第38話: 港町の魚醤
港町サルーテは魚の匂いがした。
海沿いの街道を入ると、干物を並べた屋台が軒を連ねている。漁師たちが網を繕い、商人が荷を積んでいる。活気がある。砂漠や火山の静寂とは別の世界。
だがアネリーゼの鼻は、魚の匂いの下にもう一つの匂いを嗅ぎ分けていた。——発酵の匂い。魚と塩が長い時間をかけて変化した、深い匂い。
「この匂い、どこから——」
「あっちっすよ師匠。路地の奥」
ルッツが路地の方を指した。海風に乗って匂いが流れてくる。
路地の突き当たりに、古い木造の家があった。
壁が潮風で白く変色している。屋根に苔が生えている。玄関先に干し網が吊るされ、小魚が日に干されている。
「トビアスさんのお宅は——」
ガストンが教えてくれた名前。港町の老人。魚を塩に漬ける話を知っている。
戸を叩いた。しばらく待つ。
「……誰だ」
しわがれた声。戸が薄く開いた。——老人の目が覗いている。白髪。深い皺。海の塩と日差しに削られた顔。
「フィールデンから来ました、料理人のアネリーゼです。ガストンさんの紹介で——」
「ガストン? あの馬鹿まだ生きてるのか」
戸が開いた。
トビアスの家は狭かった。台所が半分を占めている。残りの半分は寝床と、壁一面の棚。棚には壺と瓶が所狭しと並んでいる。
「座れ。椅子がないから床だ」
四人が床に座った。エルマーは入り口近くに。ルッツはトビアスの横に。アネリーゼは壺の棚の前に。
「ガストンの紹介だと。あいつとは昔、一度だけ仕事をした。まだ料理人だった頃の話だ」
「トビアスさんは——料理人でいらっしゃるんですか」
「だった。もう引退した。——今は魚を干すだけだ」
老人の目がアネリーゼを見ている。値踏みではない。品定めでもない。——見抜いている。この人は何かを見抜こうとしている。
「お前、魔法は使えるのか」
「使えません」
「そうか」
トビアスが立ち上がった。棚の奥に手を伸ばす。——一番奥の、埃を被った壺を引き出した。
「見せたいものがある」
壺は両手で抱えるほどの大きさだった。
陶器製。口を蝋で密封してある。蝋が黄ばんでいる。——相当な年数が経っている。
「これは五十年前に漬けたものだ」
「五十年——」
「魚を塩に漬けて放っておいた。それだけだ。——開けるぞ」
トビアスが蝋を剥がした。蓋を外した。
匂いが——溢れた。
魚の匂い。だが生臭さではない。深く、複雑で、甘味すら感じる匂い。部屋中に広がる。ルッツが思わず鼻を押さえた。エルマーは眉をひそめた——だが、手は動かない。匂いを拒否していない。
壺の中を覗き込んだ。
琥珀色の液体。
透き通っている。五十年前に漬けた魚が——完全に液体に変わっている。骨も身も、全てが溶けて。澄んだ琥珀色の——液体に。
「これが……」
「昔はこれを『海の黄金』と呼んだ。魚のタンパク質が塩の浸透圧で分解されて、アミノ酸の液体になる。——旨味の塊だ」
小皿に注いでくれた。琥珀色が光に透けている。
舌に乗せた。
——。
言葉が出なかった。
塩味。だがただの塩味ではない。その奥に、幾重にも重なった旨味の層がある。魚のタンパク質がアミノ酸に分解されて——グルタミン酸、アスパラギン酸、五十年分の発酵が生んだ味の深淵。
「これは……うま味の塊です」
「そうだ。時間が作った味だ」
エルマーに小皿を差し出した。
「エルマーさん。味見してもらえますか」
「俺が?」
「はい」
エルマーは小皿を受け取った。琥珀色の液体を見つめている。匂いを嗅いだ。——鼻の頭を擦った。
一口。舌の上に乗せた。
噛むものがない。液体だ。だが——口の中で味が変わっていく。
「しょっぱいだけじゃねえ」
エルマーが言った。
「何か——奥にある。しょっぱさの向こう側に。何て言えばいいかわからねえが——厚みがある。何層もある。畑の土に似てる」
アネリーゼの心臓が跳ねた。
「畑の土に——」
「腐葉土の匂いに近いんだよ。葉っぱが何年もかけて土に変わった時の——あの厚みだ」
エルマーは「味の深み」を、自分の知っている世界——農業の言葉で語ろうとしていた。発酵のアミノ酸を「腐葉土」に例える。タンパク質の分解を「葉っぱが土に変わる」過程として理解する。
正確だ。——驚くほど正確な直感。
「エルマーさんにも、味がわかるんですね」
