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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第37話: 再会

 港町サルーテの手前に、小さな広場があった。


 海岸線に沿った街道の途中。旅人が休むための石のベンチと、枯れた噴水。古びた宿屋が一軒。


「師匠、今日はここで泊まるっすか? サルーテまであとどのくらいっすかね」


「半日ほどだと思います。明日の朝——」


 言葉が途切れた。


 宿屋の前に——人影が立っていた。


 逆光で顔は見えない。だが——体格。肩幅。足の開き方。腰に手を当てて立つ姿勢。


 世界で一人しかいない立ち方。


「エルマー……さん?」




「よう」


 エルマーが逆光の中から一歩前に出た。琥珀色の目。日焼けした顔。——頬がこけている。


「なん——なぜ、ここに——」


「フィールデンの土地が近隣の領主に狙われてる。港で塩を買い付ける名目で出てきた」


「塩の買い付け? こんな遠くまで?」


「遠い塩のほうが高く売れる」


 嘘だ。


 ——嘘だとわかった。フィールデンの塩なら、ダルムで十分手に入る。港まで来る必要はない。


 だが指摘しなかった。指摘できなかった。なぜなら——。


「エルマーさん、痩せましたね」


「あんたもだろ」


 互いの顔を見ている。


 エルマーの頬はこけていた。目の下に影がある。領主との交渉で消耗しているのだろう。だがそれだけではない——何か、心の方の疲れも見える。


 アネリーゼも自覚はあった。砂漠の日差しと火山の硫黄で肌は荒れている。体重も落ちた。干し肉とルッツの簡単な料理だけで二週間以上旅をしてきた。


「あんた、ちゃんと食ってんのか」


「食べています。エルマーさんの干し肉もまだ——」


 言いかけて口を閉じた。干し肉のことを言ったら、荷物に忍ばせたことを知っていると認めることになる。


「干し肉?」


「……ルッツが作った干し肉です」


「俺?」


 ルッツが首を傾げた。アネリーゼが目で「黙っていなさい」と合図した。ルッツは三秒ほど固まった後、ニヤリと笑った。


「ああ、そうっすそうっす。俺が作った干し肉っす」


「お前が作ったのか。下手くそだな」


「えっ、食べてないのに——」


「お前の料理は全部下手くそだ。まだ修行が足りねえ」


「ひでえっす」


 会話が——軽い。いつものフィールデンの会話だ。石窯の前で、畑の脇で、何度も交わしたやり取り。


 帰ってきた。


 場所が違う。港町の手前の、知らない広場。だが——帰ってきた感覚。




 宿屋の簡素な食卓。


 エルマーが荷物から布に包んだものを取り出した。


「持ってきた」


 布を開いた。——パン。


 フィールデンの黄金麦で焼いたパン。旅の間に水分が抜けて硬くなっている。表面にひびが入っている。だが——焼き色が深く、香ばしい匂いが残っている。


「エルマーさん、これ——」


「ハンスが焼いた。俺じゃねえ。……俺が石窯を温めたが」


 ——石窯を温めた。エルマーの石窯で、ハンスが焼いたパン。フィールデンの黄金麦と、フィールデンの水と、フィールデンの酵母。


 パンを千切った。硬い。噛んだ。


 味が——広がった。


 黄金麦の甘み。酵母の発酵による微かな酸味。焼き色の香ばしさ。そして——石窯の温もりが、パンの中にまだ残っているような錯覚。


「やっぱり、この味です」


 声が小さくなった。目が熱い。——泣きはしない。泣きはしないが。


「あんたの酵母が元気だったぞ。毎日面倒見てやった」


「……ありがとうございます」


「チーズも順調だ。三期目の仕込みまで終わった」


「三期目まで。……エルマーさんが一人で?」


「リーナに手伝わせた。あいつ、意外と手先が器用だからな」


 パンを噛みながら——フィールデンの畑が浮かんだ。石窯から立ち上る煙。朝もやの中の黄金麦。エルマーが毎朝薪を割る音。


 ここにいるのに。港町の手前の、知らない宿屋にいるのに。——フィールデンの味がする。


「ルッツ。食え」


「いただきまっす!」


 ルッツが大きな塊を千切って頬張った。「うめえっす……」と目を閉じている。




「で、旅はどうだった」


 食後。エルマーが木の椅子に深く座って聞いた。


 アネリーゼは旅の報告をした。砂漠のファーリスと乾燥発酵。発酵乳の再現失敗とテロワールの学び。岩塩鉱山の壁画と古代の発酵制御技術。火山温泉郷の耐熱菌。山賊ガストンと灼熱茸の料理。


