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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第21話: 発酵は生き物の仕事

 壺の蓋を開けた瞬間、アネリーゼの指が止まった。


 匂いがない。


 昨夜仕込んだチーズの壺だ。半日もすれば、乳酸菌が活動を始めた証拠——ほのかな酸味を帯びた匂いが立ちのぼるはずだった。鼻を近づける。ミルクの甘い匂いはある。だがその奥にあるべきもの——微生物が生きて働いている気配が、まるでない。


 死んでいる。


 アネリーゼの背筋を冷たいものが走った。壺の中の白い液体は、昨夜と同じ姿のまま微動だにしていない。表面に気泡ひとつない。温度は——指を浸けた。冷たくもなく、熱くもない。適温だ。条件に問題はないはず。


 なぜ。


 隣の壺を開けた。漬物の仕込み壺。こちらも同じだ。野菜が塩水に浸かっているだけ。発酵の兆しがない。乳酸菌が動いていれば、もう小さな泡が出ているはずの時間だった。


 三つ目の壺。酵母スターターの継ぎ足し用。蓋を取った瞬間、アネリーゼの手が震えた。


 スターターが沈黙している。


 本来なら壺の中はゆるやかに泡立ち、かすかに果実のような香りを放っているはずだ。千年の眠りから覚めた酵母が、毎日粉と水をもらって静かに息をしている——あの心地よい気配が消えていた。表面はのっぺりと平らで、匂いは粉と水のまま。まるで最初に戻ったかのような。


「……ルッツ」


 声が低くなった。自分でもわかった。




 畑の端で薪を割っていたルッツが、呼ばれて小屋に駆けてきた。


「師匠、どうしたっすか」


 ルッツの顔を見た。いつもの屈託のない表情。だが——目が泳いでいる。ほんのわずかに。アネリーゼは何年も厨房で人を見てきた。後ろめたさを隠しきれない人間の目の動きを、見誤ることはない。


「昨夜、壺に何かしましたか」


 ルッツの喉仏が動いた。


「……何かって」


「ルッツ」


 アネリーゼは壺の前に立ったまま、視線を外さなかった。問い詰めるつもりはなかった。ただ——答えを聞かなければならなかった。


 ルッツが俯いた。黒髪が額にかかる。ぼさぼさの髪の奥で、焦げ茶色の目が揺れていた。


「……すみません」


 声が小さかった。


「魔法を、使いました」


 アネリーゼの心臓が、一拍だけ重く打った。


「発酵を、早くしようと思って」ルッツは俯いたまま続けた。「あの——加速魔法っす。食堂にいた頃、煮込みの時間を短縮するのに使ってた魔法で。あれなら発酵も早くなるって——」


「何時間の加速をかけましたか」


「……十二時間分を、三十分に」


 十二時間を三十分。四十倍の加速。


 アネリーゼは目を閉じた。壺の中で何が起きたか、すぐにわかった。加速魔法は時間の流れそのものを歪める——だがそれは物理的な時間であって、微生物の命のリズムではない。酵母も乳酸菌も生き物だ。四十倍の速度で代謝を強制されれば、細胞が壊れる。熱が急激に上がり、自分自身の生んだ酸に溺れ、一瞬で死ぬ。


 殺されたのだ。善意で。


「なぜ……」ルッツの声が震えていた。「早くなると思ったのに。なんで——動いてないんすか。なんで匂いがしないんすか」


 アネリーゼは壺の中をもう一度見た。白い沈黙。千年の眠りを越えて蘇った微生物たちが、この壺の中で営々と働いていた。毎日、粉と水を与え、温度を見守り、布をかけて風を防いだ。それが——一晩で沈黙した。


 怒りが込み上げた。


 だがそれはルッツに向けたものではなかった。この世界の構造に対する怒りだった。魔法で何でも早くできるという常識。時間をかけることは非効率だという価値観。それが八百年かけてこの世界から微生物を殺し尽くした。ルッツは悪くない。この世界が教えてきたことに従っただけだ。


 だから——ここで怒っても何も変わらない。


 アネリーゼは息を吐いた。長く、ゆっくりと。怒りを肺の底に沈めた。


「ルッツ。座りなさい」




 二人は壺の前に並んで座った。


 アネリーゼは沈黙した壺に手を置いた。まだほのかに温かい。死んだ微生物の最後の体温だった。


「発酵は、生き物の仕事です」


 静かに言った。


「この壺の中には、何千億という酵母がいました。一つ一つが——息をして、食べて、増えて、死ぬ。生きている。その営みが、味になる」


 ルッツは膝の上で拳を握っていた。


「魔法で時間を縮めることはできます。煮込みの温度を上げるように、反応を加速させることは——物理の話なら可能でしょう。でも発酵は物理じゃない。生き物の営みです。四十倍の速度で生きろと命じられた酵母は——自分自身の代謝に押しつぶされて死ぬ」


