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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第29話: 甘味の対決

 試作一回目が、失敗した。


 ギルド本部の厨房。前夜から仕込んだタルト生地を石窯で焼いたが——黄金麦の粉と胡桃のバランスが悪い。胡桃の油脂が多すぎて、生地が崩れる。


 二口食べて、皿を下げた。


「師匠? もう試食終わりっすか」


「崩れる。胡桃が多い。粉の比率を変えます」


 試作二回目。生地は安定した。だが充填——蜜林檎の煮詰め方が甘い。水分が残りすぎて、タルトの底が湿る。


「……駄目です」


「えっ、これ旨いっすよ? 蜜林檎甘くて——」


「甘いだけ。奥行きがない。果実酢の酸味が蜜林檎に負けている」


 試作三回目。果実酢の量を増やした。酸味と甘味のバランスは改善した——だが、今度は全体の味がまとまらない。生地の胡桃の苦み。充填の甘酸っぱさ。蜂蜜の香り。三つの要素が個別に主張して、一つの味にならない。


 三枚目の皿を、流しに置いた。


「……全部、やり直しです」


「三枚目も駄目っすか」


「ルッツ。石窯の火を落としてください。今日はもう焼きません」


 夕刻。厨房から食材の匂いが消えるまで換気した。三回分のタルトの残骸を片付け、調理台を拭き——


 手が止まった。


 明日は本番だ。マティアスは「明日は本気を出す」と言った。甘味は魔法料理の華。味覚増幅魔法が最も映えるジャンル。マティアスが甘味で全力を出せば——


 ——勝てるのか。




 ルッツが宿に戻った後、アネリーゼは一人で厨房に残った。


 蝋燭一本。石窯は冷えている。調理台の上に、明日使う食材が並んでいた。


 黄金麦の粉。胡桃。蜜林檎。果実酢。フィールデンの蜂蜜。菩提樹の蜂蜜。


 全部揃っている。食材に問題はない。


 ——問題は、私だ。


 何を作りたいのかが、わからない。三回試作して、三回とも「違う」と感じた。構成はある。理論はある。だが味が——着地しない。


 調理台に両手をついた。


 フィールデンでは、こんなことはなかった。パンを焼く時は「村の人に食べてもらう」という一点が明確だった。チーズも、バターも、燻製も——誰かの食卓に届く。そのイメージがあった。


 今は——誰に食べてもらうための甘味なのか。審査員か。観客か。マティアスの鼻を明かすためか。


 どれも違った。


 蝋燭の炎が揺れた。窓の隙間から夜風が入っている。


 ——あんたの料理は、難しく考えた時より、誰かに食わせたい時のほうが旨い。


 エルマーの声が、頭の中で聞こえた。昨日の市場。串焼きを食べた後。あの横顔。鼻の頭を擦って、目を逸らして。


 ——誰に食べてほしいのか。


 その問いに、浮かんだのは——


 フィールデンの食卓だった。


 エルマーが隣に座っている。ルッツが向かいで口を開けている。リーナが膝を乗り出している。ハンスがパンを千切っている。


 あの食卓に——甘味を出すなら。


 寒い冬の夜に、一日の終わりに、温かい食卓に出す一皿。


 完璧なデザートなんか要らない。掌に載るくらいの——小さくて温かいタルトが一切れあればいい。


「……そうか」


 呟いた。声が厨房に反響した。


 立ち上がった。石窯に薪を入れる。予熱に時間がかかる——だが、今夜のうちに仕上げる。




 深夜の厨房。


 黄金麦の粉に、胡桃を細かく刻んで混ぜた。——三回目までの失敗を踏まえ、胡桃の量を半分に減らした。胡桃は生地の主役ではない。脇役。噛んだ時にふと香ばしさが顔を出す、その程度でいい。


