第17話: 雨の日
風が変わったのは、朝の仕込みの最中だった。
窓の外で木々がざわめき始め、空の色が灰色に変わっていく。さっきまで高かった秋の空が、急速に低くなっている。雲が南から押し寄せて、丘の稜線を飲み込んだ。
アネリーゼは手を止めて窓辺に立った。
空気が湿っている。肌の毛穴に水分が触れるのがわかる。気圧が落ちている——頬骨の辺りに、あの独特の圧迫感。
嵐が来る。
バター壺に蓋をし、漬物の壺を棚の奥に押し込んだ。果実酢の瓶を毛布で覆い、酵母スターターを風が当たらない位置に移す。発酵中のものは温度変化に弱い。急な冷え込みが来れば、微生物の活動が鈍る。
だが一番心配なのは——窯だった。
昨夜から焚いている石窯。パン焼きのために蓄熱している途中だ。石が十分に熱を蓄えるまで、あと半日は火を維持しなければならない。雨が石窯に入れば温度が一気に下がる。蓄えた熱が全て無駄になる。
「ルッツはダルムに買い出しに行っている。リーナも村にいるはず……」
一人で走るしかない。
薄い上着を羽織り、小屋を飛び出した。
最初の雨粒が落ちた時、アネリーゼは畑の半分まで来ていた。
風が叩きつけるように吹き始めた。秋の雨は冷たい。一粒一粒が氷の指先のように、露出した首筋と頬を刺した。上着が一瞬で濡れ始める。
走った。
石窯は畑の端にある。傍らに建てた作業小屋——元は道具置き場だったあの小屋——の庇が、わずかに窯を庇っている。だが正面は開いている。風向きによっては雨が直接入る。
畝を踏み越え、足を泥に取られながら駆けた。髪が顔に張りつく。前が見えにくい。雨脚が一段階強まった。ばらばらと音を立てて土を叩く。
作業小屋が見えた。薄暗い空の下で、石壁の輪郭がぼんやり浮かんでいる。
屋根の下に飛び込んだ。
息を切らしながら、窯を確認した。火はまだ生きている。石の扉の隙間から、かすかに橙色の光が漏れている。だが風が吹き込んでいた。炎が揺れている。このまま放っておけば——
小屋の隅に積んであった薪を一本取り、窯の口に差し込んだ。扉を半開きにして、新しい空気と薪を同時に送る。炎が太さを取り戻した。
窯の正面に、古い板を立てかけた。風除けだ。完璧ではないが、雨が直接炉内に入るのは防げる。
——よし。
額の雨粒を拭った。上着が肩から腕まで濡れて、体に張りついている。冷たい。だが窯は守れた。
ほっと息をついた、その時——
「——何やってるんだ」
声が、後ろから聞こえた。
振り返った。
作業小屋の入り口に、エルマーが立っていた。
ずぶ濡れだった。赤い髪が額に貼りつき、粗い亜麻の服が体に張りついて、広い肩の輪郭が浮き出ている。肘まで捲った袖から伸びる腕に、雨粒が筋を作って流れ落ちていた。
「エルマーさん……畑を?」
「ああ。堆肥の山に覆いをかけに来た。あの量が雨で流れたら——」
言いかけて、エルマーはアネリーゼを見た。頭の先からつま先まで、一瞬だけ目が走った。
「あんたも窯か」
「はい。火を消すわけにはいかなくて」
エルマーは首を振って水を飛ばした。犬のような仕草だった。小屋の中に入ってきて、壁際に背を預けた。
外で雷が鳴った。遠い。だが空気が震えた。
「当分やまねえな、こりゃ」
小屋は狭かった。
三方を石壁に囲まれ、一方が開口部。奥行きは大人が三歩で端から端まで歩ける程度。天井は低く、エルマーが立つと頭が茅葺きの梁にほとんど触れそうだった。
窯が小屋の半分を占めている。残りの空間に道具——鍬、木桶、麻袋——が置いてあり、二人が立てる場所は限られていた。
エルマーが壁際。アネリーゼが窯の前。距離は、手を伸ばせば届くくらい。
雨音が、すべてを埋めた。
屋根を叩く水の音。地面に落ちる音。畑の土が雨を吸う低い音。風が石壁の隙間を抜ける細い音。それらが混じり合って、途切れのない幕のように小屋を包んでいる。
会話が、途切れた。
話すことがないわけではない。バターのこと、チーズの構想、明日の仕込みの予定——話題はいくらでもある。だが雨音がそれらを遠くに押しやって、沈黙だけが小屋の中に残った。
