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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第18話: 固まらない乳

 雨上がりの朝は、空気が透き通る。


 畑の向こうに虹の残像がまだ薄く架かっていた。昨日の嵐で倒れかけた黄金麦の穂が、朝日を浴びて再び頭を持ち上げ始めている。あの雨の中——作業小屋でエルマーさんと二人きりになった時の心臓の音が、まだ耳の奥に残っている気がして、アネリーゼは意識してそちらを見ないようにした。


 今日やるべきことは、決まっている。


「ルッツ。今日はチーズに取り掛かります」


「チーズ! ついにっすね!」


 ルッツが目を輝かせた。バター作りの時と同じ目だ。この青年は新しい食材の可能性を前にすると、子供のように無防備になる。


「バターミルクはまだ残っていますね」


「昨日の分と一昨日の分、壺に入れて冷やしてあるっす」


 棚の壺を確認した。バターを作った後に残る白い液体——バターミルク。酸味のある爽やかな匂いがする。この中にまだタンパク質が残っている。カゼインと呼ばれる乳タンパク質を凝固させれば——チーズになる。


 だが問題は、凝固の方法だった。




 古文書を広げた。乳加工の頁。


 ——乳に酸を注げば白き雪のごとく固まり、布にて絞れば水は去りて柔らかき「月の石」残る。されど酸の種によりてさが異なり、用い方を誤れば乳は死せる粒となりて石にもならず。


「酸の種によりて性異なり……」


 アネリーゼは呟いた。古文書は凝固の原理を書いているが、どの酸をどのくらい使うかは曖昧だ。温度も書かれていない。


「三つの方法を試します」


 指を折った。


「一つ目、果実酢。私たちが作った果実酢を使う。酢酸による凝固。二つ目、酸っぱい果汁。蜜林檎の酸味は弱いけれど、林檎に近い果実なら——クエン酸に近い有機酸が含まれているはず。三つ目——」


 アネリーゼは一瞬、言葉を切った。


「子牛の胃袋です」


「胃袋?」ルッツが眉を寄せた。


「古文書にはこうあります。『仔牛の第四胃に宿る白き水——これを乳に垂らせば、酸によらずして固まる』。これはレンネットと呼ばれるもので、胃の中の酵素がカゼインを直接凝固させる。酸とは違う仕組み」


「酵素……」


「微生物が出す分解酵素とは少し違いますが、原理は近い。生き物の体内にある化学物質が、乳を変えるんです」


 ルッツは腕を組んで考え込んだ。


「三種類。全部試すんすね」


「ええ。どれが一番良いチーズになるか——やってみなければわかりません」




 最初の実験。果実酢。


 バターミルクを鉄鍋に移し、焚き火にかけた。弱火で温める。指を浸けられるぎりぎりの温度——人肌よりやや熱い程度。


「ここに果実酢を加えます。酢酸がカゼインの電荷を中和して、タンパク質同士を結合させる。理屈の上では——固まるはず」


 果実酢を少量注いだ。


 白い乳に、琥珀色の液体が流れ込む。木べらでゆっくり混ぜた。


 変化は——早かった。


「あ——固まってる!」リーナが鍋を覗き込んだ。


 確かに、白い塊が浮き上がっていた。だが——


「待ってください」


 アネリーゼの眉が寄った。塊が細かすぎる。ぼろぼろの粒になって散らばっている。白い粒と黄色い透明な液体に完全に分離してしまっている。手で掬うと、指の間からさらさらと崩れた。まとまらない。布で絞ろうにも、粒が細かすぎて布の目を通り抜けてしまう。


