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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第20話: 燻製小屋

 秋の空が高い。


 市の翌朝、アネリーゼは小屋の棚を整理しながら考えていた。酵母スターター、果実酢、漬物、バター、チーズ——壺が増えた。だがまだ足りない。保存の技術が、根本的に足りない。


 ハンスの言葉が耳に残っている。「目立つなら、目立った分だけ守りを固めろ」。


 守りとは何か。市場の評判は嬉しい。人が来る、声が増える、金が入る。だが冬が来れば街道は凍り、客の足は止まる。バターは寒さで固まっても腐らないが、チーズの熟成は温度管理が難しい。漬物は塩の備蓄次第で限界がある。


 ——保存食が、もっと必要だ。


「師匠、考え事っすか」


 ルッツが薪を抱えて入ってきた。


「ルッツ。燻製という技術を知っていますか」


「くんせい?」


「煙で食べ物を燻す。煙の中の成分が表面に浸透して、殺菌と脱水を同時に行う。古文書には『煙の衣を纏わせた肉は、冬を三つ越えた』と書かれています」


 アネリーゼは古文書の頁を広げた。読み慣れた乳加工の頁をめくり、その先——肉と魚の保存術の章を開く。


 ——肉を塩に漬け、風に晒し、しかる後に煙のむろに吊るすべし。木は桜を上とし、ならをこれに次ぐ。松は脂多くして苦味を移す、用うべからず。煙は低く、緩やかに。けば表は焦げて中は生。三日を費やせば肉は琥珀の色に染まり、噛めば煙の香りが鼻に抜けて甘し。


「三日間も煙で燻すんすか」


「そう。燻製は発酵と同じで、時間が味を作る。煙の中のフェノール化合物が肉の表面に浸透して殺菌し、タンパク質と結合して独特の風味を生む。同時にゆっくりと水分が抜けるから、雑菌が繁殖できなくなる」


「すごいっすね。でも——」


 ルッツは小屋の中を見回した。


「煙の室って——どこでやるんすか」


 アネリーゼも見回した。畑の端の小屋、石窯、堆肥の山。煙を閉じ込める密閉空間が、どこにもない。石窯は焼くためのもので、煙を出す構造だ。煙を逃がさず、低温で長時間燻すための小屋——それは新しく建てなければならない。


