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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第19話: 半分の成功

 裏山の斜面を登り始めたのは、朝霧が消えきらない時刻だった。


 足元の草に露が残っている。革靴の先が濡れ、足首のあたりに冷えが走った。秋が深まっている。昨日までは気にならなかった朝の空気が、肌を引き締めるほど冷たい。


 前を行くエルマーの背中が、霧の中で大きく見えた。




「じいさんは裏山としか言ってなかった。白い花で、茎を折ると白い汁が出る——それだけだ」


「それだけで十分です。植物性の凝乳酵素を持つ花は、特徴がはっきりしている。白い乳液を出す茎、そして恐らく——独特の苦味のある匂い」


 アネリーゼは母の薬草手帳を思い浮かべた。白い乳液を出す植物はいくつかある。タンポポの仲間、イチジクに似た灌木、アザミの類い。どれも古文書には記載がなかったが、現実に凝乳作用を持つ植物は存在する。


 母はかつて、薬草園でこう教えてくれた——「植物の白い汁は、傷を塞ぐ力を持っているの。乳を固める力と、傷を治す力。似ていると思わない?」


「師匠、これっすか?」


 ルッツが斜面の中腹で屈んでいた。灰色の岩の隙間から、小さな花が顔を出している。花弁は白い。だが——


「違います。これは花弁が白いだけで、茎は普通の緑。折っても汁は出ないはず」


 実際にルッツが茎を折ると、透明な汁がわずかに滲んだだけだった。白い乳液ではない。


「探しているのは、茎を折った瞬間に白い汁が——乳のように——垂れてくる花です」




 一時間ほど斜面を歩き回った。


 エルマーは黙って先を歩き、たまに足元の草を踏み分けて何かを確認する。猟師のような目つきだった。花を探しているのではなく、地形を読んでいる。


「こっちだ」


 エルマーが尾根筋から外れ、北向きの日陰斜面へ入った。


「なぜこちらに?」


「日当たりが悪い場所に咲く花だ。じいさんがそう言ってた。山の北側、岩場の近く」


 日陰に入ると空気がさらに冷えた。苔の匂い。湿った岩肌。陽の当たる南斜面とは植生がまるで違う。


 リーナが指を差した。


「おねえちゃん、あれ——」


 岩の割れ目に、ひっそりと咲いている花があった。


 白い。五枚の花弁が星形に開いている。背丈は膝ほど。葉は厚みがあって、表面にうっすらと毛が生えている。


 アネリーゼは膝をつき、茎の根元に指を添えた。そっと折る。


 白い汁が——溢れた。


 指を伝って垂れるその汁は、まるで乳のように白く、粘りがあった。鼻を近づけると、青臭い苦味の奥に——かすかに甘い匂いがある。


「……これです」


 声が震えた。


「この汁の中に——タンパク質を凝固させる酵素が含まれているはず」


 エルマーは鼻の頭を擦った。


「じいさんの話が本当だったか」


「本当でした。五世代前の記憶が——まだ生きていた」




 小屋に戻ったのは昼前だった。


 摘んできた白い花の茎を束ね、小さな木桶の中で潰した。ルッツが木槌で丹念に叩き、繊維を砕く。白い汁が桶の底に溜まっていく。布で濾して、小壺に移した。


 透明感のある白い液体。量は少ない——小壺の底に指二本分ほど。


「足りますか?」


「わからない。古文書にも分量は書かれていません。やってみるしかない」


 バターミルクを鍋に移し、焚き火にかけた。昨日と同じ手順——人肌よりやや低い温度まで温める。酵素が高温で壊れることは、レンネットの失敗で学んでいた。


「入れます」


 白い汁を、数滴。


 鍋の中の白い乳に、白い汁が落ちた。色の区別はつかない。木べらでゆっくり、三回だけ混ぜた。


 蓋をした。


「……待ちましょう」




 三十分後。


 蓋を取った。


「あ——」


 リーナの声が上がった。


 固まっていた。


 乳が、ぷるんとした白い塊になっている。昨日のレンネットの時と似た弾力——だが、鼻を近づけた瞬間にアネリーゼの目が見開かれた。


「臭くない……」