「師匠、これ——チーズっすか?」


「……いいえ。分離しすぎです」


 味を見た。酸っぱい。鋭く、舌を刺すような酸味。タンパク質が凝固はしたが、酢酸が強すぎて組織が粗く崩壊している。チーズのなめらかさは、どこにもない。


「酢酸は反応が急激すぎるのかもしれない。温度と量の組み合わせが——」


 アネリーゼは鍋の中身を見つめた。白いぼろぼろの粒が、黄色い液体の中で漂っている。月の石——ではない。砕けた砂だ。


 母の薬草手帳の言葉が頭を過ぎった。「薬も毒も、量が境を決める」。酢酸の量が多すぎたのか。少なければ固まらず、多ければ崩壊する。その境が——わからない。


「一つ目、失敗です」


 鍋の中身を捨てた。




 二つ目の実験。果汁。


 蜜林檎は甘味が強く酸味が弱い。だが村外れの藪に、小さな酸っぱい野生果実が自生していることをリーナが知っていた。


「あの赤い実、すっごく酸っぱいよ。一個食べたら口がきゅってなるの」


 朝のうちにリーナが摘んできてくれた赤い実——名前はわからないが、齧ると確かに強い酸味がある。柑橘のような鋭さではなく、もっと——丸い酸味。


 果実を潰し、布で濾して汁を絞った。薄い赤紫色の液体。匂いを嗅ぐと、ベリーに似た甘酸っぱさがある。


「この果汁に含まれる有機酸で凝固させます。果実酢より穏やかな反応になるはず」


 新しいバターミルクを鍋に入れ、同じ温度まで温めた。果汁を注ぐ。


 混ぜた。


 待った。


 ——何も起きない。


「師匠……」


「もう少し待ちましょう」


 五分。十分。白い液体は白い液体のままだ。わずかに色が変わった気もするが、固形物は浮いてこない。


 果汁を足した。さらに混ぜた。


 待った。


 二十分経っても——乳は乳のままだった。


「固まらない……」


 アネリーゼは鍋の中を木べらでかき回した。少しだけ粘度が上がった気がするが、凝固と呼べるものではない。液体の表面に薄い膜が張っているだけだ。指で触れると、ぬるりとした感触が残る。


「酸が弱すぎるのでしょうか。果汁の有機酸ではカゼインを凝固させるのに足りない——」


 果汁をさらに追加した。鍋の中身が薄い赤紫色に変わりつつある。乳の白さが失われていく。


「これ以上入れると——もう乳じゃなくなるっすね」


 ルッツの言う通りだった。果汁を入れすぎれば、チーズの味が果汁に支配されてしまう。そもそもチーズは乳の味を凝縮させたものでなければならない。凝固剤の味が主張しては意味がない。


「二つ目も——失敗です」


 鍋の中身を捨てた。赤紫に染まった白い液体が、地面に染み込んでいった。




 三つ目。子牛の胃袋。


 これはルッツが朝から準備していた。村の外れで家畜の解体を手伝った際に、使わない内臓をもらい受けてきたのだ。子牛ではなく成牛の胃袋だが、第四胃には凝乳酵素が含まれているはずだ。


「胃袋を塩水に浸けて、酵素を抽出します。半日かかる予定だったけれど——」


 朝から塩水に浸けておいた胃袋の汁を、布で濾した。濁った黄色い液体が小壺に溜まる。


 匂いを嗅いだ瞬間、アネリーゼの眉が跳ね上がった。


「……臭い」


 内臓の匂い。生の、処理しきれていない獣臭。胃袋の粘膜と消化液が混じった、甘酸っぱいような、それでいて鼻の奥に引っかかるような匂い。


「師匠、大丈夫っすか?」


「大丈夫です。酵素さえ活きていれば——匂いは後で抜ける可能性がある」


 三度目のバターミルクを鍋に入れた。温める。今度は人肌より少し低い温度——酵素は高温で失活する。酢や果汁の時より、繊細な温度管理が必要だった。


 レンネット液を注いだ。数滴だけ。


 混ぜて、蓋をした。


「酵素による凝固は時間がかかります。三十分から一時間——」


 待った。


 三十分後、蓋を取った。


「あ——」


 ルッツが声を上げた。


 固まっていた。乳が、ぷるんとした塊になっている。酢の時のようなぼろぼろの粒ではない。表面がなめらかで、木べらの先で押すと弾力がある。豆腐のような——いや、もっと繊細な質感。


「固まった……!」


 リーナが手を叩いた。


 だが——アネリーゼは黙っていた。鼻を近づけている。


「……だめです」


「え?」


「匂い。レンネットの臭みが移っている」


 固まった塊を少し切り取り、口に入れた。


 食感はいい。なめらかで、舌の上でとろけるような柔らかさがある。だが——噛んだ瞬間、鼻に抜ける匂いが全てを台無しにしている。獣の内臓の匂い。消化液の残り香。乳の甘さを完全に覆い隠している。


「食べてみてください」


 ルッツとリーナに渡した。ルッツは一口齧り、顔をしかめた。


「……これは——食えなくはないっすけど——」


「臭い」リーナが正直に言った。「乳の味が全然しない。お肉の変な味がする」


「子牛の胃ではなく成牛の胃を使ったのが原因かもしれない。成牛は消化液が濃く、雑味が多い。あるいは——抽出の時間が長すぎたか、塩水の濃度が合っていなかったか」


 アネリーゼは塊を見つめた。形はチーズに近い。質感もいい。だが味が——駄目だ。食べ物として、成立していない。


「三つ目も——」


 言葉を切った。鍋の中身を見た。なめらかな白い塊が静かに座っている。形だけは理想に近いのに。


「——失敗です」




 小屋の机に、三つの記録が並んだ。


 酢——分離過剰、粒状崩壊。

 果汁——凝固不足、液体のまま。

 レンネット——凝固成功、臭み移行。


 三つ試して、三つとも失敗。


 アネリーゼは古文書の頁を繰った。乳加工の記述を何度も読み返した。だが書かれていない。酢の適正量も、果汁の酸度も、レンネットの臭みの除去法も。古文書は「固まる」と書いてあるだけで、「どうすれば正しく固まるか」は書かれていない。