「……設備が足りません」


 呟いた。


 木材が要る。石が要る。煙突の設計。排煙口の位置。温度を一定に保つための壁の厚さ。食材を吊るすための梁。


 頭の中で設計図を描きかけたが、すぐに手が止まった。アネリーゼは料理人であって大工ではない。壺や棚は作れるが、建物は——無理だ。


「商人のフリッツさんに頼めば、ダルムから職人を呼べるかもしれないっすけど」


「金が足りない。それに職人を呼べば、また噂が広がる」


 昨夜の馬のシルエットを思い出した。見間違いかもしれない。でも——目立ちすぎることへの警戒が、胸の奥に刺さったままだった。


「……まず、設計だけ詰めておきましょう。材料と方法がわかれば、いつか——」


 そこまで言いかけた時、リーナが駆け込んできた。


「おねえちゃん! エルマーさんが変なことしてるよ!」




 畑の奥。石窯から二十歩ほど離れた場所に——エルマーがいた。


 朝日の中で、上半身の汗が光っている。袖を肘まで捲り上げた腕が、斧を振り下ろしていた。切り倒された丸太が三本。すでに皮を剥かれた角材が地面に並んでいる。


 石の土台が組まれていた。四隅に角材を立て、横木で繋ぎ始めている。大きさは——人が二人入れるくらいの、小さな小屋の骨組み。


「エルマーさん」


 アネリーゼは声をかけた。エルマーは斧を止めず、振り下ろしてから顔を上げた。


「……何を、しているんですか」


「見ればわかるだろ」


「見てもわからないから聞いています」


「小屋を建ててる」


「それは見ればわかります。なぜ——」


 言葉に詰まった。エルマーの足元を見た。角材の横に、粘土を練ったものが桶に入っている。石の隙間を埋めるための目地材だ。煙を逃がさないための——。


「……燻製小屋?」


 エルマーは鼻の頭を擦った。


「昨日の夜、ルッツがうちに来て、師匠が燻製をやりたがってるけど設備がないって騒いでた」


 ルッツを振り返った。ルッツが目を逸らした。


「師匠、俺は何も——」


「言ったんだろ」


「……言ったっす。でもエルマーさんに建ててくれとは言ってないっす! ただ愚痴っただけで——」


「頼まれてもいない」


 エルマーが斧を肩に載せたまま言った。声に力みはない。いつもと同じ、ぶっきらぼうな平坦さ。


「小屋の一つや二つ、半日で建つ。暇だからな」


「暇だから——」


「うちの畑は魔法農法で勝手に育つ。やることがねえんだ」


 その台詞を——何度目に聞いただろう。


 畑を耕してくれた時も。石窯を建ててくれた時も。荷台を作ってくれた時も。エルマーはいつもこう言う。暇だから。やることがない。頼まれたわけじゃない。


 でも——夜のうちに丸太を切り出して、朝一番から組み始めている。粘土まで練ってある。土台の石は、あの裏山から運んだものだ。一人で。夜のうちに。


「……頼んでないのに」


 声が掠れた。


「頼まれてもいない」


 エルマーは繰り返した。そして斧を振り上げ、次の丸太に打ち込んだ。


 アネリーゼは——何と言えばいいかわからなかった。


 胸の奥で、何かがきゅっと締まった。感謝とも違う。驚きとも違う。名前のつけられない感覚が、みぞおちの辺りに居座って動かない。


 リーナが袖を引いた。


「おねえちゃん。エルマーさん、すごく早起きしたんだよ。私が鶏に餌をあげに行く時にはもう——」


「リーナ。手伝おう。粘土を運んで」


 エルマーが言った。リーナは「うん!」と駆け出した。


 アネリーゼはその場に立ち尽くしていた。




 昼過ぎには、小屋の形が見えてきた。


 エルマーの仕事は早かった。角材の骨組みに板を張り、隙間を粘土で埋めていく。天井近くに横木を渡し、鉤を打ち込んだ。食材を吊るすための——。


「煙突はどうする」


 アネリーゼに聞いた。


「上に一つ、排煙口を。でも全開にすると煙が逃げすぎる。開閉できる蓋がほしいです」


「板を一枚、横にずらせるようにする」


「それで十分です。下の焚き口は——」


「もう作った。見ろ」


 小屋の側面、地面に近い位置に四角い開口部があった。ここから煙を送り込む。外側に小さなかまどを組めば、火を焚いて煙だけを小屋に誘導できる。


「……よく、わかりましたね。燻製小屋の構造なんて、見たことがないでしょうに」


「あんたが古文書を音読する癖があるからな。聞こえてんだよ、畑にいると」


 アネリーゼは口を開けた。閉じた。もう一度開けた。


「聞いて——」


「聞こえるもんは聞こえる。で——煙のむろってのはこういう形だろうと思った。違ってたら直す」


 違っていなかった。古文書の記述と、ほぼ一致していた。壁の厚さ、吊り梁の高さ、排煙口の位置。聞きかじりの知識だけで、ここまで正確に建てている。


 この人は——聞いていたのだ。畑仕事をしながら、アネリーゼが古文書を声に出して読むのを。黙って。何も言わず。ずっと。


「ルッツ」


「はい!」


「桜の木を探してきてください。枝でもいい。桜の木が一番いい煙を出す」


「了解っす! リーナちゃん、一緒に来て!」


 二人が駆けていった。


 小屋の前に、アネリーゼとエルマーが残った。エルマーは最後の板を打ちつけている。槌を振る腕に、木屑がついていた。節くれだった指が、器用に釘を押さえる。


「……ありがとうございます」


「礼はいらん。ただの小屋だ」


「ただの小屋じゃないです」


 声が強くなった。自分でも驚くほど。


「これは——私が何ヶ月もかけて、いつか建てようと思っていたものです。設計図も描けていなかった。材料の目処も立っていなかった。それを——一晩で」


「大袈裟だ」


 エルマーは鼻の頭を擦った。目を逸らしている。耳が赤い。


「……大袈裟じゃないです」


 アネリーゼは燻製小屋の壁に手を当てた。粘土がまだ湿っている。乾けばしっかり固まる。板の継ぎ目は隙間なく合わせてある。風が吹いても煙が漏れない。


 この人は、不器用な人だと思っていた。言葉が少なくて、何を考えているかわからなくて。でも——手の仕事は嘘をつかない。一枚一枚の板の合わせ方に、丸太の切り口の滑らかさに、この人がどれだけ丁寧に作ったかが——全部、見える。