「……殺したんすか。俺が」


「ええ」


 嘘をつく必要はなかった。


「酵母も、乳酸菌も。この壺の中で育っていた全ての微生物が、魔力に耐えられずに死にました」


 ルッツの肩が震えた。拳が白くなるほど握り締められている。


「すみません……すみません、師匠。俺——ただ、早く味見してほしくて。師匠が忙しそうだから、俺にできることを——少しでも——」


 声が途切れた。ルッツは頭を下げた。額が膝につくほど深く。


 アネリーゼはルッツの頭のてっぺんを見た。ぼさぼさの黒髪。エプロンだけは真っ白に洗っている——それがこの青年の料理への敬意だった。善意だったのだ。間違いなく。


「ルッツ。顔を上げなさい」


 ルッツが顔を上げた。目が赤い。


「魔法が悪いのではありません。魔法を使うことが罪だとも思いません。ただ——」


 アネリーゼは壺の縁を指でなぞった。


「——魔法じゃ、代われないものがある。時間をかけることが、味を作る。三日間ゆっくり発酵した酵母が生む有機酸と、アルコールと、何百種類もの微量な風味成分。それは三十分では生まれない。十二時間でも足りないかもしれない。三日かけて、酵母が自分のペースで息をして、食べて、代謝して——その全部が、パンの味になる」


 ルッツが唇を噛んだ。


「せっかちは……俺の悪い癖っす」


「知っています」


 アネリーゼは微笑んだ。自分でも驚くほど穏やかに。


「私も宮廷にいた頃、何度も同じ間違いをしそうになりました。周りの料理人が魔法で二時間の仕事を終えている横で、私だけが三日待っている。焦るんです。『なぜ自分だけこんなに遅いのか』と。でも——三日目の朝に生地が膨らんでいるのを見ると、それだけで全部許せた」


「……許せた?」


「時間が答えをくれるんです。待つことは何もしていないことじゃない。待っている間、酵母が働いている。乳酸菌が働いている。私たちの目には見えないだけで——何千億の命が、黙って味を作っている」


 風が小屋の隙間を鳴らした。秋の終わりの冷たい風。


「壺は——また仕込み直せばいい。スターターの母壺はまだ生きています。あの子たちがいる限り、やり直せる」


 ルッツが目を見開いた。


「母壺は——大丈夫なんすか」


「ええ。母壺には魔法をかけていないでしょう?」


「……継ぎ足し用の壺だけっす。師匠の母壺には触ってない」


「なら大丈夫。母壺から分けて、また育てます。三日もすれば元に戻る」


 ルッツの肩から力が抜けた。長い息を吐いた。


「師匠。俺——もう二度と、発酵に魔法は使わないっす」


「いい約束です」


「壺の仕込み直し、俺にやらせてください」


「もちろん。でもまず——母壺にごはんをあげましょう。粉と水を。お腹を空かせているかもしれない」


 ルッツが立ち上がった。目がまだ赤い。だが——その奥に、さっきとは違う光があった。




 午後。


 母壺から分けた酵母を新しい壺に移し、粉と水を加えた。布をかけ、窓辺に置いた。リーナが最初に見つけた堆肥の温もりの近くに。


「三日後には泡が出るはずっす」


「ええ。焦らないこと」


「焦らない。……三日。三日待つっす」


 ルッツは壺に向かって頷いた。壺に頷くのはアネリーゼの癖だった。いつの間にか弟子に伝染していたらしい。




 冬の足音が、日に日に近づいていた。


 木の葉が赤く燃え、朝の空気に霜の匂いが混じる。畑の黄金麦は二期作目の穂を垂れ始めていたが、収穫を急がなければ最初の霜にやられる。


 ハンスが夕刻、畑の端にやってきた。杖をつきながら、棚に並んだ壺を一つ一つ眺めた。


「あんた。冬は越せるのか」


「数えてみましょう」


 アネリーゼは指を折った。


「漬物が六壺。うち二壺は三ヶ月以上熟成が進んでいます。バターが保存用に四つ。チーズが——半分の成功のものが三つ。燻製肉が小屋に吊るしてあるものが二十本。パン用の黄金麦粉は——あと三十回分は焼けます。酵母スターターが生きている限り、パンは焼き続けられる」


