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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第28話: 市場の朝

 朝の光が、宿の窓から斜めに差し込んでいた。


 右手が疼く。昨日の火傷。指先から手の甲にかけて赤く腫れており、布巾を巻いたまま眠った。


 ——今日は、対決がない。


 三番勝負の間に設けられた休息日。第三戦は明日。テーマは甘味。蜜林檎のタルトを構想しているが、味の設計がまだ固まっていない。果実酢の甘酸っぱさを活かしたい。だが、どう組み立てる。


 宿の階段を下りると、食堂にルッツがいた。朝食の魔法パンを齧っている。味がないのか、噛む回数が減っている。


「師匠。今日どうするっすか」


「市場に行きます。甘味の食材を探さないと」


「俺も行くっす!」


「ルッツは宿にいなさい。石窯の火を落とさないで。明日の朝、予熱を始められるように」


「うっす……」


 ルッツは素直に引き下がった。食堂の入り口に——赤毛の背中が見えた。




 エルマーは宿の前で壁に寄りかかっていた。腕を組んで、通りを眺めている。ダルムの朝は早い。魔法灯がまだ灯っているが、東の空が白んでいる。


「……おはようございます」


「おう」


 エルマーは壁から背中を離した。何も言わない。アネリーゼが「市場に行く」と言うのを待っている風だった。


「市場に行きます。甘味の食材を探しに」


「知ってる。——小僧が昨日の夜言ってた」


 ルッツ。余計なことを。


「案内がいるだろ。俺は昨日、農産物を売りに来た帰りにダルムの市場を歩いた。配置は大体わかる」


「……ありがとうございます」


 二人で通りに出た。ダルムの街路は広い。王都ほどではないが、建物が石造りで統一されており、看板に魔法料理ギルドの紋章が並んでいる。


 エルマーが半歩前を歩いた。速くもなく、遅くもなく。アネリーゼの歩幅に合わせている——が、本人はそのことに気づいていない様子だった。




 ダルムの中央市場は、広場を丸ごと使った青空市場だった。


 天幕の下に、食材と調味料と調理器具が並ぶ。魔法食品が主流だが、辺境から持ち込まれた生鮮品も一部ある。人の流れが朝から絶えない。声が飛び交い、値段の交渉が重なり合って、市場特有の騒がしさを作っている。


「……広いですね」


「フィールデンの市場とは比べもんにならねえな」


 フィールデンの市場——アネリーゼが作り始めた、あの小さな物々交換の場。天幕は三つ。並ぶのは手作りのパンと漬物とバターだけ。それでも村人たちが笑って集まった。


「でも匂いは——フィールデンの方がいいです」


 アネリーゼは鼻を動かした。ダルムの市場は人と食材の匂いが混在しているが、発酵の香りがない。パン屋はあるが、魔法膨張パンの匂いは酵母の呼吸とは違う。


「こっちだ。果物を見た」


 エルマーが天幕の間を抜けていく。アネリーゼが後を追った。




 果物の一角に、蜜林檎があった。


 深紅ではなく淡い紅色——栽培種だ。フィールデンの古木から採れた深紅の蜜林檎とは品種が違う。だが果肉は甘い。手に取って匂いを嗅いだ。


「甘い匂いはある。でも——奥行きが浅い」


「それは魔法で育てたやつだからだろ」


「そうですね。でもタルトの土台にはなります。果実酢の酸味を重ねれば——」


 隣の台に、胡桃くるみが山積みになっていた。殻つき。


「これ——いいかもしれない」


 アネリーゼは胡桃を手に取った。振ると、中で実が動く音がする。


「胡桃のローストをタルト生地に混ぜる。油脂と香ばしさ。果実酢の酸味と、胡桃の苦みが——」


「割るか」


 エルマーが胡桃を受け取った。右手で握り——掌の中で殻が割れた。素手で。


 節くれだった大きな手が殻を開き、中の実を取り出す。白い胡桃の実が、土で日焼けした掌の上に載っている。


「……」


 アネリーゼは、その手を見ていた。


 指の太さ。爪の間の土。中指の古い鍬だこ。道具に慣れた手だ——初めて会った日にも、そう思った。フィールデンの畑で。石窯を組んだ時も。燻製小屋を建てた時も。この手はいつも、何かを作っていた。


