第43話: 小麦の道
エルマーが動き始めた。
翌朝。空が白み始める頃、エルマーは王都の伝書局に向かった。辺境の農村への伝書鳩がまだ機能しているかどうか——魔法通信は不安定になっているが、伝書鳩は魔法に依存しない。
「ハンスに出す。フィールデンの黄金麦を荷馬車で送れと。それから——近隣の村。ベルクヴァルト、グリューネ、ヴァッサーフェルド。在来種の小麦を持ってる農家を知ってる」
「そんなに多くの村と繋がりがあるんですか」
「農民はな。隣の村の畑を知ってる。種をもらいに行った、苗を分けてもらった——そういう繋がりだ。魔法の流通とは関係ねえ」
エルマーの目が——いつもと違う光を帯びていた。畑にいる時の穏やかさではない。前線に立つ人間の、静かな覚悟。
三日後。荷馬車の列が王都の城門に現れた。
三台。四台。——七台。
幌をかぶった荷台に、麻袋が山と積まれている。黄金麦。裸麦。在来種の硬質小麦。それぞれの村の、それぞれの畑で育った穀物。
「こんなに……」
アネリーゼは城門の前で立ち尽くした。
「言ったろ。農民は誰が何を育ててるか知ってんだ」
エルマーが荷台の横に立っている。御者に指示を出している。「そこは広場の東側に。漬物の材料は別にしろ」。——手慣れている。農家の出荷と同じだ。畑の収穫を仕分けて、必要な場所に届ける。いつもの仕事の延長。
荷台から一人の老人が降りてきた。白い髭。日焼けした顔——。
「ハンス!」
「よう、アネリーゼ。来たぞ」
ハンスの後ろから、リーナが飛び降りた。
「アネリーゼ! 手伝いに来たよ!」
「リーナまで——」
「畑はエルマーの指示で近所の農家に預けてきた。フィールデンの酵母も連れてきたよ!」
リーナが抱えている壺——アネリーゼの酵母の壺。フィールデンの石窯の脇で育ててきた、あの酵母。
「……ありがとう」
声が詰まった。フィールデンの仲間が——王都まで来てくれた。
小麦の仕分けをしながら、エルマーが荷台の上で指示を出している。
「黄金麦は粉にしやすい。パン用。——こっちの硬質小麦は粒が硬いから、粥に向いてる。漬物の重石はこの石でいい」
農民たちがきびきびと動いている。七台の荷馬車に同乗してきた農民は十五人。全員がエルマーの声に従っている。エルマーは彼らの名前を——全員知っている。
「ヨハン、そっちの袋は裏が破れてるぞ、紐で縛れ。——マルティン、水場はあっちだ」
荷台の上に立つエルマーの背中を、アネリーゼは見つめていた。
この人は——料理人ではない。農夫だ。だがこの危機の中で、料理人と同じくらい——いえ、料理人以上に重要な役割を果たしている。食材がなければ料理はできない。食材を集められるのは——土と種を知っている人間だけ。
「エルマーさんは……この世界では農民のほうが、魔法使いより強いのですね」
呟いた。エルマーには聞こえていない。荷台の上で次の指示を出している。
「師匠、手が止まってるっす」
「え?」
「パン生地。こねてる途中で止まってるっす」
——止まっていた。エルマーを見つめていて、手が止まっていた。
「止まっていません。……発酵を待っていたんです」
「嘘っすね。こねてる途中で発酵は待たないっす。師匠が教えてくれたっすよ」
「……黙ってこねなさい」
炊き出しが拡大した。
小麦が大量にあるから——パンをもっと焼ける。漬物の材料も届いた。フィールデンの酵母で、一度に五十個のパンが焼ける。
ハンスが火の管理をしてくれた。リーナが漬物を切り分けている。ルッツがパンを配っている。農民たちが水を汲み、薪を運び、列を整理している。
一人ではなくなった。
発酵食品の栄養価は高い。微生物が食材を分解する過程でビタミンB群を生成する。パン酵母がビタミンB1を。乳酸菌がビタミンB12を。生の食材より栄養価が高くなる場合すらある。飢餓時にこそ——発酵食品は威力を発揮する。
