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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第27話: 肉の対決

 第二戦の朝は、肉の匂いで始まった。


 ギルド本部の大厨房——左側の調理台の上に、布で包んだ塊が置かれている。フィールデンを出る十日前から塩漬けにした豚の肩肉。馬車の中で陰干しし、王都に着いてからも宿の窓辺で風に当て続けた。表面は乾いて褐色に締まり、指で押すと弾力がある。


 アネリーゼは布を解いた。塩と肉の凝縮された匂いが立ち上る。——良い状態だ。水分がしっかり抜けている。


「師匠。桜チップ、準備完了っす」


 ルッツが石窯の脇に桜の木片を並べていた。エルマーが村外れの古木から伐り出してくれたもの。フィールデンから大事に運んできた。




 右側の調理台に——マティアス・レーヴェンが立った。


 金髪を後ろで結び、白い調理服の袖を捲っている。右手の指先に——紫の光。味覚増幅魔法の常時展開。助手が運んできた牛腿肉の塊を、左手で受け取った。


 進行役が立ち上がる。


「三番勝負、第二戦。テーマ——肉料理。制限時間なし。では——始め」




 マティアスが動いた。


 右手を肉の上にかざす。紫光が強まった。軟化魔法——肉の繊維構造に魔力を浸透させ、分子レベルで組織を柔らかくする技術。硬い筋繊維が、見る間にほぐれていく。


 同時に、左手で香草を刻んでいる。二つの魔法を同時に制御しながらの包丁捌き。


 観客席から感嘆の声が漏れた。


「首席の軟化魔法だ——あの精度、人間業じゃない」


「肉が光ってるぞ。魔力が浸透してる証拠だ」


 マティアスは無言だった。集中。完全な集中。肉を魔法竈に入れ、温度を魔力で正確に制御する。200℃。一秒の誤差もなく。


 焼き上がりまで——二十分。




 左側の調理台。


 アネリーゼは石窯に薪を入れた。予熱に一時間かかる。その間に——燻煙の準備。


 桜チップを水に浸す。十分間。水を切り、石窯の脇に設けた燻煙箱に並べる。箱の底に熾火おきびを入れ、その上に濡れた桜チップを載せる。


 白い煙が立ち上った。


「この匂い——花みたいだ」


 観客の一人が鼻を動かした。


「桜の木の燻煙です」


 アネリーゼは塩漬け肉を燻煙箱の中に吊るした。扉を閉める。


「温度は三十度から五十度。煙の中のフェノール化合物が肉の表面に吸着し、独特の香りと保存効果を生む。——六時間、待ちます」


「六時間!?」


 観客席がどよめいた。昨日のパン対決でも「待つ」と言われたが——今日も待つのか。




 マティアスの肉料理が完成した。


 皿の上に、薄くスライスされた牛腿肉が扇状に並べられている。表面に香草のソースが掛けられ、魔法灯の光を受けて艶やかに光っている。


 一口——審査員の一人が口に入れた。


「柔らかい。信じられないほど柔らかい」


「噛む必要がない。舌の上で溶ける」


「味が——濃い。肉の旨味が増幅されている。一口で完成されている」


 五人の審査員が頷いている。完璧な一皿。マティアスの技術の粋。


 マティアスは腕を組んで壁に寄りかかった。余裕の表情。——だが目だけは、アネリーゼの燻煙箱を見ていた。




 六時間が過ぎた。


 観客は半分が帰り、半分が残っていた。昨日のパン対決で「待った先に何かがある」と知った人々が——今日も残った。


 アネリーゼは燻煙箱を開けた。


 肉が——飴色に変わっていた。桜の煙が染み込み、表面は深い褐色。甘く、温かく、どこか懐かしい香りが大厨房に広がった。


「いい匂いっす……」


 ルッツが目を閉じて鼻を鳴らした。


「ここからが仕上げです。——高温で表面を焼く。メイラード反応。アミノ酸と糖が150℃以上で結びつき、数百種の風味化合物を生む。燻製の香りの上に、焼きの香ばしさを重ねる」


 石窯の温度を確認した。予熱は十分。薪が熾火になり、石壁が蓄熱している。


 肉を鉄板に載せ、石窯に滑り込ませた。




 ——異変は、三分後に起きた。


 石窯の中から、焦げた匂いがした。


 アネリーゼの鼻が反応した。——早すぎる。まだ表面を焼き始めたばかりなのに、焦げの匂いが来ている。


 石窯の口から覗いた。肉の表面が——黒く変色し始めていた。片側だけ。右側。


「師匠! 焦げて——」


「炭が違う……!」


 フィールデンの薪炭と王都の炭は火力が違った。王都の木炭は魔法乾燥処理された高密度炭——同じ量でも熱量が倍近い。石窯の温度が想定を大きく超えていた。


 アネリーゼは石窯に手を突っ込んだ。


 素手で。


 鉄板の端を掴み、一気に引き出した。


「師匠!」


 肉は鉄板の上にある。右側の表面が黒く焦げかけている——だが、まだ炭化していない。間一髪。


 右手が熱い。指先に鋭い痛み。——だが構っている場合ではない。


 焦げかけた部分を上にして鉄板を回転させ、石窯に戻した。焦げていない面を火に向ける。温度を下げるために石窯の口を開放し、空気を入れた。


「ルッツ。濡れ布巾」


「はい!」


 ルッツが差し出した布巾で右手を包んだ。古い火傷痕の上に、新しい赤みが重なっている。


 ——集中。今は手のことは忘れる。


 石窯の温度が下がるのを待った。鼻で、煙の匂いの変化を追う。焦げ臭から——香ばしさへ。メイラード反応の適温域に入った。


 三分。


 石窯から取り出した。




 鉄板の上の肉。


 右側の表面に、黒に近い焦げ目が残っている。だが——それ以外の面は、見事な黄金色。メイラード反応による不規則な焼き色。焦げと焼きの境界線がグラデーションを作っている。