 パンの時はこうではなかった。酵母は時間をかければ答えを出してくれた。果実酒も、果実酢も、漬物も——待てば、微生物が仕事をしてくれた。


 だがチーズの凝固は違う。微生物の仕事ではなく、化学反応だ。酸の種類、濃度、温度、時間——変数が多すぎる。一つでも間違えれば、結果が変わる。


 窓の外が暗くなっていた。一日が終わる。乳を三回分使って、何も残らなかった。


 アネリーゼは——机に突っ伏した。


 泣いたのではない。怒ったのでもない。ただ、額を腕に乗せて、目を閉じた。


 疲れていた。


 パンを焼いた日からずっと走り続けている。果実酒、果実酢、漬物、バター。一つ成功するたびに次の課題が見えて、休む間もなく走り出す。失敗のたびに立ち上がってきた。壺が割れた夜も。腐敗した仕込みを捨てた朝も。


 でも今日は——立ち上がる力が出ない。


 三連続の失敗が、心ではなく身体に効いている。腕は重く、指先の感覚が鈍い。目の奥がじんじんする。


「……酸の量が」


 呟いた。頭はまだ動いている。酢は多すぎた。果汁は少なすぎた。レンネットは質が悪かった。変数を一つずつ潰していけば——いつかは辿り着く。理屈はわかっている。


 だが今日はもう、指が動かない。




「師匠」


 ルッツの声が聞こえた。


 顔を上げなかった。


「師匠。今日はもう休んでくださいっす」


「……」


「で——明日、もう一回やりましょう」


 アネリーゼはゆっくり顔を上げた。ルッツが正面に座っている。焦げ茶の目が真っ直ぐこちらを見ていた。


「酢は量を減らせばいいんすよね。果汁はもっと酸っぱい種類を探す。レンネットは——臭み抜きの方法を考える。師匠が全部言ってたじゃないすか」


「言いましたね」


「じゃあ、まだ終わってないっすよ。三つ失敗しただけで、まだ三つしか試してない」


 ルッツは立ち上がり、鍋を洗い始めた。水の音が小屋に響く。


「俺、ダルムの食堂で毎日魔法料理作ってた時——一回も失敗しなかったっす。魔法は失敗しないから。レシピ通りに魔力を込めれば、毎回同じものが出来上がる」


 鍋を布で拭いた。


「でも——失敗しない料理は、つまんなかったっす。何回作っても同じ。千回作っても同じ。答えが最初から決まってるクイズを解いてるみたいで」


 棚に鍋を戻した。


「師匠の料理は違う。失敗する。でも——失敗するたびに、何か見つかる。酢が多すぎたってわかっただけで、今日はゼロじゃないっす」


 アネリーゼは机の上の記録を見た。三行の失敗記録。だがルッツの言う通り——三行分の情報が増えた。昨日までゼロだった知識が、三つ増えた。


「ルッツ」


「はい」


「……ありがとう」


 ルッツは鼻を擦った。照れている。この仕草はエルマーさんに似ている——と思ったが、口には出さなかった。




 夜。


 リーナが帰り、ルッツが薪を割り終え、小屋の前の焚き火を囲んでいた。秋の虫が鳴いている。空気が冷たい。バターの時には感じなかった季節の深まりが、肌を刺す。


 砂利を踏む足音がして、暗がりからエルマーが現れた。


「まだ起きてたか」


「エルマーさん。こんな時間に——」


「牛の様子を見に来ただけだ。ついでに、あんたのところの灯りが点いてたから」


 エルマーは焚き火の反対側に腰を下ろした。炎の明かりが赤い髪を照らしている。昨日の雨の小屋を思い出して、アネリーゼは視線を火に落とした。


「チーズはどうなった」


「失敗しました。三種類の凝固剤を全部試して、全部駄目でした」


「全部、か」


「酢は分離しすぎた。果汁は固まらなかった。レンネット——胃袋の酵素は固まったけれど、臭みが移って食べられない」


 エルマーは黙って聞いていた。炎がぜて、火の粉が舞った。


「あんた、バターの時は一発で成功しただろ」


「バターは——力技ですから。叩けばいつか分離する。でもチーズは化学反応で、変数が多くて」


「変数」


「酸の種類、量、温度、時間。全部が正しくないと固まらない。一つでも外れると——今日みたいになる」


 エルマーは顎に手を当てた。考えている顔だ。鼻の頭を擦るのではなく、顎を触る——こちらは本気で考えている時の癖だと、いつの間にか覚えていた。


