第35話: 火山の温泉醸造
硫黄の匂いが最初に来た。
岩塩鉱山から東へ二日。乾いた岩場を抜けると、空気が変わった。乾燥から湿潤へ。冷たさから温もりへ。そして——鼻の奥を突く独特の匂い。
「うぇっ。なんすかこの匂い」
「硫黄です。火山ガスに含まれる成分。温泉が近い証拠」
「卵が腐ったみたいな——」
「温泉に着いたらすぐ慣れますよ」
丘を越えると——白い蒸気が立ち昇っていた。
火山温泉郷イグニス。
黒い火山岩の隙間から湯気が噴き出し、あちこちに温泉の池が点在している。湯面が白く煙り、周囲の岩が鮮やかな黄色や赤に変色している。硫黄と鉄分の化学反応が色を作っている。
人の姿はまばらだった。かつては湯治場として栄えたのだろう——崩れかけた石造りの浴場跡が残っている。今は数軒の小屋が温泉のそばに建つだけだ。
「温泉郷ってより、廃墟っすね……」
「魔法文明以降、温泉の需要が減ったんでしょう。魔法で温水は自由に作れる。わざわざ火山のそばに来る必要がなくなった」
だが——アネリーゼが探しているのは温泉そのものではない。
温泉のそばの岩を調べ始めた。岩の表面を手のひらで撫でる。温かい。40度前後——発酵に最適な温度。そして安定している。太陽のように日没で冷えることもない。地熱は24時間、一定の温度を供給し続ける。
「この温度帯で……」
岩の窪みに手を突っ込んだ。指先に何かが触れた。滑らかで——硬い。引き出した。
陶器の破片。
午後いっぱいかけて温泉の周辺を調べた。
岩の隙間、泥の中、崩れた浴場の床下——掘れば掘るほど出てくる。陶器の破片。壺の蓋。取っ手の一部。そして——壺そのものが、三つ。
壺は温泉の水路の脇に埋められていた。地熱で温められた岩の中に——恒温層として使っていた。
「これは……発酵槽です」
「発酵槽って、つまり——」
「昔の人が温泉の熱を利用して発酵させていた証拠です。壺を地熱の届く場所に埋めて、安定した温度で長時間発酵を行っていた」
壺の内側を指で擦った。乾いた残滓がこびりついている。匂いを嗅いだ。——何も感じない。何百年も前に中身は失われている。
だが壺の形状が語っている。口が狭い密封型。容量はチーズの壺より大きい。底に沈殿物を溜める段差がある——液体を発酵させて、上澄みを取る構造。
「味噌……いえ、醤油のようなもの。穀物を発酵させて液体調味料を作る壺」
温泉の源泉に近づいた。
湯温は高い。60度以上——手を入れるのは危険だ。だが源泉から離れた場所では50度、40度と徐々に下がっていく。
「ルッツ。あの水たまりの温度を測ってみて」
「どうやってっすか」
「肘を入れなさい。肘の内側が一番温度に敏感だから」
「えっ。肘?」
「赤ちゃんのお風呂も肘で確認するでしょう?」
ルッツが恐る恐る肘を入れた。
「……ぬるいっす。風呂よりぬるい」
「38度くらいですね。——その水を少し掬ってきて」
ルッツが小瓶に温泉水を汲んできた。アネリーゼは瓶を光に翳した。
透明に見える。だが——瓶をしばらく静置すると、底に薄い膜が沈んでいく。白い、糸のような——。
「菌だ」
声が震えた。
「師匠?」
「この温泉水の中に——微生物がいる。耐熱菌。温泉の温度の中で生きている菌」
瓶を揺すった。白い糸状の菌が温泉水の中を漂っている。温泉の硫黄と高温に耐えて——生きている。
「この子たちは……生きている。温泉の中で、300年間ずっと」
目が熱くなった。——また泣くつもりはない。だが。
300年前、魔法料理が全てを席巻した時代。発酵文化は廃れ、発酵槽は打ち捨てられ、技術は忘れられた。だが——菌は死ななかった。温泉の中で、誰にも必要とされない300年間を、黙って生き続けていた。
温泉のそばの岩に腰を下ろして、実験を始めた。
持ってきた穀物の粉——フィールデンの黄金麦の粉を少量、温泉水で溶いた。耐熱菌を含む水を加え、壺に入れて温泉の脇に置いた。地熱が壺を温める。40度前後の安定した温度。
「何をしてるんすか、師匠」
「麹の実験。この耐熱菌が穀物のデンプンを分解するかどうか——」
「デンプンを?」
「デンプンを糖に変える。糖化と言います。もしこの菌に糖化能力があるなら——味噌や醤油のような調味料を作れる可能性がある」
ルッツの目が丸くなった。
「魔法なしで?」
「魔法なしで。温泉の熱と、この菌の力だけで」
壺を温泉の脇に据えた。蓋を載せる。あとは——待つ。
「どのくらいかかるんすか」
「わからない。二日か三日か。この菌がどれくらいの速度でデンプンを分解するか——やってみないとわからない」
「師匠の『やってみないとわからない』って、だいたい面白いことが起きるっすよね」