「……ほう」


 ハンスは壺の一つを指先で叩いた。陶器が低い音を立てた。


「半年前、あんたが来た時は——パン一つ焼けなかった」


「ええ。種が一粒も芽を出さなかったら、私は今頃どうしていたでしょう」


「知らん。だが——」


 老人は顔を上げなかった。壺の縁を見つめたまま、呟いた。


「この村に冬の備蓄があるのは、何十年ぶりかわからん。魔法食品の配給に頼り切りじゃった。配給が止まれば——一週間で飢える村だった」


 アネリーゼの胸が痛んだ。配給に依存する構造。保存魔法が切れれば食品は即座に腐る。自然の保存技術を持たない脆さ。——それがこの世界の現実だった。


「漬物も、燻製も、チーズも——保存魔法がなくても冬を越せる食品です。塩と乳酸菌が雑菌を抑え、燻煙が表面を殺菌し、低温が熟成をゆっくり進める。魔法の代わりに——時間と微生物が、食べ物を守ってくれる」


「時間と、目に見えないちっこいもんがな」


 ハンスは鼻を鳴らした。まだ微生物を完全には信じていない顔だ。だが壺を叩く指は丁寧だった。




 エルマーが、夕陽の中を歩いてきた。


 肩に二期作目の黄金麦の束を担いでいる。刈り入れを手伝ってくれていたのだ。頼んでいないのに。


「最後の一列だ。霜が降りる前に全部刈り終わった」


「……ありがとうございます、エルマーさん」


 エルマーは麦の束を小屋の壁に立てかけ、鼻の頭を擦った。


「礼はいらん。——暇だったからな」


 暇だったからな。それがこの人の照れ隠しだと、もう知っている。燻製小屋を一人で建てた日もそう言った。堆肥区画を夜通しで広げた日もそう言った。行動で示して、言葉で引っ込める。


 エルマーの手を見た。日焼けした大きな手。節くれだった指に麦の穂がひとひら貼りついている。その手が、今日もこの村のために動いていた。


「二期作目は一期よりやや粒が小さいっすね」


 ルッツが麦の穂を取って転がした。


「秋蒔きだから日照が足りなかったのでしょう。でも十分です。この量なら——冬の間、週に二回はパンが焼ける」


「週二回か。市はどうする」


 エルマーの問いに、アネリーゼは考えた。


「冬の間は月に二回に減らしましょう。食材が限られますし、遠方からの客も減る。春まで守りに入ります」


「守り……か」


 エルマーの視線が、街道の方角に向いた。代官が帰っていった方角だ。


「あの灰色のローブの件、まだ気になっている」


「ええ。私も」


 二人の間に、一瞬だけ重い空気が流れた。先日の代官の訪問以来、街道を行く旅人の中に灰色のローブを見かけたという話が、村人の間で囁かれていた。


 だがアネリーゼは首を振った。


「今できることは——備えること。品質を上げ、記録をつけ、食べ物を守る。それだけです」


「あんたはいつもそうだな。目の前のことしか見ない」


「食べ物は目の前にしかありませんから」


 エルマーが小さく息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか。顔を背けたので表情は見えなかった。