声が震えていた。——嬉しかった。この人が味を言葉にしようとしている。ぶっきらぼうに、不器用に、でも本質を掴んでいる。
エルマーが鼻の頭を擦った。
「別に。しょっぱいもんはしょっぱい」
「……それだけじゃなかったでしょう」
「……うるせえ」
トビアスが二人を見て——何も言わず、もう一杯注いだ。
「この液体——魚醤と呼ばれるものに近い技法です」
記録帳を広げながら、トビアスに聞いた。
「古代ローマではガルムと呼ばれました。東南アジアではナンプラー。秋田ではしょっつる。イタリアではコラトゥーラ。世界中で独立に生まれた発酵調味料です」
「お前、詳しいな」
「母から教わりました。——母は、世界中の発酵技術の記録を持っていました」
トビアスが目を細めた。
「お前の母親、もしかして——エレナ・ヴァイスガルテンか」
「……ご存じなんですか」
「昔、一度だけ会った。港に来た。俺のこの壺を見て——泣いた」
母が。この壺の前で。泣いた。
「『これが……まだ残っていたのですね』と言っていた。小さな声で。——お前、母親に似ているな。舌も、目も」
言葉が出なかった。握りしめた手が震えている。
「もう一つ見せたいものがある」
トビアスが古い地図を棚から引き出した。
「この海岸の先に、昔は海藻が群生していた」
「海藻?」
「海藻から出汁を取ると——この魚醤と合わせた時に——」
トビアスが言葉を切った。目を閉じて、遠い記憶を手繰っている。
「——世界が変わる。味の世界が変わるんだ。しょっぱさと旨味が別々のものじゃなくなる。一つになる。口の中で爆発する」
「うま味の相乗効果……」
「相乗効果と言うのか。俺たちは『海と山の婚礼』と呼んでいた」
グルタミン酸とイノシン酸。海藻の旨味と魚の旨味が合わさると、単体の七倍から八倍の旨味を感じる。1908年に池田菊苗が発見し、2000年に世界で五番目の基本味として認定された「うま味」。
その相乗効果を——トビアスは「海と山の婚礼」と呼んでいた。
「海藻は——まだありますか」
「あるかもしれん。明日、潮が引いた時に見に行くといい」
宿屋に戻った。
夜。ルッツは食後すぐに寝た。旅の疲れが溜まっている。
エルマーが宿屋の前のベンチに座っていた。月明かりの下で、黙って海を見ている。
「エルマーさん」
「ん」
「さっきの味。畑の土に似ていると言いましたね」
「言ったか?」
「言いました」
「……そうか」
「嬉しかったです。エルマーさんが味を言葉にしてくれて」
エルマーが横を向いた。月明かりに照らされた横顔。琥珀色の目が海面の光を映している。
「俺は料理人じゃねえからな。味のことは——よくわからねえ」
「わからなくていいんです。感じたまま言ってくれれば」
「感じたまま?」
「はい」
「……うまかった。それだけだ」
「それが一番大事な言葉です」
沈黙。波の音だけが聞こえる。
「あんた」
「何ですか」
「……いや。何でもねえ」
何を言いかけたのか。聞かなかった。聞けなかった。——聞きたかった。
月が海面に銀の道を引いている。明日は海藻を探しに行く。うま味の相乗効果——「海と山の婚礼」。
隣にいるこの人は、山の人だ。畑の人だ。土の人だ。
私は——海の向こうから来た知識を持っている。発酵の人だ。
海と山が一つになると——味が爆発する。
……何を考えているのだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
マルコの魚醤の製法「魚の三割の塩」。これは実際の魚醤製造でも使われる黄金比です。塩分濃度が25〜30%あると腐敗菌が繁殖できず、自己消化酵素だけが働いて安全に発酵が進む。少なすぎると腐り、多すぎると酵素の働きが止まる。マルコの婆さんは経験でこの比率を見つけていたわけです。
出汁を引くシーンで「沸騰させない」と書きました。これは和食の出汁取りでも鉄則で、昆布を沸騰させると細胞壁が壊れてアルギン酸やヨウ素が溶出し、生臭みやぬめりが出ます。60〜80℃でゆっくり抽出するのが一番透明で雑味のない出汁になる。千年前のエルディナールの料理人も、同じ知恵を持っていたはずです。
次回は火山温泉郷イグニスへ。地熱と菌が出会う場所で、何が見つかるか。
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