で夕方に嗅ぐ匂いに似てる」
「畑の匂い?」
「夕方、水やりが終わった後に土から立ち上る匂い。……あの匂いが口の中にある」
アネリーゼは笑った。——声を出して笑った。
「やっぱり、エルマーさんは土の言葉で味を語るんですね」
「……悪いか」
「悪くないです。全然悪くないです」
二人で同じ鍋を覗き込んでいる。肩が近い。——当たってはいない。だが、あと少しで触れる距離。
ルッツが少し離れた岩場に座っている。海藻を広げて乾燥させている。——気を遣っている。いつの間にか、この弟子は空気を読むようになった。
「師匠、この海藻、干したら保存できるっすよね」
ルッツが岩に海藻を並べながら言った。
「ええ。干し海藻にすれば軽くなるし、長期保存もできる。水で戻せばまた出汁が取れる」
「じゃあフィールデンに持って帰れるっす!」
「そうです。砂漠の干し肉と同じ原理。水分を抜けば微生物が繁殖できなくなって——」
「保存できる。覚えたっす」
ルッツが誇らしげに胸を張った。海藻を丁寧に広げ、石で重しをしている。手際がいい。——この旅で、ルッツは確実に成長した。
「ルッツ」
「はいっす」
「あなたが干した海藻、フィールデンに持ち帰ったら、最初の出汁はあなたが取りなさい」
「え——俺がっすか?」
「弟子が採って、弟子が干した海藻。最初の出汁は弟子の仕事です」
ルッツの目が輝いた。「はいっす!」と叫んで、さらに丁寧に海藻を並べ始めた。
午後。浜辺で海藻出汁と魚醤の配合を試した。
魚醤の量を変えて何通りも。多すぎると魚の匂いが勝つ。少なすぎると効果が薄い。最適な比率を見つけるために——何度も味見を繰り返した。
エルマーが黙って見ていた。アネリーゼが匙で出汁を掬うたびに、エルマーの目がその動きを追っている。
「エルマーさん。手伝ってもらえますか」
「俺が? 何をすればいい」
「味見です。私の舌は何度も味見して鈍ってきた。新鮮な舌が必要です」
「新鮮な舌って何だ」
「まだ味が残っていない舌。——一口だけ」
匙を差し出した。エルマーが受け取る。——今度は新しい匙。だがアネリーゼの手から直接受け取る。指先が触れた。触れた場所が——熱い。
「どうですか」
「……こっちのほうがいい。さっきのより」
「どう違いますか」
「さっきのは……魚が強い。こっちは、魚と海藻が——混ざってる。境目がねえ」
「境目がない。——それが相乗効果です。二つの旨味が溶け合って一つになった」
「ふうん」
エルマーが匙を返した。今度は——目が合った。一瞬だけ。琥珀色の目が、何かを言いたそうに動いて——すぐにそらされた。
日が暮れかけている。
「明日の朝、もう一度潮が引いたら海藻を追加で採りましょう。それから——帰路の準備」
「帰るっすか」
「ええ。旅の収穫は十分です。砂漠の乾燥発酵、岩塩の発酵制御、温泉の耐熱菌、魚醤、海藻出汁——これだけあれば、フィールデンで実験を始められる」
「師匠、この旅すごかったっすね。世界は広いっす」
「広いです。そして——土地ごとに違う」
アル・シャムスの発酵乳はアル・シャムスでしか作れない。イグニスの耐熱菌はイグニスの温泉にしかいない。サルーテの魚醤はサルーテの魚と塩で作られる。
フィールデンには——フィールデンの味がある。
「帰ろう。フィールデンに」
エルマーが言った。
短い言葉だった。いつもの通り。だが——今、この人が「帰ろう」と言った。フィールデンに。自分たちの場所に。
日が暮れる。明日は帰路の前夜。最後の夜を、港の丘で過ごすことになる。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「三大うま味成分の和音」——グルタミン酸・イノシン酸・コハク酸。これは実際の食品科学でも確認されている概念で、日本料理の「合わせ出汁」はまさにこの原理を応用しています。昆布(グルタミン酸)と鰹節(イノシン酸)を合わせる一番出汁、そこに蛤の汁(コハク酸)を加えると——味覚の受容体が最大限に反応して、「完全なうま味」が生まれる。マルコの婆さんはこれを経験的に知っていたわけです。
マルコの涙のシーン。書いている途中で「六十年分の記憶」という台詞が出てきて、自分でも胸が詰まりました。味覚は記憶と直結しています。プルースト効果と呼ばれる現象で、味や匂いは視覚や聴覚よりも強く過去の記憶を呼び起こす。マルコが六十年ぶりに婆さんの味を思い出したシーンは、このプルースト効果がモデルです。
次回は火山温泉郷イグニスへ。地熱が生み出す菌の世界に踏み込みます。
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