第22話: 旅立ちの朝
まだ暗いうちに、台所の壺が鳴った。
アネリーゼは薄い毛布を剥いで半身を起こした。冷たい空気が首筋を刺す。石の壁の隙間から、明け方の風が忍び込んでいる。十一月の朝だ。霜の匂いがする。
壺が鳴ったのではない。風が壺の口を撫でて、低い音を立てただけだ。だが——その音で目が覚めた。出発の朝だと、身体が知っていた。
小屋を出ると、畑に霜が降りていた。
黄金麦の刈り株が白く光っている。吐く息も白い。まだ太陽は丘の向こうにある。空は藍色で、東の端だけが薄く赤みを帯びていた。
石窯に火を入れた。最後のパンを焼くためだ。
ダルムへ持っていく食材は昨夜のうちに選び終えていた。黄金麦の粉。母壺から分けた酵母スターター。翡翠の塩。乾燥ハーブ。蜜林檎の果実酢。——自分の手で育て、自分の手で加工した食材たち。これが武器だ。
パン生地はすでに三日間の発酵を終えている。昨日の朝に仕込みを始めたものだ。出発に合わせて焼き上がるよう、逆算して準備した。
石窯の中に薪を組み、火をつける。炎が石壁を舐め、蓄熱が始まる。あと一時間で焼ける温度になる。
空が白み始めた頃、広場に人影が見えた。
最初に来たのはカタリナ婆さんだった。
「持っておいき。道中の干し肉だ」
布に包んだ燻製の肉片を押し付けるように渡してきた。次にペーター爺さんが来て、羊毛の靴下を差し出した。
「ダルムは石畳だ。足が冷える」
「ペーターさん……ありがとうございます」
ラウラが小瓶を抱えてきた。蜂蜜だ。
「昨日、崖のところの巣から採ったの。少ないけど」
一人、また一人と、村人たちが朝もやの中を歩いてきた。誰に頼んだわけでもない。手に何かを持って、黙ってアネリーゼの前に並ぶ。干した果物。防寒用のショール。木炭を包んだ布。
アネリーゼは一つ一つ受け取った。手が震えた。寒さではなかった。
半年前、この村に着いた日のことを思い出した。馬車から降り立った時、誰の目にも警戒の色があった。井戸で水を汲もうとしたら背を向けられた。荒れ地を指さされ、「勝手にやれ」と言われた。
——今、同じ人たちが、道中の食べ物を持って来てくれている。
「皆さん。私——」
言葉が詰まった。泣きたいのではない。胸の中がいっぱいなのだ。こういう時、何と言えばいいのか知らなかった。宮廷では誰も見送りに来なかった。追放の馬車には母の薬草手帳しか積んでいなかった。
「礼はいらん」
カタリナ婆さんが片手を振った。
「あんたのパンが食えなくなるのが困るんだ。さっさと勝って帰ってきな」
パンが焼けた。
石窯から取り出した三日発酵のサワードウは、黄金色の皮をまとっていた。割ると湯気が立ち、酸味を帯びた温かい香りが広がった。焼きたてのパンの匂い。フィールデンの匂い。
半分は道中の食糧に。もう半分は村に置いていく。
棚の壺を一つ一つ確認した。漬物の熟成壺。チーズの壺。母壺。スターターの分壺。——全部、留守の間も世話が必要だ。
「師匠。任せてくださいっす」
ルッツが小屋に来ていた。目の下に隈がある。昨夜、眠れなかったのだろう。
「壺の温度管理を頼みます。朝と夕方に必ず確認して。漬物の三号壺は来週あたりが漬け替えの時期です。母壺への餌やりは——」
「朝に粉と水を同量。わかってるっす」
「ルッツ」
アネリーゼはルッツの目を見た。焦げ茶色の瞳に、不安の色がある。
「あの子たちは——あなたを信じています。壺の中の酵母も、乳酸菌も。魔法ではなく、あなたの手と時間で育てたもの。だから——大丈夫」
ルッツが唇を引き結んだ。何か言いかけて、飲み込んで、代わりに小さな壺を差し出した。
「これ……予備のスターターっす。母壺から昨夜分けて、もう一つ作っといたっす。師匠がダルムで使えるかと思って」
手のひらに収まる小さな陶壺。蓋を布で縛ってある。中から、かすかに酸味のある匂いが漏れている。生きている匂い。
「——ありがとう、ルッツ。大事に連れていきます」
「味で黙らせてきてくださいっす」
ルッツの声が震えていた。拳を握っている。だがその目は、もう泣いていなかった。
出発は朝の七鐘と決めていた。フリッツの行商馬車に便乗してダルムへ向かう。馬車で丸一日。夕刻にはダルムに着く。
ハンスが杖をつきながらやってきた。広場の井戸の前で立ち止まり、アネリーゼを見上げた。
「勝てるのか」
「わかりません」
「ふん。正直な娘だ」
老人は懐から何かを取り出した。小さな布袋。開けると、翡翠色の粒が光っている。翡翠の塩だ。
「エルマーの親父が遺した最後の壺の底にあった分じゃ。上等のやつだ。使いなさい」
「村長さん……これは」
「パンは嘘をつかん。あんたのパンもな」