 エルマーは黙って聞いていた。時折うなずく。質問はしない。——だが、聞いている。全部聞いている。


「で、その菌はどこにある」


「ここです。小瓶に培養して——」


 荷物から小瓶を取り出した。温泉水に漬けた耐熱菌の培養液。白い糸状の菌が瓶の底に沈んでいる。


 エルマーが瓶を手に取った。光に翳した。


「生きてんのか」


「生きています。300年間、温泉の中で」


「300年か」


 しばらく瓶を見つめていた。それから——鼻の頭を擦った。


「丈夫な奴だな」


「はい。丈夫です」


「あんたに似てる」


 ——。


 何を言われたのか理解するのに、三秒かかった。


「私は……300年も生きていませんが」


「そういう意味じゃねえ。……まあいい」


 エルマーが瓶を返した。指が触れた。——ほんの一瞬。だが、その一瞬で指先の温度がわかった。エルマーの手は温かかった。旅の疲れで冷えているはずなのに——この人の手はいつも温かい。




 宿屋の外。日が暮れかけている。


 ルッツがエルマーの横に座って話している。


「エルマーさん、畑はハンスに任せたんすか?」


「……うるせえ」


「いやあ、でもエルマーさんが港まで来るなんて——」


「塩の買い付けだって言ってんだろ」


「塩っすか。じゃあ師匠が岩塩鉱山で採ってきた塩見せたら、買い付け終了っすね」


「……」


「もう帰る理由なくなっちゃうっすね」


「……黙れ」


 ルッツがニヤニヤしている。この弟子は——いつからこんなに察しがよくなったのだ。


 アネリーゼは宿屋の窓際に立って二人を見ていた。エルマーがルッツの頭を小突く。ルッツが「いてっす」と笑う。フィールデンと同じ光景。


 荷物の中の干し肉を確認した。——最後の一切れ。


 もう必要ない。本人が来たのだから。


「師匠? 何ニヤニヤしてんすか」


 ルッツが窓の外から覗き込んできた。


「していません」


「してたっすよ」


「していません」




 夜。宿屋の二階。


 ルッツは隣の部屋で即座に寝落ちした。エルマーは一階の共有部屋に泊まると言った。


 天井を見つめている。


 エルマーが来た。フィールデンから、港まで。塩の買い付けと言い張っている。本当の理由は——言わない。言わないし、聞かない。


 だが——嬉しい。


 認めるしかない。エルマーが来て、嬉しい。パンを食べて、嬉しい。声を聞いて、嬉しい。


 砂漠で記録帳を書きながら「エルマーさんなら何て言うかしら」と思った。温泉の温もりが石窯に似ていると思った。ガストンの前で「エルマーさんにも食べさせたい」と口にした。


 ——旅の間中、ずっとこの人のことを考えていた。


 名前をつけるのが怖い。あの夜、城壁の上で袖を掴んだ時から、ずっと怖い。名前をつけたら——戻れなくなる。


 今はまだ。もう少しだけ。


 目を閉じた。パンの味が舌に残っている。黄金麦と酵母とエルマーの石窯。


 ——帰ってきた。




 翌朝。


 三人で港町サルーテに向かって歩き始めた。


 先頭にルッツ。少し離れてアネリーゼとエルマー。


「あんた」


「何ですか」


「発酵壺の温度管理、朝晩だけじゃ足りねえ。昼も一回見たほうがいい」


「昼も——」


「黄金麦の酵母は午後に温度が上がりすぎると弱る。石窯の余熱で調整してたが、あんたが留守の間に一度だけ温度が上がりすぎた」


「大丈夫でしたか?」


「死んじゃいねえよ。あんたの酵母は丈夫だからな」


 ——「丈夫な奴だ」。さっきも同じことを言った。菌のことを言っているのか、アネリーゼのことを言っているのか。


 潮の匂いが強くなってきた。海が近い。港の帆柱が見え始めている。


 そしてもう一つ——何か、発酵した匂いが混じっている。魚と塩が複雑に混ざり合った、深い匂い。


「何の匂いだ」


「たぶん——魚醤です」


 三人は港町サルーテに足を踏み入れた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


再会回です。書いている手が止まらなかった。


エルマーの「塩の買い付けだ」は、本作で一番下手な嘘です。フィールデンからサルーテまで、まっすぐ来ても一週間以上。塩の買い付けで港まで来る農夫がいるわけがない。でもアネリーゼは指摘しない。指摘したら「じゃあ本当の理由は?」と聞かなければならなくなる。聞いたら——答えが返ってくるかもしれない。まだそれが怖い。


フィールデンのパンを噛むシーン。旅で疲れた体に、故郷の味。でも「故郷」の味なのか「この人」の味なのか、アネリーゼにはもう区別がつかなくなっている。


干し肉の最後の一切れ。もう必要ない。本人が来たのだから——この一文で全部伝わると信じて書きました。


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