 獣の匂いがない。レンネットの時に鍋全体を支配したあの内臓臭が、まったくない。代わりに——ほのかな草の香り。摘んできた花の、あの青い匂いの名残。


 木べらの先で塊を押した。弾力がある。崩れない。酢の時のようにぼろぼろにもならない。


「切ります」


 ペティナイフで薄く一片を切り出した。断面がなめらかに光る。白絹のような質感。


 口に入れた。


 舌の上で——溶けた。


「……乳の味がする」


 当然のことのようで、昨日まではそうではなかった。酢は酸っぱさで乳の味を殺し、果汁は固まらず、レンネットは獣臭に覆われた。だが今——口の中に広がるのは、純粋な乳の甘味。脂肪のまろやかさ。ほのかな酸味。そしてかすかに、花の苦味が余韻のように鼻に抜ける。


「師匠……チーズっすか、これ」


「フレッシュチーズ。まだ熟成させていない。出来立ての、一番素朴な形。でも——」


 アネリーゼは二切れ目を口に入れた。目を閉じた。噛むたびに味が変わる。最初は甘い、次にまろやか、最後にほろ苦い。三層の味が順番に広がる。


「これが……チーズの味」


 四つ目の凝固剤。花の汁。エルマーさんの祖父の、そのまた祖父の記憶が、百年の沈黙を超えて——チーズを蘇らせた。


 ルッツとリーナに渡した。二人が口に入れる。


「……うまい」ルッツが呟いた。目が大きくなっている。


「おいしい! バターとは違う、もっと……もちもちしてる」リーナが頬を押さえた。


 エルマーが入り口に立っていた。いつの間にか来ていたらしい。


「できたのか」


「はい。あなたのお祖父さんのおかげです」


 一切れを差し出した。エルマーは受け取り、無造作に口に放り込んだ。二回噛んで、飲み込んだ。


「……不味くはない」


 鼻の頭を擦った。この男の「不味くはない」が何を意味するか、もう知っている。




 フレッシュチーズの成功は始まりに過ぎなかった。


「熟成させなければ——チーズの本当の力は見えません」


 アネリーゼは古文書の頁を繰った。乳加工の記述の中に、「月の石」と呼ばれたチーズについてのわずかな記載がある。


 ——白き石を暗き場所に安置し、風を通し、数十日待てば、中より黄金の味生ず。ただし石の表に生ずる衣には善きものと悪しきものあり。見分けの術は口伝くでんにて。


「口伝か……」


 文字には残っていない。カビの見分け方。熟成の温度管理。湿度。すべてが、師匠から弟子へ口で伝えられ——そして途絶えた技術。


「やるしかありません」


 フレッシュチーズを四つの塊に分けた。布で包んで余分な水分を絞り、塩を振る。表面に薄く塩の膜を作ることで、雑菌を防ぎ、味を引き締める。


 小屋の裏手にある石造りの物置——温度が低く、光が入らない。壁の隙間から風が通る。完璧ではないが、熟成庫に一番近い条件の場所だった。


「ここに置きます。一週間。毎日様子を見て、表面を拭く」


 四つの白い塊を、木の板の上に並べた。




 三日目に、最初の異変が出た。


「師匠——白いのが生えてきたっす」


 ルッツの声に呼ばれて石造りの物置に入った。朝の光が壁の隙間から細く差し込み、チーズの表面を照らしている。


 四つの塊のうち二つに、白い綿毛のようなものが薄くかかっていた。カビだ。


 アネリーゼは鼻を近づけた。匂いを嗅いだ。


「……悪い匂いではありません。これは——白カビ。表面に膜を張って、中を守る種類。恐らく、チーズの熟成に必要なカビです」


 残り二つの塊には、まだ何も生えていない。


「なぜ二つだけに?」


「風の通り具合でしょうか。壁の隙間に近い二つに生えている。空気の流れがカビの胞子を運んだ」


 布で表面をそっと拭いた。白カビの薄い膜が布に移る。柔らかい。これは問題ない——はず。




 五日目。


 問題は、残り二つの塊で起きた。


 朝、物置の扉を開けた瞬間に匂いが押し寄せた。酸っぱいような、かび臭いような——鼻の奥に刺さる不快な匂い。


「何っすか、この匂い——」ルッツが顔をしかめた。


 アネリーゼは板の上のチーズを見て、息を呑んだ。


 壁から遠い位置に置いた二つの塊が、青黒いカビに覆われていた。白カビではない。色が違う。濃い青緑の斑点が表面を浸食し、塊の輪郭を歪めている。ところによっては黒に近い色をしている。