「……じいさんの話だが」


「お祖父じいさん? 前に漬物の時に——」


「いや、婆さんの話じゃなくて、じいさんだ。じいさんの、そのまたじいさん——曾祖父ひいじいさんか。じいさんがガキの頃に聞いた話だと言ってた」


 エルマーは火を見つめたまま続けた。


「乳を固めるのに、ある花の汁を使っとったらしい」


 アネリーゼの背筋が伸びた。


「花の——汁?」


「じいさんは花の名前を覚えとらんかった。ただ、白い花だと言ってた。裏山に咲く白い花の茎を折ると、白い汁が出る。その汁を乳に垂らすと——固まるんだと」


「植物性の凝乳酵素……」


 アネリーゼの頭が一気に回り始めた。古文書には記載がない。だが——現実世界の歴史では、イチジクの樹液やアザミの花のおしべなど、植物由来の凝乳酵素が古代から使われていた。動物のレンネットより穏やかで、臭みがない。


「その花は——今もあるのですか」


「わからん。じいさんは裏山と言ったが、わしは見たことがない」


「白い花で、茎を折ると白い汁が出る——」


 アネリーゼは目を閉じた。母の薬草手帳を思い浮かべている。薬草の中にも、白い乳液を出す植物がいくつかあった。タンポポの茎。ケシの実。イチジク——


「探してみないと。裏山に——」


「明日、案内してやる」


 エルマーの声は、いつもと変わらなかった。ぶっきらぼうで、短い。だが——申し出の速さだけが、この男の気持ちを示している。


「……ありがとうございます」


「礼はいらん。じいさんの話が本当かどうかもわからんのだから」


 エルマーは立ち上がり、土を払った。


「ただ——あんたが乳と格闘してるのは、牛が教えてくれた」


「牛が?」


「搾るたびに乳を持っていかれるからな。不満そうな顔してやがる」


 冗談とも本気ともつかない表情で、エルマーは闇の中へ歩いていった。砂利を踏む足音が遠ざかる。


 アネリーゼは焚き火を見つめた。


 三つの失敗。だが——四つ目の可能性が現れた。花の汁。植物性レンネット。古文書には載っていない、この土地に伝わる口伝の知識。


 エルマーさんの祖父が、そのまた祖父から聞いた話。五世代、百年以上前の記憶の断片。文字に残らなかった知識が、口から口へ、かろうじて生き延びている。


 種の守人たちが守り切れなかったものを——村の老人の記憶が、守っていた。


「ルッツ」


「はい」


「明日、裏山に行きます。白い花を探しに」


「了解っす。……師匠、元気出たっすね」


「元気が出たのではなくて——次にやることが見えたの。それだけ」


 そう言ったが、声に力が戻っていることは自分でもわかった。


 棚の壺を見た。酵母、果実酒、果実酢、漬物、バター。五つの成功。そして今日の三つの失敗。失敗は成功より多くのことを教えてくれる。パンの時に学んだことだ。


 母の言葉が浮かんだ。「薬草園には、枯れた株のほうが多いのよ。でも枯れた株が——生き残った株を教えてくれる」


 三つの凝固剤は枯れた。でも四つ目の種が、エルマーさんの口から落ちてきた。


 明日——裏山で、白い花を探す。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


チーズの歴史は古く、紀元前7000年頃のポーランドの遺跡からチーズ作りの痕跡が見つかっています。有名な起源伝説としては、「アラビアの商人が羊の胃袋で作った水筒に乳を入れて旅をしたら、揺れと体温と胃袋の凝乳酵素レンネットで固まっていた」というもの。偶然の発見が6000年以上の伝統になるって、考えてみるとすごい話です。


アネリーゼが「酢で固めるのは代替手段」と言っているのはその通りで、本格的なチーズ作りにはレンネット(子牛の胃の酵素)か乳酸菌の力が必要です。酢で固めたものはインドのパニールに近い食品で、これはこれで美味しいのですが、熟成チーズの複雑な風味は乳酸菌がいないと生まれません。アネリーゼの次なる挑戦は「天然の乳酸菌で乳を自然凝固させる」こと——つまり本物のチーズへの道です。


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