 フィールデンの蜂蜜を少量。甘さのためではない。焼いた時にカラメル化して、生地に色と香りをつけるため。


 生地を型に敷いた。指で押さえる。右手が痛む——火傷の跡。構わない。


 充填。蜜林檎の果肉を薄く切った。今度は煮詰めない。生のまま、型に並べる。


「……生?」


 独り言。——生の蜜林檎を使う。焼いている間に果汁が出る。その果汁と果実酢が混じり合い、タルト生地に染み込む。煮詰めると失われる、果実のみずみずしさが残る。


 果実酢を回しかけた。蜜林檎の上に、薄く。菩提樹の蜂蜜を——これも薄く。


 石窯に入れた。温度は高くない。160℃。ゆっくり焼く。黄金麦の粉が焦げない温度。蜜林檎の果汁がじわじわと染み出す温度。


 二十分。——待つ。


 石窯の前に座った。膝を抱えた。


 ——待つことが、私の料理だ。


 発酵も。熟成も。燻製も。全て——時間が味を作る。魔法は時間を飛ばす。だが時間の中にしか生まれない味がある。


 焼けてきた。石窯の中から——甘い香りが漏れ始めた。蜜林檎の果汁が煮立ち、果実酢の酸味が立ち上り、胡桃の油脂がじわりと溶けている。


 ——この匂い。


 フィールデンで石窯を焚いた時と、同じ匂いがする。黄金麦の粉が焼ける時の、あの穀物の甘い香り。


 石窯を開けた。


 タルトが——焼けていた。


 黄金色の生地。蜜林檎の果汁が縁から少し溢れて、黒飴色にカラメル化している。表面は不均一——果実が並んでいる場所と、蜂蜜が溜まった窪みが、不規則なまだら模様を作っている。マティアスの幾何学的なデザートとは正反対の、手仕事の痕跡がそのまま残った焼き色。


 一切れ、切った。


 口に入れた。


 ——噛む。


 生地がさくりと崩れた。胡桃の破片が歯に当たる。蜜林檎の果肉がまだ温かい。果汁が口の中に広がった——甘い。だが甘さだけではない。果実酢の酸味が追いかけてくる。甘酸っぱい。懐かしい。蜂蜜のカラメルが舌の奥で余韻を引く。


 ——これだ。


 これが、食卓に出したかった味だ。




 翌朝。ギルド本部の大厨房。


 マティアスが先に立っていた。白い調理服。金髪を後ろで結んでいる。右手の紫光が——昨日の肉対決の時より強い。両手に展開している。


 「本気を出す」と言った通りだった。


「三番勝負、第三戦。テーマ——甘味。では——始め」


 マティアスが動いた。


 素材は——白い粉と、無色透明の液体。何を作るのかすら見当がつかない。


 両手の紫光が食材を包んだ。味覚増幅。分子変換。温度制御。——三つの魔法を同時に操り、素材を変容させていく。


 粉が膨らんだ。——いや、膨らんだのではない。形が変わった。目の前で、粉が花の形になっていく。花弁が一枚ずつ開き、中心に液体が流れ込み、凝固し——


 観客席から息を呑む音が聞こえた。


「花だ——花が咲いてる」


「魔法で花を作ってる……食べられる花……」


 マティアスの手の中に——白い花が咲いていた。食べられる花のデザート。砂糖と水と魔法だけで造形された、完璧な一輪。花弁の先端が淡い紫に染まっている。味覚増幅魔法が色に変わっている証だ。


 花を皿に載せた。三分。マティアスのデザートは三分で完成した。




 審査員が花を食べた。


「——美しい」


「口の中で溶ける。花弁が一枚ずつ違う味がする」


「最初に甘み——次に酸味——最後に花の香り。完璧な設計だ」


「これが魔法料理の到達点か……」


 五人が感嘆していた。マティアスは腕を組んで、壁に寄りかかった。——昨日は余裕を装っていた。今日は違う。目が鋭い。集中している。本気だ。




 左側の調理台。


 アネリーゼは深夜に焼いたタルトを出した。


 焼き直していない。深夜のまま。冷めている。——だが、タルトは冷めてからが本番だ。果実酢の酸味は冷えると引き締まる。蜜林檎の果汁が生地に染み込み、一晩かけて味が馴染む。


「これは……冷めたまま出すのか?」


 商人が眉を寄せた。マティアスのデザートは出来立ての温かさと、口の中で溶ける食感があった。対して——冷めたタルト。


 一切れを皿に載せた。不揃いな形。縁が少し崩れている。表面の焼き色は不均一。


「どうぞ」


 審査員が一口、齧った。


 ——五人の手が止まった。


 同時に。


 咀嚼が止まり、箸を持つ手が宙に浮いた。目が開き、互いの顔を見合わせ——


 誰も、何も言わなかった。


 二口目を齧った。三口目。四口目。無言で食べ続けている。




 審査員長の老人が、最後の一欠片を口に入れた。


 目を閉じた。長い沈黙。


 目を開けた時——老人の目が、潤んでいた。


「……これは、何だ」


「蜜林檎のタルトです。生地に黄金麦の粉と胡桃。充填は生の蜜林檎と果実酢。甘味は蜂蜜二種——ダルムの菩提樹と、フィールデンの蜜蝋蜂蜜」


「そういうことを聞いているのではない」


 老人はタルトの欠片を指で押さえた。


「なぜ——温かくないのに、温かいのだ」


 会場が静まった。


 料理教師が頷いた。「わかる。冷めているのに、食べると温かい気がする。——不思議だ」


 市民代表が目を擦った。「一口目は酸っぱいと思った。でも噛んでいるうちに——甘くなった。甘酸っぱい。子供の頃に食べた——何だったか。思い出せないが、この味は知っている」