「触らないで」


 ルッツを制して、ナイフで表面を薄く削った。カビは表面だけではなかった。断面を見ると、青緑の菌糸が内部にまで食い込んでいる。中心近くまで侵食されている塊もある。


「駄目です。この二つは——カビが暴走しています」


 匂いを嗅いだ。刺すような酸味。そして奥に——何か別の匂い。腐敗ではないが、コントロールを失った発酵の匂い。カビが乳のタンパク質を分解しすぎている。


「どうして壁に近い二つは大丈夫で、遠い二つが——」


「風通し」


 アネリーゼは物置の中を見回した。壁の隙間は北側にある。空気はそこから入って、対角の角に澱む。壁に近い二つは常に新鮮な空気に触れていたが、奥の二つは湿気が籠もった。


「カビは湿度で活性が変わります。白カビは乾いた環境で穏やかに育つけれど、湿った環境では——別のカビが勝つ。青カビや黒カビ。成長が早く、攻撃的で、チーズの組織を壊してしまう」


 母の手帳の言葉が蘇った。「薬草園でも、風通しの悪い隅から病気が始まるのよ」




 七日目。


 アネリーゼは四つのチーズの前に座っていた。


 壁側の二つ。白カビの薄い衣をまとい、ほどよく硬くなっている。表面に弾力がある。ナイフで切ると、中は象牙色に変わっていた。匂いはまろやかで、かすかにキノコのような芳香がある。


 奥側の二つ。青黒いカビに覆い尽くされ、形が崩れかけている。一つはもう原型を留めていない。もう一つは辛うじて塊の形を保っているが、表面の半分以上がカビに侵されている。


 四つ作って、二つが成功。二つが失敗。


「半分か……」


 ルッツが横で呟いた。


「半分っす」


 アネリーゼは成功した塊の一つにナイフを入れた。断面を見る。中心部がわずかに柔らかく、外側はやや硬い。熟成が進んでいる証拠だ。一片を切り出し、口に入れた。


 フレッシュの時とは、まるで違った。


 最初に舌に触れたのはまろやかな塩味。次に、乳の甘味がゆっくり広がる。そして噛むたびに——うま味。アミノ酸が分解されて生まれた、あの奥深いうま味が、口の中に満ちていく。


 鼻に抜ける香りが変わった。花の苦味は熟成の中で変質し、キノコとナッツを混ぜたような複雑な芳香に変わっている。一口ごとに味が変化する。噛めば噛むほど、新しい味が現れる。


