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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第36話: 山賊の晩餐

「魔法を使わない料理人だと?」


 先頭の男——後にガストンと名乗る男は、アネリーゼを値踏みするような目で見ていた。


「はい。発酵を主とした、魔法を使わない料理を」


「発酵」


 その単語に、男の目が動いた。怒りでも蔑みでもない——何か、奥に沈んでいたものが揺れた。


「ルッツ。荷物を降ろして」


「え、師匠——」


「降ろしなさい」


 ルッツが不承不承、荷物を地面に置いた。アネリーゼも自分の荷を降ろした。逃げるつもりがないことを示すために。


 ガストンが顎髭を撫でた。


「……ついて来い。腹が減っているなら飯はある。不味いがな」




 山賊の拠点は、火山の斜面に掘られた洞窟だった。


 入り口に焚き火。奥に寝床。壁に粗末な燻製肉が吊るされている。——燻製。煙に含まれるフェノール化合物が微生物の繁殖を抑え、同時に独特の風味を付加する。山の中で火と煙は身近だから、燻製技術だけは残ったのだ。


 六人の男たちが焚き火を囲んでいた。どの顔も疲れている。飢えてはいないが、豊かでもない。


「座れ」


 ガストンが丸太を示した。アネリーゼとルッツが座る。


「名前を聞いてなかった」


「アネリーゼ・フォン・ヴァイスガルテンです」


「ヴァイスガルテン?」


 ガストンの目が鋭くなった。


「王都の名門料理家だな。——お前、追放されたクチか」


 知っている。この男は——料理の世界を知っている。


「はい。家を追われました」


「俺もだ」




 焚き火の前で、ガストンは語った。


「俺はダルムの魔法料理ギルドに所属していた。——十五年前の話だ」


 炎が男の顔を照らしている。顎髭の奥の皺が深い。四十代後半。かつては料理人だった手が、今は剣の柄で硬くなっている。


「魔法が使えた。中級程度だがな。温度制御と味覚増幅。それで十分、街で料理屋をやっていけた」


「それが——」


「ある日、魔力が薄れ始めた。よくある話だ。四十を過ぎると魔力が減衰する料理人は珍しくない。早い者は三十代後半から——使いすぎれば、なおさら早い。——だが、ギルドはそういう奴を捨てる」


 ガストンの声に怒りはなかった。諦めに似た平坦さ。


「魔法が使えなくなった料理人は、山賊になるしかなかった」


 沈黙が落ちた。焚き火が爆ぜた。


 ルッツが隣で拳を握っているのが見えた。——怒っている。自分の師匠が追放された経緯と重なったのだ。


「ガストンさん」


「何だ」


「この燻製肉——あなたが作ったものですか」


「……ああ」


「煙の入れ方が丁寧です。肉の表面に均一に燻煙が回っている。火加減を細かく調整している——雑な仕事じゃない」


 ガストンが目を見開いた。


「あんた、わかるのか」


「料理人ですから」




「食材を使わせてもらえますか」


 アネリーゼの申し出に、ガストンは怪訝な顔をした。


「何を作る気だ」


灼熱茸しゃくねつたけを、この山の近くで見かけました。あれを蒸して食べたいのです」


「灼熱茸? あの赤い茸か。——あれは硬くて食えたもんじゃねえぞ」


「生では。でも蒸せば——」


 温泉の蒸気で蒸す。地熱の安定した温度で、じっくりと。


 ガストンの一味の若い男が、灼熱茸を採ってきてくれた。赤い傘に黒い斑点がある茸。確かに硬い。生では石のようだ。


 温泉の噴気孔の近くに石を組んだ。蒸気が石の隙間から上がっている。その上に灼熱茸を並べ、大きな葉で覆った。


「何してんだ」


「蒸しています。温泉の蒸気は100度前後。灼熱茸の細胞壁は熱で壊れて柔らかくなる。——三十分ほどお待ちください」


 ガストンが腕を組んで見ている。疑いの目。だが——目が離せないでいる。


 三十分。葉をめくった。


 蒸気が上がる。灼熱茸の色が赤からうっすらと琥珀色に変わっている。表面に水滴がついている。


 ナイフで切った。——抵抗なく刃が入る。断面が白く、繊維がほぐれている。


「岩塩を」


 ルッツが小袋から岩塩を取り出した。岩塩鉱山で採った、甘みのある塩。灼熱茸の断面に少量振る。


「どうぞ」


 ガストンに差し出した。


 男は無言で受け取った。口に入れた。


 噛んだ。


 ——動きが止まった。


 噛むとじわりと旨味が染み出す。灼熱茸の繊維が歯の間でほぐれ、蒸気で凝縮された風味が口いっぱいに広がる。岩塩の甘みが茸の旨味を引き立てている。シンプルな料理だ。茸を蒸して塩を振っただけ。——だが、素材の味が全て残っている。


「…………」


 ガストンの目に光が浮かんだ。


 泣いているのではない。——もっと深い場所が揺れている。


「この味は……昔、俺が作りたかった味だ」


 声が掠れていた。


「魔法で温度を操って、魔法で味を増幅して——それでも、こういう味にはならなかった。素材がそのまま味になるような——」


「蒸しただけです。温泉の蒸気と、岩塩と、灼熱茸。三つだけ」


「三つだけ」


 ガストンが繰り返した。


 一味の男たちも食べ始めた。無言。黙々と噛んでいる。不味い不味いと言い続けてきた食事と——全く違うものが口の中にある。




 焚き火の前で、夜が更けた。


 ガストンの一味が寝静まった後も、ガストンとアネリーゼは火の前に座っていた。


「あんた、なぜ発酵にこだわる」


「母から教わった味が——発酵の味だったからです」


「母親か」


「はい。私の味覚の原点です」


 ガストンが焚き火を見つめた。


「俺の親父も料理人だった。魔法が使えない料理人。——俺は親父を超えたくて、魔法を覚えた。魔法で親父にできなかった料理を作るんだと。……結局、魔法を失って山賊だ。笑えるだろ」