列に並ぶ市民の顔が変わってきた。初日の怪訝な顔から——感謝の顔に。
「このパン、毎日食べてもいいか」
「酸っぱいけど、慣れるとうまいな」
「子供が喜んで食べてる。ありがとう」
夕方。炊き出しが一段落した。
エルマーが広場の端で水を飲んでいた。汗だくだ。荷物の搬入と仕分けを一日中やっていた。
「エルマーさん」
「ん」
「ありがとうございます。小麦を——こんなに集めてくれて」
「当たり前だ。飯を作るのは土と種だ。魔法じゃねえ」
短い言葉。だが——アネリーゼの胸に響いた。飯を作るのは土と種。この危機の中で、最も本質的な言葉。
「エルマーさん。——明日、もう少し大きな鍋を用意したいのですが」
「リーナに頼め。あいつ、鍋の在庫を知ってる」
「はい。それから——」
「何だ」
「何でもありません」
言いたかったのは——ありがとうではなく、別の言葉。だが今はまだ。危機の最中だ。
夜。広場で仮眠を取る前に、エルマーが少し離れた場所に座っていた。
農民たちは荷馬車の脇で寝ている。ハンスの鼾が響いている。リーナは毛布にくるまって既に寝息を立てている。ルッツは記録帳を広げたまま力尽きた。
「エルマーさん」
「起きてたのか」
「眠れなくて」
「……ああ」
隣に座った。石畳が冷たい。
「明日から——もっと人が増えるだろうな。炊き出しの噂が広まってる」
「はい。材料が持つかどうか——」
「持たせる。追加の伝書を出した。農民はまだいる」
沈黙。夜の王都は——不思議と静かだ。魔法の灯りが揺らいでいる。不安定化の影響か。
「あんた」
「何ですか」
「あいつらの気持ちもわかるんだ」
「あいつら?」
「明日——来るだろ。魔法料理人が」
エルマーが闇を見ている。
「畑を奪われた俺の親父と同じだ。魔法農法が広まった時、親父の畑は要らなくなった。——今度は逆だ。発酵が広まれば、魔法料理人が要らなくなる。……あいつらが怒るのは、当たり前だ」
「……はい」
「でもな。俺の親父は——それでも土を耕し続けた。要らないと言われても。畑を守り続けた。……あんたと同じだ」
エルマーが顔を上げた。星が少ない王都の空。だが——一つ、二つ、見える。
「要らないと言われても、守り続けた奴が——最後に必要とされる」
アネリーゼは何も言えなかった。——泣きたくなった。泣かなかった。
「寝ろ。明日は忙しい」
「……はい」
翌日の昼。炊き出しの列がさらに長くなった頃——広場に一人の男が現れた。
長身。金髪を後ろで結んでいる。外套の下に——右手が微かに紫色に光っている。
「久しぶりだな、アネリーゼ」
マティアス・アッシェンブレンナーが、布に包んだパンを手に、広場に立っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「種の守人」という組織を書きながらずっと頭にあったのは、ノルウェーのスヴァールバル世界種子貯蔵庫です。永久凍土の山の中に世界中の農作物の種子を保管している施設——「植物のノアの箱舟」と呼ばれています。ヴェルナーがやっていることはまさにこれの一人版で、書いていて「こんな孤独な仕事が五十年も続くものだろうか」と自分で震えました。でも「守ってきて——よかった」の一言が出た瞬間、ヴェルナーの五十年が報われた気がして、書いている手が止まりました。
ケフィア粒の話は実在する食文化で、コーカサス地方で数百年にわたって人から人へ受け継がれてきた「生きた発酵スターター」です。一つの粒が分裂し、増え、次の家庭に渡される——微生物の命が人の手で世代を超える。これこそがスターター文化の本質で、次回の「菌の守人」で本格的に掘り下げます。
次回は「菌の守人」。ヴェルナーの地下保管庫の、その奥にある部屋には何があるのか。
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