 夕方、ルッツとリーナが桜の枝を抱えて戻ってきた。


「師匠! 裏山の沢沿いに桜がありました! 切っていいかわからなかったんで、落ちてる枝を拾ってきたっす」


「十分です。乾いた枝のほうがいい。水分が多い生木だと、煙が重くなる」


 桜の枝を鉈で短く切り、さらに斧で細かく割った。木片を手に取ると、断面からほのかに甘い香りが立つ。


「……いい香り」


「桜っすか? 木の匂いっすよね」


「この香りが、煙になって食材に移る。桜の煙は甘くて柔らかい。楢は重厚で力強い。松は——」


「苦味を移す、用うべからず」


 エルマーが言った。


 アネリーゼは振り返った。エルマーは小屋の入口に寄りかかって腕を組んでいる。古文書の一節を——そのまま暗唱していた。


「覚えて——」


「聞こえてたって言っただろ」


 ルッツが口をぽかんと開けた。リーナがくすくす笑った。


 アネリーゼは何も言えなかった。頬が熱い。古文書を声に出して読む癖を、恥ずかしいと思ったことはなかった。でも——聞かれていたと知ると、途端に恥ずかしくなる。




 日が傾き始めた頃、準備が整った。


 燻製にする食材は——半分のチーズ。先日成功した、カビの種類が違って予想以上に美味かったあの半分。フレッシュチーズのまま食べても美味いが、燻製にすれば香りが加わり、保存性も飛躍的に上がる。


「チーズを使うんすか? もったいなくないっすか」


「もったいなくないです。最初の燻製は最高の食材で試す。失敗したら——その時はまた作ればいい」


 チーズを麻紐で縛り、燻製小屋の梁の鉤に吊るした。小屋の中は暗い。入口の扉を閉めると、天井の排煙口から差す一筋の光だけになる。


 外の竈に桜のチップを入れた。火をつける。


 煙が立ち上がった。


 白い煙が焚き口から小屋の中へ流れ込んでいく。排煙口の蓋を半分だけ開ける。煙は小屋の中をゆっくりと満たし、天井に溜まり、吊るされたチーズを優しく包んだ。


「……この匂い」


 ルッツが鼻を動かした。


 桜の煙の香り。甘くて、柔らかくて、どこか懐かしい。焚き火の煙とは違う。木が持つ樹脂や糖分が熱で分解されて生まれる、複雑な芳香。バニラに似た甘さと、かすかな酸味と、奥にスパイスのような刺激がある。


「いい匂いだよ……」リーナが目を閉じた。「なんか——あったかい匂い」


「桜のチップに含まれるグアイアコールとシリンゴールが煙の甘い香りの正体です。さらにフェノール化合物がチーズの表面に付着して殺菌すると同時に——」


「師匠、説明は後でいいっす。今は——嗅いでいたい」


 アネリーゼは笑った。そうだ。今は、嗅ぐ時間だ。


 四人で燻製小屋の前に座った。煙突から立ち上る白い煙が、夕暮れの空に溶けていく。桜の甘い香りが風に乗って、畑を渡り、小屋の周りを包んだ。


 エルマーが隣にいた。腕を組み、背を壁に預けて、黙って煙を見上げている。


 この小屋を——この人が建てた。頼まれもしないのに。一晩かけて丸太を切り出し、朝から組み立て、昼過ぎに完成させた。アネリーゼが「設備が足りない」と呟いただけで——いや、呟いてすらいない。ルッツの愚痴を聞いただけで。


 言葉で「手伝おうか」と聞くことすらしない。ただ——朝、起きたら小屋がある。それがエルマーだ。


 この気持ちに、名前をつけられない。


 感謝は言った。でも感謝だけでは足りない。何が足りないのか——わからない。わからないまま、桜の煙の匂いを吸い込んだ。




 三時間後。


 日は完全に沈み、星が出ていた。焚き口の火は桜のチップの残り火で赤く光っている。


「そろそろ——開けてみましょう」


 燻製小屋の扉を開けた。


 煙が流れ出した。その奥に——琥珀色に染まったチーズが吊るされていた。


 表面が飴色に変わっている。フレッシュチーズの白さはもうない。桜の煙が三時間かけて表面に浸透し、薄い皮膜を作っている。手で触れると、わずかにべたつく。煙の成分が凝結した層だ。


「色が——変わった」


 ルッツが息を呑んだ。


「乳白色から琥珀色へ。煙のフェノール化合物がタンパク質と結合して、メイラード反応に似た褐変を起こしたの。パンの焦げ目と同じ原理——ただし、もっとゆっくりと」


 鉤から外した。まな板の上に載せ、包丁を入れた。


 断面は——外側が琥珀色の層、内側はクリーム色のチーズのまま。煙の浸透はまだ表面数ミリに留まっている。これが正しい。燻製は表面を守る技術であって、中身を変える技術ではない。


 薄く切った。


「……いただきます」


 口に入れた。


 舌の上で溶けた瞬間——鼻に抜けた。


 桜の甘い香り。チーズの乳の旨味。二つが絡み合って、口の中で渦を巻いている。噛むと弾力がある。フレッシュチーズの柔らかさに、煙の皮膜がわずかな歯応えを加えている。そして——後味。飲み込んだ後に、舌の奥に残る甘い余韻。これは桜のグアイアコールだ。煙が味になった。