「……美味しい」


 呟いた。自分の料理を食べて呟く癖が出た。


「ルッツ。食べてみてください」


 ルッツが一片を口に入れ、目を見開いた。


「何すかこれ——バターとも全然違う——味が、重なってる——」


「これが熟成です。白カビが表面を守りながら、内部でゆっくり酵素がタンパク質を分解した。七日でここまで変わる。もっと長く寝かせれば——もっと深い味になるはず」


 リーナにも渡した。


「おいしい! パンに乗せたらどうなるの?」


「きっと——素晴らしいことになります」




 成功した二つの塊を棚に戻し、カビに侵された二つを処分しようとした時——アネリーゼの手が止まった。


 青カビに覆われた塊のうち、辛うじて形が残っていたほう。その断面に、目が留まった。


 青カビが菌糸を伸ばしたあたりの生地が——白カビの側とは違う色をしている。象牙色ではなく、薄い黄色。そして——


 匂いを嗅いだ。


「……ルッツ、ここを嗅いでみてください」


 ルッツが鼻を近づけ、眉を寄せた。


「これ——臭いっすけど——なんか、違うっすね。腐ったのとは——」


「ええ。腐敗ではない。分解が進みすぎているけれど——この青カビが作っている匂い自体は、不快じゃない。むしろ——」


 ナイフの先で、青カビの近くの生地をほんのわずか削り取った。舌先に乗せた。


 強烈だった。


 塩味の後に、圧倒的なうま味が爆発する。白カビの側の三倍——いや、五倍はある。舌が痺れるほどの旨味の塊。そして奥から、ぴりりとした刺激。青カビ特有の、鋭いけれど不思議と後を引く風味。


「……これは」


 アネリーゼの目が輝いた。


「カビの種類が違ったんです。白カビと青カビ。同じチーズに同じ環境で——でも異なるカビが異なる味を作った。青カビの方が分解力が強い。暴走して食べられないほど侵食した部分もあるけれど——カビの端の部分、侵食の浅いところは——」


 もう一片、舌先に乗せた。


「予想以上に、美味い……」




 小屋の前に腰を下ろした。秋の午後の日差しが穏やかだった。


 手元に、二つの成功したチーズと、半壊した二つのチーズ。全部で四つ作って、まともに食べられるのは二つ。残りのうち一つは完全に駄目だが、もう一つは——部分的に驚くほど美味い。


「半分の成功ですね」


 自分で言って——笑った。


 声を出して笑うのは、フィールデンに来てから何度目だろう。数えるほどしかない。パンが焼けた時。果実酒が出来た時。そして今——半分しか成功しなかったチーズを前にして。


 不思議だった。


 半分は失敗した。カビに侵され、形を失った。熟成管理が甘かったせいだ。風通し、湿度、カビの種類——変数が多すぎて、制御しきれなかった。


 でも。


「これでいい」


 声に出した。


「完璧じゃなくても——半分成功すれば、次がある」


 ルッツが隣で目を丸くしていた。師匠が完璧主義者だということは、弟子入りしてすぐに思い知らされている。三つの凝固剤を全部試して全部失敗した翌日に「記録する」と言った人だ。漬物も三壺中一壺しか成功しなくて、それでも成功条件を克明に書き留めた人。


「師匠……怒らないんすか」


「怒らないわよ。だって——半分は成功したもの」


 母の薬草手帳を開いた。紐で綴じた古い頁を繰る。表紙が擦り切れ、角が丸くなった手帳。追放の日に持ち出した唯一の私物。


 あるページに目が止まった。


 母の手書きの文字。丸みを帯びた、柔らかい字。


 ——薬草の効能は「全てか無か」ではない。半分効けば十分。体が残りの半分を補ってくれる。信じなさい。不完全の中にこそ、次の種がある。


「……お母様」


 呟いた。


 パンの酵母も、最初から完璧ではなかった。三日かけて、膨らんだり沈んだりを繰り返して——やっと安定した。果実酒も、最初の瓶は濁って酸っぱかった。漬物は三壺中二壺を捨てた。バターは力技で何とかなったが、チーズは——半分。


 半分の成功。半分の失敗。


 でも失敗した側から——予想もしなかった味が見つかった。


「記録します」


 棚から帳面を取り出し、書き始めた。


 白カビ——壁側、風通し良好。穏やかに育ち、表面を保護。内部は象牙色、まろやかなうま味。

 青カビ——奥側、湿度高。成長が速く侵食性が強い。制御不能。ただし浅い侵食部は強烈なうま味を持つ。

 課題——カビの種類を選別する方法。湿度と風通しの管理。熟成期間の最適化。


「次は——カビを制御します。白カビだけを育てる方法と、青カビを敢えて使う方法。二つの路線を同時に試す」


 ルッツが帳面を覗き込んだ。


「二つの路線?」


「ええ。白カビのチーズと、青カビのチーズ。全く違う味になるはずです。さっき食べたでしょう? 白カビは穏やかで奥深い。青カビは強烈で刺激的。どちらも——チーズの可能性」