「面白くないことが起きることもありますよ。壺を開けたら真っ黒で異臭がして——」
「それ楽しそうに言ってるっすよね」
——楽しい。認めざるを得ない。
この旅は苦しくもあるが——楽しい。知らなかったことを知る喜び。試したことがないことを試す興奮。
フィールデンの石窯の前に似ている。——あの温度。あの安心感。
また、エルマーのことを思い出している。
翌日。壺の蓋を開けた。
甘い匂いがした。
「……糖化している」
声が上ずった。穀物の粉が——白い粥状から、やや黄色みを帯びた半透明の液体に変わっていた。舐めた。甘い。デンプンが糖に分解されている。
「ルッツ!」
「はいっす!」
「舐めて。この味——」
ルッツが恐る恐る指を突っ込んで舐めた。目が見開かれた。
「甘いっす! 穀物なのに——甘酒みたいっす!」
「そう。甘酒と同じ原理。この耐熱菌はデンプンを糖に変える糖化能力を持っている。麹菌と同じ機能——」
手が震えている。記録帳を広げたが、字がまともに書けない。
麹菌。日本では「国菌」と呼ばれる特別な菌。デンプンを糖に変え、タンパク質をアミノ酸に変える——味噌、醤油、日本酒、酢、全てがこの菌から生まれる。
その親戚のような菌が——この温泉の中で、300年間生き続けていた。
「もしこの菌がタンパク質も分解するなら——」
「何ができるんすか」
「味噌のようなもの。醤油のようなもの。穀物から作る発酵調味料。——うま味の塊」
ルッツが思わず壺を覗き込んだ。黄色い液体が静かに揺れている。
「これ、すごいんすよね」
「すごいです。これは——発酵技術の核心に近い」
もう一日、滞在を延ばした。
耐熱菌の培養液を小瓶に詰めた。温泉水ごと密封して、温度が下がらないよう布で包んだ。——この菌を生かして持ち帰らなければならない。
温泉の湯に浸かった。ルッツは先に入って「極楽っす……」と溶けている。
アネリーゼは岩に背を預けて、湯気の向こうを見ていた。火山の斜面が黒く、空が赤い。夕焼けだ。
この温度——。
石窯の前に似ている。
フィールデンの石窯は、エルマーさんが毎朝薪を焚いて温めている。壁が蓄熱して、一日中ほんのりと温かい。酵母を起こす時、アネリーゼは石窯の脇に壺を置く。あの温もり。
温泉の温もりは——エルマーさんの石窯に似ている。
……何を考えているのだ。温泉と石窯を比べて、石窯からエルマーさんを連想して——。
「師匠、顔赤いっすよ。のぼせたっすか」
「のぼせていません」
「もう出た方がいいっすよ」
「もう少し入ります」
のぼせたのではない。——たぶん。
翌朝。出発の準備をした。
荷物がさらに重くなった。岩塩のサンプル。ファーリスの種菌。そして温泉の耐熱菌。生きた菌を二種類も運んでいる——菌の旅だ。
温泉郷の東の出口に向かった。山道が続いている。ファーリスの地図によれば、この山を越えれば港に通じる街道に出る。
山道に入って一時間。
「止まれ」
声が降ってきた。
岩の上に——人影。三つ。四つ。——六つ。
屈強な男たちが岩場に散らばって立っていた。日に焼けた顔。粗末な服。だが腰に剣を帯びている。
「この先は通れねえ」
先頭の男が言った。体格が大きい。顎髭を蓄え、目つきが鋭い。だが——その目の奥に、怒りよりも疲弊が見えた。
「山賊……っすか」
ルッツがアネリーゼの前に出ようとした。アネリーゼが腕を押さえた。
「ルッツ。動かないで」
男たちの目を見た。殺気はない。だが追い詰められた人間の——余裕のなさがある。
「通してもらえませんか。私たちは旅の料理人です。武器は持っていません」
「料理人?」
先頭の男の目が——揺れた。
「料理人だと? 魔法が使えるのか」
「いいえ。私は魔法を使いません」
沈黙。
男たちが顔を見合わせた。先頭の男が——長い溜息を吐いた。
「……は?」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
砂漠編が始まりました。
「星砂の胡椒」は架空の食材ですが、砂漠に自生する胡椒の原種は実在します。胡椒の原産地はインド南西海岸ですが、乾燥した環境に適応した近縁種が各地に分布しています。「昼に地上に出て夜に砂に潜る」というのは完全にフィクションですが、砂漠植物の多くは地上部を最小限にして地下に巨大な根系を張る——という生存戦略は実際にあります。
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次回は「星砂の胡椒」の採取と、砂漠の料理——「太陽の料理人」です。
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