「果物が——生きている」


 学者が皿を覗き込んだ。


「蜜林檎の果肉がまだ生に近い状態で残っている。煮詰めていない。だから果実の水分と風味が——保たれている。生地に染み込んだ果汁が、酢と蜂蜜と混じり合って——一晩かけて味が変わっている。これは、時間が作った味だ」


「……そうです」


 アネリーゼの声は静かだった。


「時間が、味を作りました。昨夜焼いて、今朝出す。その間に果汁が生地に浸透し、果実酢が果肉を締め、蜂蜜のカラメルが全体をまとめました。——マティアス殿のデザートが三分で完成するのに対し、私のタルトは八時間かかっています」


「八時間——」


「待つことが、私の料理です」




 マティアスが壁から離れた。一歩。二歩。アネリーゼの調理台の前まで来た。


 残ったタルトの切れ端を——手に取った。


 口に入れた。


 ——噛んだ。


 目が——揺れた。


 昨日の肉対決の後と同じ揺れだ。だが今日はもっと深い。噛むたびに揺れが大きくなっている。


 四度。五度。六度。


 マティアスの右手の紫光が——消えた。


 味覚増幅魔法を切っていた。素の舌で、タルトを味わっている。


「……」


 何かを言いかけた。口を閉じた。もう一口食べた。


 会場は静かだった。誰もが——マティアスの顔を見ていた。首席魔法料理人が、魔法を切って、冷めたタルトを食べている。


 マティアスは皿を置いた。何も言わず、調理台に戻った。




 審査員の合議が始まった。


 アネリーゼは調理台の前で立っていた。ルッツが隣に来た。


「師匠……マティアスさん、魔法切ってましたよね」


「……ええ」


「あれ、めちゃくちゃすごいことっすよね? 自分の一番の武器を外して味見するって——」


「ルッツ。静かに」


 合議が長引いた。十分。二十分。審査員の声が聞こえないよう、扉が閉められた。


 エルマーは——大厨房の入り口に立っていた。腕を組んで、柱に寄りかかっている。目がアネリーゼを見ている。鼻の頭は、今は掻いていない。


 三十分後、扉が開いた。




 進行役が立ち上がった。


「三番勝負、第三戦——」


 会場が静まった。


「審査結果を発表します。アネリーゼ殿、3票。マティアス殿、2票」


 ——勝った。


 ルッツが声を上げた。「やったっす!」


 だがアネリーゼは動けなかった。膝から力が抜けそうになった。踏みとどまった。泣かない。深く、息を吐いた。


「——終わった」


 それだけ呟いた。


 三番勝負——2勝1分。アネリーゼの勝利。


 発酵研究は守られた。フィールデンの市場は閉鎖されない。


 審査員長が立ち上がった。


「判定理由を述べます。味覚の技巧においては、マティアス殿のデザートが上でした。三分で完璧な一皿を構築する手腕は、魔法料理の最高峰と認めます」


 マティアスが頷いた。


「しかし——アネリーゼ殿のタルトには、時間がありました。一晩かけて味が変わっていく料理を、私は初めて食べた。冷めているのに温かい。その矛盾が——説明できない。説明できないものに、票を入れます」


 料理教師が続けた。「噛むたびに味が変わる料理に三戦通じて出会いました。パン、肉、甘味——全てに共通するのは『時間』です。この料理人は時間を味方につけている」


 商人が首を振った。「俺はマティアス殿に入れた。完成度が違う。——だが、アネリーゼ殿のタルト、もう一切れ食べたかったのは事実だ」


 ——もう一切れ食べたい。


 それが、アネリーゼの料理の本質だった。「もう一口」を生む味。一口目の衝撃ではなく、二口目への渇望。




 大厨房を出る時、エルマーが入り口の柱から離れた。


「……勝ったな」


「はい」


「タルト。俺にも食わせろよ」


「——残りが一切れだけ、あります」


「十分だ」


 宿に戻って、最後の一切れを皿に載せた。エルマーに差し出す。


 エルマーが食べた。三口で。


 何も言わなかった。皿を置いて、鼻の頭を擦った。


「……不味くはない」


 ——それで十分だった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第二戦、アネリーゼの勝利です。学者を味方につけたのが決め手でした。「自己消化酵素によるアミノ酸生成は、現在の魔法技術では再現できない」——科学者として、再現不可能な現象には票を入れざるを得ない。これは理屈の勝利です。


燻製肉の断面を「赤と褐色の同心円」と表現しましたが、実際の燻製肉の断面はまさにこの通りで、「スモークリング」と呼ばれる現象です。一酸化窒素がミオグロビンと結合して赤い層を残す。ファンタジー世界ですが、科学は本物です。


マティアスの最後の台詞「それは魔法ではない」——ここに彼の揺らぎが始まります。魔法で全てを再現できると信じてきた男が、魔法では再現できない現象に初めて直面した。


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