「失敗から、新しいチーズが見つかったってことっすか」


「そうです。カビの暴走は失敗だった。でもカビの種類による味の違いを発見できた。知らなかったことを知れた——それは成功です」




 夕暮れ。


 成功した白カビのチーズを薄く切り、黄金麦のパンに乗せた。小屋の前の焚き火の傍に並べる。


 エルマーが畑仕事を終えて通りかかった。


「まだいたのか」


「よかったら——食べていきませんか。チーズが出来たんです」


 エルマーは黙って焚き火の反対側に座った。パンとチーズの皿を受け取り、一口齧った。


 二回、三回と噛んだ。


 普段なら一口で飲み込む男が——噛み続けている。


「……うまいな」


 アネリーゼの目が見開かれた。


 「不味くはない」ではない。「うまい」と言った。この男が、混じりけなく——そう言った。


「本当ですか」


「嘘ついてどうする。パンだけでもうまいが、この白いのが乗ると——味が、広がるだろ。噛めば噛むほど。何ていうか——終わらねえ味がする」


 終わらない味。


 魔法食品の味は一口目がピークで、あとは減衰するだけだ。増幅魔法が作る味は最初の瞬間が最も鮮烈で、噛むたびに薄まっていく。


 だが発酵食品は違う。噛めば噛むほどアミノ酸が分解され、新しいうま味が立ち上がる。最初の一口と十回目の一口で味が変わる。それが——「時間」と「微生物」が作る味の本質だった。


「終わらない味です。チーズの中で白カビがゆっくりタンパク質を分解して、何層ものうま味を作ったんです。一週間の時間が——この味を作った」


「一週間か。長いな」


「でもその分——この味は魔法では作れない」


 エルマーは二切れ目のパンにチーズを乗せた。今度は自分で。手慣れた仕草で——まるで以前からそうしてきたかのように。


「じいさんの花が役に立ったか」


「役に立ちました。動物の胃ではなく、植物の花。生き物を殺さずに乳を固める方法。この土地に伝わっていた知恵です」


「口伝ってのは、そういうもんだ。文字にしなくても、忘れなけりゃ残る」


「ええ。でもエルマーさんが覚えていなかったら——この花の汁は、永遠に失われていた」


 エルマーは目を逸らした。鼻の頭を擦った。炎の光が赤い髪を照らしている。


「覚えてたのは俺じゃなくて、じいさんだ」


「でも、話してくれたのはエルマーさんです。覚えているだけでは意味がない。誰かに話して、誰かが試して——そうやって知識は生き返る」


 エルマーは何も言わなかった。焚き火の炎を見つめて、三切れ目のパンにチーズを乗せた。


 リーナが走ってきて、焚き火の前に飛び込んだ。


「おねえちゃん! おじいちゃんが、チーズってなんだって聞いてる! 食べたいって!」


 アネリーゼは笑った。


「持っていきましょう。村長さんにも——」


 立ち上がった時、ふと棚の帳面が目に入った。今日の記録。白カビと青カビ。成功と失敗。そして——不完全の中にある次の種。


 母の言葉が、また浮かんだ。


 ——不完全の中にこそ、次の種がある。


 半分のチーズが、予想以上に美味い。そして失敗したはずの青カビが、まったく別の味の可能性を示した。


 カビの種類が違った。それだけのことが——次の扉を開けている。


 次は、その扉の向こうへ。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


「市場でパンが飛ぶように売れる」場面を書いていて、中世ヨーロッパの定期市のことを調べました。フランスのシャンパーニュ大市(12-13世紀)は、遠方の商人が集まり、布・香辛料・ワインなどを取引する大規模な市場で、事実上の国際見本市でした。フィールデンの小さな市場はそれとは比べ物になりませんが、「美味いものがある場所に人が集まる」という原理は、中世も現代もファンタジーも変わらないんだなと思います。


ハンスが最後に「備えろ」と言う場面、このおじいさんが好きです。普段は「変なもん作ったな」としか言わないくせに、本当に大事な時だけ核心を突いてくる。書いていて「この人がいてくれてよかった」と思いました。


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