 翌朝。


 リーナが息を切らせて駆けてきた。


「おねえちゃん! フリッツのおじちゃんが来てる! 手紙持ってるよ!」


 行商人フリッツは、広場の井戸の前に馬を繋いでいた。週に一度パンを買い付けに来る顔馴染みだ。だが今日は買い付けの日ではない。


「やあ、アネリーゼ殿。ダルムからの急ぎの便だ」


 フリッツが差し出したのは、蝋で封をした封書だった。厚手の羊皮紙。封蝋の刻印は——銀の皿に魔法陣を重ねた意匠。


 魔法料理ギルドの紋章だ。


 指先が冷たくなった。ハンスが杖をついて近づいてきた。ルッツが小屋から飛び出してきた。


「師匠、それ——」


「魔法料理ギルドからです」


 アネリーゼは封を切った。


 羊皮紙を開く。流麗な筆致。正式な文書の書式。


 ——ダルム魔法料理ギルド本部より、辺境フィールデン村在住アネリーゼ・フォン・ヴァイスガルテン殿へ。


 心臓が速くなった。一行ずつ目が追う。


 ——貴殿の調理技術に関し、当ギルドは高い関心を有しております。つきましては、当ギルド本部にて技術交流会を開催し、貴殿の参加を正式にお招きしたく——


 技術交流会。名目はそうなっている。だが行間を読めば——


「呼び出し、だな」


 エルマーの声が背後から聞こえた。いつの間にか来ていた。アネリーゼの手元を覗き込んでいる。


「技術交流会って書いてあるっすけど——」ルッツが眉を寄せた。


「名目だ。ギルドが辺境の料理人を招くなんぞ聞いたことがない」ハンスが杖で地面を突いた。「これは品定めか、さもなくば——」


「潰しに来る前の礼儀作法、ですね」


 アネリーゼは手紙を閉じた。


 息を吸った。吐いた。指先の冷たさが引かない。


 だが——。


 怖いのではなかった。代官が来た時に感じた不安とは違う。今、胸の中にあるのは——もっと硬いもの。


 発酵は生き物の仕事だ。時間をかけることが、味を作る。それを否定されるなら——味で証明するしかない。


 宮廷を追い出された日も、そう思った。味で証明しようとした。あの日は失敗した。皿は下げられ、帳簿だけが残った。


 だが今は違う。あの日と決定的に違うことがひとつある。


 ——パンを食べて泣いた人がいる。


 この村で焼いたパンを頬張って、目を見開いて、笑顔になった人たちがいる。「帰り道を忘れそうになった」と言った商人がいる。漬物を食べて「酸っぱい」と吐き出した旅人が、三切れ目を自分で取った。代官ですら、舌は正直だった。


 この味は——間違っていない。


「行きます」


 声が出ていた。自分でも驚くほど、静かに。


「行くんすか!?」


「ええ。行きます。呼ばれたなら——行って、食べさせます」


 ハンスが目を細めた。


「覚悟はあるのか」


「あります。——覚悟というより」


 アネリーゼは手紙を畳んでエプロンのポケットにしまった。


「……味を知ってほしいだけです。ギルドの人にも。代官のヴィルヘルムさんにも。魔法料理がどうとか、規則がどうとかじゃなく——ただ一口、食べてほしい」


 リーナがアネリーゼの袖を引いた。


「おねえちゃん。帰ってくるよね?」


「帰ってきます。約束します」


 ルッツが拳を握った。


「俺も行くっす! 師匠一人じゃ——」


「ルッツは残りなさい。壺の面倒を見てくれる人がいないと困ります。三日後に新しいスターターが目覚めるでしょう? あの子たちを頼みます」


 ルッツが口を開きかけ、閉じた。壺の中の微生物のことを——昨日殺してしまった微生物のことを思い出したのだろう。拳を震わせて、頷いた。


「……わかったっす。壺は俺が守るっす」


「ありがとう」


 アネリーゼは広場を見渡した。秋の終わりの風が吹いている。黄金麦の株が刈り取られた畑。燻製小屋から細い煙が上がっている。棚に並んだ壺たち。


 この半年で、何もなかった荒れ地に——これだけのものが生まれた。


 視線がエルマーの方に向いた。


 エルマーは壁に背を預けたまま、腕を組んでいた。何も言わない。表情も変わらない。ただ——琥珀色の目がじっとアネリーゼを見ていた。


「エルマーさん」


「ああ」


「畑と壺を——お願いできますか」


 エルマーは腕を組んだまま、長い沈黙を置いた。


「……頼まれたからやるんじゃない」


 ぶっきらぼうに言って、視線を外した。鼻の頭を擦った。


「あんたが戻ってくるまで、畑は俺が見てる。——いつも通りだ」


 いつも通り。その言葉が、思いのほか温かかった。


 風が吹いた。手紙の角がポケットの中でかさりと鳴った。


 ——不思議だった。


 ギルドからの招待状を読んだ瞬間、最初に浮かんだ顔がある。ギルドの長でも、マティアスの銀髪でも、父の厳しい横顔でもなかった。赤毛の青年が鼻の頭を掻いている顔が、真っ先に浮かんだ。


 なぜだろう、とは思わなかった。思わないことにした。今は——考えるべきことが他にある。


 空を見上げた。秋の空は高く、薄い雲が東に流れている。東——ダルムのある方角。


 風がもう一度吹いた。燻製の桜の香りと、畑の土の匂いと、遠くからかすかにパンの酵母の匂いが混じった。フィールデンの匂いだ。味の聖地の匂い。


 この匂いを背負って、行く。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


この話を書くのが一番辛かったです。ルッツは悪い奴じゃないんです。むしろ善意でやっている。税の問題を何とかしたくて、師匠の負担を減らしたくて。でもその善意が、見えない生き物たちを殺してしまう。


「魔力は微生物を死滅させる」というこの世界のルールは、現実世界の「殺菌消毒は微生物を殺す」と裏表です。私たちも日常的に除菌スプレーやアルコール消毒で微生物を殺しています。それ自体は衛生管理として正しい。でもぬか床に除菌スプレーをかけたら? パン生地にアルコール消毒液を垂らしたら? ——発酵食品は「生きた菌との共同作業」なので、殺菌と正反対のことをしなければならない。この矛盾が、ルッツの失敗に重なります。


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