「——食わねえのか」


「あ。はい」


 エルマーの掌から胡桃の実を摘まんだ。指が触れた。一瞬。エルマーは短く息をついた。


 胡桃を口に入れた。苦み——そして甘みが、噛むほどに広がる。油脂の濃厚な風味。


「これ。この味です。タルト生地に入れます」


「じゃあ買えよ」


「はい。——ありがとうございます」


 何に対しての礼かは、自分でもわからなかった。




 蜂蜜を売る老婆の天幕で、足が止まった。


 琥珀色の蜂蜜が壺に入っている。数種類。花の種類で色と香りが違う。アネリーゼは一つずつ匂いを嗅ぎ、指先で舐めた。


「これは菩提樹。清涼感がある。——こちらは蕎麦。深くて黒い甘み。タルトには——菩提樹が合う。果実酢の酸味と喧嘩しない」


「あんた、全部わかるのか」


「舌の宝物ですから」


 言ってから、口を押さえた。母の言葉だ。「あなたの舌は宝物よ」——ダルムの市場で、不意に母の声が蘇った。


「……誰の言葉だ」


「母の。——昔の話です」


 エルマーは何も聞かなかった。蜂蜜を買う間、黙って隣に立っていた。




 市場を歩き続けた。


 乾燥果実。香辛料。小麦粉。卵。砂糖——ダルムの砂糖は魔法精製で真っ白だが、風味がない。アネリーゼは黒砂糖を探した。


「ない。黒砂糖がない。——精製糖しかないんですね、ダルムは」


「そりゃそうだろ。魔法で白くする方が楽だからな」


「フィールデンの蜂蜜があれば……」


「あるぞ」


「え?」


 エルマーが懐から、小さな壺を取り出した。蜜蝋で蓋がされている。


「持ってきた。あんたが使うと思ったからな」


「……いつの間に」


「出発の朝。荷物に入れた」


 ——この人は。必要なものを黙って持ってくる。いつも。フィールデンでも。ダルムでも。


「ありがとうございます」


「取引だ。フィールデンの物をダルムで使えば、うちの村の宣伝になる」


 取引。いつもそう言う。情けじゃない、取引だ、と。


「はい。取引ですね」


 自分が笑っていることに気づいた。


 ——フィールデンにいる時みたいだ。


 市場の喧噪の中にいるのに、二人で畑の端を歩いている時と同じ空気がある。エルマーが半歩前を歩き、アネリーゼがその背中を見て、時々立ち止まって食材を手に取る。同じだ。場所が違うだけで、距離が同じ。