 薄く切った。断面は——三つの層。外側の燻煙層、中間の塩漬け層、中心の肉本来の色。同心円状のグラデーション。


 皿に並べた。不揃いに。マティアスの扇状の盛り付けとは正反対——素朴で、手仕事の跡がそのまま残った皿。


「完成です」




 審査が始まった。


 審査員五名がまずマティアスの肉を食べ直し——次にアネリーゼの皿に手を伸ばした。


 一口目。


「……硬い」


 商人の男が眉を寄せた。マティアスの軟化魔法肉の後では——塩漬け燻製肉の歯応えは「硬い」と感じるのが当然だった。


「繊維が残っている。魔法肉と比べると——」


「二口目を、お願いします」


 アネリーゼの声は静かだった。


 審査員が噛んだ。二度。三度。四度——。


「……味が変わる」


 料理教師の女性が目を丸くした。


「噛むたびに、味が変わっている。最初は塩味。次に——煙の香り。そして——旨味が、奥から……」


「桜の香りが——鼻に抜ける」


「余韻が長い。口の中に——まだいる」


 審査員長の老人が、四口目をゆっくりと咀嚼していた。目を閉じている。五回。六回。七回。


 目を開けた。


「……子供の頃——祖母の家で嗅いだ匂いだ」


 会場が静まった。


 老人の手が——震えていた。昨日のパン対決の時と同じ。いや、今日の方が強い。


「祖母が……煙で何かを作っていた。何を作っていたかは覚えていない。だが——この匂いは、あの時の匂いだ。七十年前の……」


 声が掠れた。




 審査結果——アネリーゼ、3対2。


 辛勝だった。


 商人と学者がマティアスに票を入れた。「完成度」と「食感の快適さ」で、魔法肉が上だと判断した。料理教師と市民代表がアネリーゼに投じた。「味の多層性」と「記憶を呼ぶ香り」を評価した。


 審査員長が——アネリーゼに入れた。決め手は、七十年前の匂いだった。


「これで一勝一分。アネリーゼ殿がリードとなります」


 進行役の声が響いた。観客席がざわめく。




 マティアスは調理台を片付けていた。道具を洗い、布で拭き、棚に戻す。——動作は完璧だが、いつもより遅い。


 アネリーゼが歩み寄った。


「マティアス殿。——あなたの肉料理は見事でした。軟化魔法の精度と味覚増幅の調和は、私には到底真似できません」


「……」


 マティアスは手を止めなかった。布で刃物を拭きながら——目だけがアネリーゼを見た。


「ヴァイスガルテン。一つ聞く」


「はい」


「あの焦げ——失敗だろう」


「はい。火力を読み違えました」


「失敗した料理で、なぜ勝てた」


 沈黙。


「……わかりません。ただ——焦げの部分にも、メイラード反応の風味化合物は生まれていた。失敗が、結果的に味の幅を広げた可能性はあります。意図した成功ではありません」


 マティアスの目が——揺れた。完璧に制御された料理が、不完全な料理に負けた。失敗が味を広げるという事実が——マティアスの「一口目の完璧」という哲学を、根底から揺さぶっているように見えた。


「……明日は本気を出す」


 マティアスは振り返った。大厨房を出ていく。


 その背中を見送りながら、アネリーゼは気づいた。マティアスの目に浮かんでいたものは、敵意ではなかった。怒りでもなかった。


 探究だ。


 マティアスは——答えを探している。




 大厨房を出ると、廊下の柱にエルマーが寄りかかっていた。


 腕を組んで、壁を見ている。アネリーゼに気づくと——耳の後ろを掻いた。


「終わったか」


「はい。——勝ちました。辛勝ですが」


「聞こえてた。匂いも来てた。桜の匂いが——廊下まで」


「エルマーさんの桜のおかげです」


「俺は伐っただけだ。——手」


「え?」


「手。赤い」


 右手を見た。布巾を取ると——指先から手の甲にかけて、赤く腫れている。石窯に素手を突っ込んだ跡。古い火傷痕の横に、新しい火傷が並んでいた。


「……大したことありません」


「水で冷やせ。——飯はまだだろ。何か買ってくる」


 エルマーは柱から背中を離し、廊下を歩いていった。「何か」がどんな食べ物かは言わない。だがこの人は——必要なものを黙って持ってくる。いつも。


 右手が熱い。石窯の熱ではない。別の熱が——指先に残っている気がした。


 明日は第三戦。テーマは甘味。


 蜜林檎のタルト。果実酢の甘酸っぱさ。——まだ、味の形が見えていない。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第一戦・パン。書いていて一番緊張したのは審査員の一口目のリアクションです。「酸っぱい。失敗ではないのか」——これは嘘じゃないんですよね。サワードウの酸味は、魔法パンしか食べたことない人には衝撃的なはず。現実世界でも、日本の菓子パンに慣れた人が初めてサンフランシスコのサワードウを食べると「酸っぱ!」ってなりますから。


審査員長の「もう一切れ、いただけますか」は、実は一番重要な台詞です。美味いパンは——もう一口食べたくなる。それだけのことが、全てを語っている。


マティアスとの会話で「メイラード反応」の名を出しました。マティアスはこの名前を初めて聞く。千年前は常識だった科学が、今は誰も知らない。知識の断絶って、こういう形で可視化されるんだなと。


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