ハンスはそれだけ言って、背を向けた。杖の音が石畳に響いて遠ざかっていった。
リーナが走ってきた。
息を切らせて、手に花を握りしめている。朝露に濡れた野の花——名前の知らない、小さな白い花だ。
「おねえちゃん! お守り!」
「リーナ。こんな朝早くに——」
「丘の上で摘んできたの。おばあちゃんが言ってた。白い花を持ってると旅が安全だって」
カタリナ婆さんの言い伝えだろうか。アネリーゼは花を受け取った。冷たい指先に、花弁の柔らかさが触れた。
「ありがとう。大事にしますね」
「おねえちゃん。絶対帰ってきてね」
「約束します」
「……ダルムのパン、一色なんでしょ。おねえちゃんのパンのほうがずっと美味しいのに」
リーナの目がまっすぐだった。十三歳の瞳に、複雑なものは何もない。ただ信じている。アネリーゼのパンが正しいと。
花をエプロンのポケットにそっと入れた。手紙の隣に。
馬車の準備が整った。フリッツが馬の具合を確かめている。
食材の入った木箱を荷台に積み込んだ。ルッツの予備スターター壺は膝の上に置くことにした。揺れで割れないように。
広場に人が集まっていた。見送りだ。こんなに大勢が早朝に起きている。カタリナ婆さんが腕を組んでいる。ペーター爺さんが帽子を脱いでいる。ラウラが手を振っている。リーナがハンスの隣にいる。ルッツが壺を抱えて立っている。
一人、いない。
赤い髪が見えない。
「さあ、出発だ。日が暮れる前にダルムに着きたいからな」
フリッツが御者台に座った。アネリーゼは荷台に乗り込んだ。
——まだ来ない。
手綱が鳴った。馬が前脚を踏み出した。
「待ってくれ」
声が聞こえた。
広場の角から、エルマーが歩いてきた。早足でもない。走ってもいない。いつもと同じ歩幅で、腕を振らず、肩に何かを提げて。
「エルマーさん」
アネリーゼは荷台から身を乗り出した。
エルマーが馬車の横に立った。日焼けした顔。赤い短髪。琥珀色の目。袖を肘まで捲った太い腕。——十一月の朝だ。寒くないのだろうか。
エルマーは布に包んだものを差し出した。
「……これ」
受け取った。ずしりと重い。布を開けると、黄金色をした塊が現れた。燻製チーズだ。桜チップで燻したもの。あの燻製小屋で——エルマーが一人で建てた小屋で、最初に作ったチーズ。
「いつ作ったんですか、これ」
「……別に。余ってたから」
余っていたから。嘘だ。チーズの熟成には時間がかかる。この大きさなら最低でも二週間。ギルドの招待状が届いた日から仕込み始めなければ間に合わない計算だ。
——計っていたのだ。この人は、招待状が届いた日から。何も言わず、聞かず、黙ってチーズを仕込んでいた。道中の食糧に、と。
「エルマーさん——」
「……気をつけろ」
短い言葉だった。それだけだった。鼻の頭を擦って、目を逸らした。
アネリーゼは燻製チーズを胸に抱いた。桜の香りがした。煙と乳と塩の混じった、深い匂い。
「行ってきます」
自分の声が震えた。なぜ震えるのかわからなかった。怖いのではない。寂しいのとも違う。ただ——この三つの言葉を、この人に言いたかった。宮廷を追われた日、「行ってきます」を言える相手は一人もいなかった。
エルマーは返事をしなかった。
もう背を向けていた。
広場を横切って、畑の方角に歩いていく。赤い髪が朝陽に光った。十一月の低い陽射しが、その背中を照らしている。大きな背中だ。肩幅が広くて、少し猫背で、袖を捲った腕が歩くたびに揺れている。
振り返らなかった。
馬車が動き出した。
石畳の振動が荷台を揺らす。村の家々がゆっくりと後ろに流れていく。井戸。カタリナ婆さんの家。ハンスの家。エルマーの家。——その先に、畑が見える。
「初めてのダルムかい?」
フリッツが振り返らずに聞いた。
「ダルムの街自体は通ったことがあります。王都へ向かう途中に」
「そうかい。じゃあ知ってるだろうが、あの街は魔法料理の本場だ。俺がパンを売り歩く先でも、ダルムだけは売れない。向こうの魔法パンのほうが見栄えがいいからな」
「……でしょうね」
「ただ——」フリッツが馬の手綱を軽く引いた。「味は別だ。俺はあんたのパンのほうが好きだ。噛むほどに違う味がする」
「ありがとうございます」
「それとな。一つ気をつけたほうがいい。ダルムの魔法料理ギルドには——ヴァイスガルテン伯爵の知り合いが何人かいる。商人の間では有名な話だ」
アネリーゼの指が止まった。
「……父の」
「ああ。伯爵家は昔からギルドの後援者だったらしい。顔の利く人間が向こうにいるってことだ」
エプロンのポケットの中で、手紙の角が指に触れた。マルガレーテからの手紙。黒い封蝋。
——そうだ。昨夜、もう一通の手紙を読んだのだった。