 その言葉が口から出かけた。「フィールデンにいる時みたい」——と。


 飲み込んだ。言ったら何かが変わる気がした。何が変わるのかはわからない。ただ、飲み込んだ。




 昼が近づいていた。市場の一角に屋台が並び、焼き物や揚げ物の匂いが漂っている。


「飯。食うか」


「はい」


 エルマーが屋台で買ってきたのは、肉の串焼きだった。魔法竈で焼いたもの——均一な焼き色。味は悪くないが、メイラード反応の不規則な香ばしさがない。


「……昨日の燻製肉のほうが旨かった」


 エルマーがぼそりと言った。


「えっ」


「廊下で匂いを嗅いだだけだ。食ってねえ。だが——あの桜の匂いは、こいつにはない」


 アネリーゼは串焼きを齧りながら、頬が緩むのを止められなかった。


「明日の甘味、決まったか」


「……まだ完全には。胡桃と蜂蜜と蜜林檎と果実酢で——タルトを作ります。でも、味の着地点がまだ見えません。構成はあるのに、どんな味にしたいのかが……」


「難しいことを言ってるな」


「はい。……難しいんです」


 エルマーは串を食べ終え、骨を屋台に返した。振り返りもせず。


「……あんたの料理は、難しく考えた時より、誰かに食わせたい時のほうが旨い」


 アネリーゼの手が止まった。


「——フィールデンのパン。あれは俺たちに食わせるために焼いたパンだった。だから旨かった。……俺が言えるのはそれだけだ」


 鼻の頭を擦った。目を逸らして、市場の人混みを見ている。


 アネリーゼは、その横顔を見ていた。


 ——誰に食べてほしいのか。


 その問いが、胸の中で反響した。まだ答えは形になっていない。だが、問いの輪郭だけがくっきりと残った。




 帰り道だった。


 市場の西端を通り抜け、石畳の通りに出た時——アネリーゼの足が止まった。


 通りの向こう側。馬車の前に立つ男の背中。


 銀灰色の髪。広い肩幅。黒い外套。左手に革手袋。


 ——父。


 ヴィルヘルム・フォン・ヴァイスガルテン。


 間違いない。あの姿勢。あの肩の線。子供の頃から見上げてきた背中。


 呼吸が浅くなった。足が動かない。


「……どうした」


 エルマーが振り返った。アネリーゼの視線を追い——通りの向こうの男を見た。


「知り合いか」


「……父です」


 声が掠れた。


 父は馬車に乗り込もうとしていた。従者が扉を開けている。あと数秒で行ってしまう。


 追いかければ、間に合う。声をかければ、振り返る。


 ——何を言う。


 追放を決めたのは父だ。「家名を汚した」と。料理を、私の仕事を、認めなかった人。


 ——でも。


 マルガレーテの手紙。「ダルムにはお父さまの知り合いがいます」——知り合いではなく、父自身がいた。


 マティアスの言葉。「お前の父親は、お前の出場を知っている」——知っていて、ここにいる。見に来たのか。見届けに来たのか。それとも——


 父が馬車に乗った。扉が閉まった。御者が手綱を取る。


 走れば、まだ間に合う。


 足は、動かなかった。


 馬車が動き出した。石畳の上を轍が軋み、通りの角を曲がって消えた。


 ——行ってしまった。


「追わねえのか」


 エルマーの声。低く、静か。


「……今は、追いません」


「……そうか」


 エルマーは何も聞かなかった。蜂蜜の壺のことも。母の言葉のことも。父の背中のことも。聞かない。ただ隣にいる。


 それが——今はちょうどよかった。


「帰りましょう。明日の仕込みがあります」


「おう」


 二人で通りを歩いた。エルマーが半歩前。アネリーゼが半歩後ろ。


 右手が疼いた。火傷ではない。——胡桃を受け取った時の、指先の記憶。


 振り払った。今は、明日のことを考える。




 宿に戻ると、ルッツが厨房の隅で火の番をしていた。


「師匠! おかえりっす! どうでした、市場」


「必要なものは揃いました。胡桃、蜂蜜、蜜林檎。あとは——」


 買い出しの袋をテーブルに並べた。エルマーが壺を置いた。フィールデンの蜂蜜。


「これ、フィールデンの蜜っすか? エルマーさんが持ってきたんすね」


「……ああ」


「さすがっす」


 エルマーは鼻の頭を擦って、厨房を出ていった。




 夜。宿の部屋で、タルトの設計を紙に書いていた。


 生地: 黄金麦の粉+胡桃のロースト+フィールデンの蜂蜜。


 充填: 蜜林檎の果肉を煮詰める。果実酢で酸味をつける。菩提樹の蜂蜜で甘みの層を作る。


 仕上げ: ……ここが決まらない。


 マティアスは魔法デザートを出してくる。幻想的で美しい一皿。味覚増幅が効いた、一口目のインパクト。それに対抗するには——


 ——誰に食べてほしいのか。


 エルマーの言葉が蘇った。


 「あんたの料理は、難しく考えた時より、誰かに食わせたい時のほうが旨い」


 ……明日、考えます。


 紙を閉じた。灯りを消す前に、窓から通りを見下ろした。


 父の馬車が曲がっていった角が見える。


 ——追わなかった。追えなかった。どちらだろう。


 答えは出ない。だが——明日はまず、甘味を決めなければならない。


 窓を閉めた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第一戦の結果は3対2でアネリーゼの負け。これは最初から決めていた展開です。一口目の衝撃では魔法パンに勝てない。それは正直な現実なんですよね。


審査員長レオンハルト翁の「婆さまが焼いてくれたのは、パンだった」という台詞は、この作品を書き始めた時から温めていた言葉です。八十二歳の老人の、六十年ぶりの味の記憶。人間の味覚は——魔法では消せない。鈍っているだけで、本能的に「複雑な味」に反応する。これが第3アーク全体の核心テーマです。


マティアスの「感傷に勝敗を委ねるな」も、彼なりの正論です。料理は感傷ではなく技術——そう信じて魔法料理の頂点に立った男の矜持。彼は「敵」ではなく、別の哲学を持つ料理人です。この二人の対立がどこに着地するかは、第三戦までお楽しみに。


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