「笑えません」


「笑えよ。俺は笑ってる」


 笑っていなかった。ガストンの目は笑っていなかった。


「エルマーさんにも食べさせたい」


 口から出た言葉に、自分で驚いた。


「……誰だ」


「私の——」


 言葉が詰まった。私の、何だ。仲間? 友人? ——何と呼べばいい。


「……一緒に畑をやっている人です。料理人ではないけれど、食べ物の味がわかる人で」


「ふうん」


 ガストンが口の端を上げた。——初めて見る、本物の笑い。


「食べさせたい相手がいるのは、料理人として一番大事なことだ。俺はそれを忘れてた」




 翌朝。荷物の中に手紙が紛れ込んでいた。隊商の転送だ。


 封を切った。マティアスの筆跡。二通目。


『ヴァイスガルテン


 前回の失敗から三週間。突破口を見つけた。


 魔法を微生物に直接照射してはならない。ならば——間接的に使う。


 石に蓄熱魔法をかけた。魔力を石に蓄える。そしてその石を発酵壺の隣に置いた。石の温度が壺を温め、発酵温度を安定させる。微生物には魔力が一切触れない。石が緩衝材になる。


 三日後、壺を開けた。——泡が立っていた。酵母が生きている。


 成功だ。


 お前の酵母が死なずに済む方法を、俺は見つけた。


マティアス・アッシェンブレンナー』




 手紙を読み終えた。


「……間接魔法」


 蓄熱石。魔力を石に蓄え、石の温度で発酵させる。微生物には魔力が触れない。——石窯と同じ原理だ。フィールデンの石窯が壁に熱を蓄えて一日中温かいのと、同じ。


 マティアスは——温泉の代わりに魔法で「恒温環境」を作った。自然がやっていることを、魔法で再現した。発酵を否定するのではなく、発酵を助ける形で魔法を使う。


「お前の酵母が死なずに済む方法を」——この一文に、マティアスの変化が詰まっている。「俺の魔法で勝つ」ではなく「お前の酵母を生かす」。視点が変わっている。


「師匠、また手紙っすか」


「マティアスさんから。二通目」


「今度は何て?」


「成功報告です。魔法を間接的に使って、酵母を殺さずに発酵温度を安定させたと」


「おお! あの人もやるっすね」


 ガストンが近づいてきた。出発の準備を手伝ってくれている。


「あんた、港町サルーテを目指すんだったな」


「はい。魚醤の手がかりがあると聞いて」


「知っている。サルーテに老人がいる。トビアスという爺さんだ。魚を塩に漬ける話を知っている。——俺が山賊になる前、一度だけ食べたことがある。透き通った液体で味付けした魚料理を。あの味は忘れられない」


「魚醤……」


「行け。港町の方角はこの道を南東にまっすぐだ。三日で着く」


 ガストンが道を指し示した。山の斜面を下る獣道。


「ガストンさん」


「何だ」


「——ありがとうございました。灼熱茸の場所を教えてくださって」


「礼は要らねえ。……俺はただ——久しぶりにまともなものを食った。それだけだ」


 踵を返しかけて、ガストンが振り返った。


「あんた」


「はい」


「食べさせたい相手には——早めに食べさせろ。料理は冷めるからな」


 意味がわからなかった。——いえ、わかりたくなかっただけかもしれない。




 山を下り始めた。


 背中にガストンの視線を感じる。振り返ると——焚き火の煙が細く上がっていた。ガストンの一味が粗末な朝食を作っている。


 魔法を失った料理人のもう一つの末路。マティアスが「融合」という前向きな答えを出そうとしている一方で、ガストンは「脱落」した側にいる。同じ問題の——別の面。


「師匠」


「何ですか」


「ガストンさんって、いい人っすよね。山賊だけど」


「……そうですね」


「あの人も、誰かに食べさせたい相手がいたのかな」


 答えなかった。答えられなかった。


 山道を下っていくと——風が変わった。乾いた山の空気が、じわりと湿り気を帯びてくる。


 そして——匂い。


 潮の匂い。


「師匠! 海っす!」


 ルッツが叫んだ。山の切れ間から、青い水平線が見えた。


 港町サルーテ。海と発酵の町。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


星砂の胡椒の採取シーン、実は書いていて一番ワクワクしました。「破裂させたら油が飛んで辛さが半分になる」という設定は、現実の唐辛子の「カプサイシン」の性質がモデルです。カプサイシンは脂溶性で、水では洗い流せないけど牛乳のカゼインには結合する——これは食品科学の有名な事実で、辛いものを食べた後に牛乳が効く理由です。


ファーリスの「任せることが技術だった」という気づき。これは発酵食品の本質だと思っています。発酵は人間が「何もしない」ことが重要な場面がある。温度を整え、環境を用意して、あとは微生物に任せる。人間の役割は「介入しないこと」だったりする。砂漠の民はそれを「太陽に任せる」と表現していた。同じことの違う言い方です。


次回は港町サルーテ。海の幸と——千年前に失われた「透き通る調味料」の手がかりが待っています。


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