昨夜。
荷造りを終えた深夜、フリッツが「もう一通ある」と差し出した封書。黒い蝋で封がされていた。見覚えのある筆跡。細く丁寧な文字。
マルガレーテからだった。
——お姉さま。ダルムの技術交流会のこと、噂が届きました。
——どうかお気をつけください。ダルムにはお父さまの知り合いがいます。
——お父さまがどうお考えかは、私にはわかりません。ただ——ダルムには、ヴァイスガルテン家の名前が通じる場所があります。それが良いことなのか悪いことなのか、私にはまだ判断できません。
——お姉さま。どうかご無事で。
手紙は短かった。前回より短い。だが——黒い封蝋が気になった。普通の手紙に黒い蝋は使わない。喪に服す時か、警告の時だ。
マルガレーテは賢い子だ。言葉にできないことを、蝋の色で伝えようとしている。
——気をつけろ、ということだ。
妹の声と、あの人の声が重なった。「気をつけろ」。言い方は全く違う。だが込められているものは——。
馬車は街道を東に進んでいた。
フィールデンの丘が小さくなっていく。枝の歪んだ古木の影が遠くに見える。あの丘の向こうに、畑がある。壺が並んでいる。燻製小屋がある。石窯がある。
膝の上の壺が温かい。ルッツが分けてくれたスターター壺。中で酵母が静かに呼吸している。
布に包んだ燻製チーズの端を少し切った。口に含んだ。桜チップの燻香が舌の上に広がった。塩味。乳脂の甘み。その奥に、二週間の熟成が生んだ旨味が層になって現れる。
——美味しい。
エルマーが作ったのではない。アネリーゼが作り方を教え、エルマーが建てた小屋で、アネリーゼが仕込んだチーズだ。だがそれを「余っていた」と差し出すのは——あの人にしかできないことだ。
馬車が揺れた。街道の轍が深くなっている。フリッツが馬に声をかけた。
振り返った。
丘はもう見えなかった。平原が広がっている。東に向かう街道が、まっすぐに延びている。
振り返っても、もうフィールデンは見えない。
——なのに、目が探してしまう。
丘の稜線。畑の方角。赤い髪の人影。琥珀色の目。鼻の頭を擦る癖。背を向けて去っていくあの歩き方。
もう見えるはずがないのに。
「どうした? 忘れ物か?」
フリッツが聞いた。
「——いいえ。何でもありません」
前を向いた。
ダルムは東にある。魔法料理ギルドの本部がある街。父の名前が通じる街。マティアスのいる街。
膝の上のスターター壺を、少しだけ強く抱いた。酵母が生きている。ルッツが壺を守っている。リーナの花がポケットにある。ハンスの翡翠の塩が荷物の中にある。カタリナ婆さんの干し肉がある。
そしてエルマーの燻製チーズが——まだ舌の上に、温かい。
馬車が揺れるたびに、また振り返りそうになった。
振り返らなかった。
でも——右手がポケットの中で、リーナの花とマルガレーテの手紙の間を行き来していた。花弁の柔らかさと、羊皮紙の硬さ。フィールデンとダルム。残してきたものと、向かう先。
太陽が昇っていた。十一月の陽は低く、影が長い。馬車の影が街道に延びて、東を指している。
東に向かう。味で証明しに。
けれど——背中に、フィールデンの匂いが残っている。燻製の桜の香り。パンの酵母の匂い。霜の降りた畑の土の匂い。
それと——あの「気をつけろ」の声が、まだ耳の奥にある。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
Arc3「料理戦争編」、スタートです。
エルマーの「……気をつけろ」は、キャラクターシートに例文として載っている台詞なんですが、実際にこの場面で書いてみると、たった五文字でこんなに重くなるのかと自分でも驚きました。この人は本当に言葉が少ない。少ないからこそ、一言の密度が高い。それに対してアネリーゼの「行ってきます」——宮廷を追われた日には言えなかった六文字を、今この人に言えるということの重さ。書きながら、ああこの二人の距離はこの半年でここまで来たんだなと感じました。
燻製チーズの伏線、お気づきでしょうか。あの大きさのチーズは最低二週間の熟成が必要です。つまりエルマーは招待状が届いた日から黙って仕込んでいた。「余っていたから」は嘘です。この人はいつもそう。行動で全部を語って、言葉で引っ込める。
マルガレーテの手紙の黒い封蝋——ここは密かにこだわったディテールです。中世ヨーロッパの封蝋文化では、黒は喪服と警告の色。妹は「気をつけて」と書いているけれど、蝋の色でもう一段強い警告を発している。賢い子です。
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