「おいしい……」


 声が震えた。自分の料理に感動するのは恥ずかしい。でも——美味い。これは美味い。


「俺にも!」


 ルッツが一切れ取って口に放り込んだ。噛んだ。目が大きくなった。


「なん——これ——チーズっすよね? チーズなのに——煙の味がする! 噛むと甘くなる!」


「リーナも食べて」


 リーナが小さな一切れを口に入れた。ゆっくり噛んで——笑った。


「あったかい味がする。匂いと同じだ。あったかくて——やさしい」


 三人の反応を見て、アネリーゼは残りの一切れをエルマーに差し出した。


「食べてみてください」


 エルマーは黙って受け取った。口に入れた。


 噛んでいる。表情は変わらない。いつもと同じ、淡々とした横顔。


 飲み込んだ。


 小さく——頷いた。


 それだけだった。言葉は一つもない。


 でもアネリーゼは知っている。この人が頷いたなら——美味いということだ。「不味くはない」とすら言わず、ただ頷く。それがエルマーの最大の賛辞だ。


 目が合った。


 エルマーの琥珀色の目に、焚き火の残り火が映っている。暗い中で、その色がやけに温かく見えた。


「……いい小屋だろ」


「はい。——とても、いい小屋です」


 小屋の話をしているのか、チーズの話をしているのか。自分でもわからなかった。




 夜更けに、一人で燻製小屋の前に座った。


 ルッツとリーナは帰った。エルマーも「牛の様子を見る」と言って去った。


 残り火が赤い。桜のチップの最後の一片が、低く燻っている。


 母の薬草手帳を開いた。薬草園の管理の頁に、こんな記述があった。


「薬草は、育てた人に似る。丁寧に世話をされた薬草は、穏やかな薬効を持つ。放っておかれた薬草は、荒々しく効きすぎる」


 燻製も——似ているかもしれない。桜の木が何十年もかけて蓄えた成分が、煙になって食材に移る。木の歴史が、味になる。


 そして——この小屋。エルマーが一晩で建てた小屋。


 でも本当は一晩ではない。この人は——ずっと前から聞いていたのだ。アネリーゼが古文書を読み上げるのを。煙の室、桜を上とし、三日を費やせば——その全部を。聞いて、覚えて、黙って。そして設備が足りないと知った瞬間に——建てた。


 行動で示す人だ。言葉ではなく。


 あの「頼まれてもいない」が——耳の奥で何度も響いている。


 頼まれてもいない。つまり、自分で決めたということだ。アネリーゼのために。


 この気持ちに名前をつけられない。でも——胸の奥の、みぞおちの下あたりが、ずっとあたたかい。桜の煙を吸い込みすぎたせいだと——そう思うことにした。


 風が吹いた。


 燻製小屋の煙突から、最後の煙が細く立ち上っている。桜の甘い香りを含んだ風が、畑を越え、村の屋根を撫で、街道のほうへ流れていった。




 同じ頃——。


 フィールデンから半日ほど離れた街道を、一人の旅人が歩いていた。


 夜道だ。月明かりを頼りに、次の宿場町を目指している。足が重い。腹が減っている。今朝食べた魔法パンの味がもう口の中に残っていない。あれは食べた端から忘れる味だ。


 ふと——鼻に、何かが触れた。


 風に乗って、かすかに——甘い匂い。


 焚き火の匂いとは違う。もっと柔らかくて、深くて、どこか——食欲をそそる匂い。嗅いだことがない。なのに——知っている気がする。体の奥の、もっと古い場所が覚えている匂い。


 旅人は足を止めた。


 風上を見た。丘の向こう、星空の下に——かすかな煙が立ち上っている。


「……なんだ、あれは」


 空腹の足が——そちらに向こうとしていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


燻製小屋のモデルは、北欧やドイツの伝統的なラオフカマー(Rauchkammer)です。木造の小さな部屋にソーセージやハムを吊るし、下から桜やブナの煙を送り込む。現代でも黒いシュヴァルツヴァルト地方の農家には、何百年も使い込まれた燻製小屋が残っていて、壁が煙で真っ黒に染まっている。あの壁自体がもう一つの調味料なんです。


桜のチップの甘い香りの正体「グアイアコール」は実在の化合物で、バニラに似た甘い匂いがします。燻製の化学は意外と奥が深くて、木の種類ごとに生まれる風味化合物が全く違う。桜は甘くて穏やか、ヒッコリーは力強くてスモーキー、リンゴは果実のようなフルーティーさ。エルマーが古文書を暗唱した場面、書いている時に自分でも笑ってしまいました。聞いてないふりして全部聞いてるんだよな、この人は。


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