不思議と、居心地が悪くなかった。
窯の中で薪が爆ぜた。ぱちり、と小さな音がして、石の扉の隙間から橙色の光が揺れた。
その光が、エルマーの横顔を照らした。
アネリーゼは——見てしまった。
焚き火の明かりに浮かび上がる横顔。額に張りついた赤い髪の先から、水滴がゆっくりと頬を伝い、顎を離れて落ちていく。鼻筋の稜線。唇は薄く、引き結ばれている。琥珀色の目は外の雨を見ている。
見慣れた顔だった。毎日のように畑で顔を合わせ、漬物を食べる横で座り、バターを齧る姿を見てきた。何も変わらない。いつもと同じエルマーの横顔だ。
なのに——心臓が、打った。
とくん、と。普段より一拍だけ強く。
窯の熱で体が温まったからだ、とアネリーゼは思った。走ったから息が上がっているのだ。それだけのこと。
エルマーが窓の外を見ている。雨粒が風に煽られて斜めに降っている。畑の黄金麦が風に倒されかけている。
「麦は——大丈夫ですか」
声が、少しだけ掠れた。自分でも驚いた。
「倒れるほどじゃねえ。根が深い。あんたの麦は——強い」
あんたの麦。
その言い方に、胸のどこかが小さく動いた。エルマーは「俺の畑の麦」とは言わない。「あんたの麦」と呼ぶ。あの黄金麦を、最初から最後まで——アネリーゼのものだと認めている。
三十二粒の種から始まった黄金麦。土を耕し、種を蒔き、芽吹きを待ち、間引きをし、追肥をし——エルマーがどれほど手を貸してくれたか。堆肥を運び、畝を整え、水路を掘り。それでも「あんたの麦」と呼ぶ。
「……ありがとうございます」
「何がだ」
「いえ。何でもありません」
雨は、やまなかった。
三十分が過ぎたのか、一時間が過ぎたのか。時間の感覚が曖昧になっている。窯に薪を足し、火を維持する作業だけが、時間の刻みを教えてくれた。
エルマーは壁に背を預けたまま、ほとんど動かなかった。腕を組み、片足を壁に立てかけ、外を見ている。時折、雨の向こうの畑に目をやる。
アネリーゼは窯の前にしゃがみ込んでいた。石の扉の隙間から炎の様子を確認する。温度は安定している。石が十分に蓄熱すれば、雨が上がった後すぐにパンを焼ける。
しゃがんだ姿勢で背中が冷えた。濡れた上着が体温を奪い続けている。腕を擦った。鳥肌が立っている。
その時——重いものが、肩にかかった。
温かかった。
見上げた。
エルマーの上着が、アネリーゼの肩に掛けられていた。粗い亜麻の布地。エルマーの体温が残っている。そして——土と、陽に焼けた草の匂い。薄く、ほのかに。嗅ぎ慣れた匂いのはずなのに、肩に触れた瞬間、匂いが別のもののように鮮烈に立ちのぼった。
「風邪ひくぞ」
それだけだった。
エルマーはもう壁際に戻っていた。腕を組み直し、素っ気ない顔で外を見ている。袖を捲った腕が剥き出しになっている。自分のほうがよほど薄着なのに——何も気にしていない素振りだった。
「……エルマーさんこそ」
「俺は平気だ」
それ以上の言葉は、なかった。
アネリーゼは上着の襟を握った。布地の粗さが掌に伝わる。鍬を握る手で着ていた上着だ。エルマーの手と同じで、繊細さはない。だが——温かい。
心臓が、また打った。
今度は一拍ではなかった。二拍、三拍と、普段より速い拍動が続いた。窯の熱のせいではない。走った後の息切れでもない。
わからなかった。
何がわからないのか——それすらわからなかった。ただ、エルマーの上着が肩にあることが、妙に重く感じられた。重いのに、外したくなかった。
窯の薪が燃え尽きかけた。
アネリーゼが立ち上がり、小屋の隅に積んだ薪を取ろうとした。その薪はエルマーの背中の近くにあった。
手を伸ばした。
距離が——近くなった。
エルマーの腕と、アネリーゼの手の甲。指先が薪に触れた時、エルマーの肘から数寸のところを、アネリーゼの腕が通った。触れてはいない。触れてはいないのに、そこに体温の境界線があるのが——わかった。
薪を掴んだ。引き抜いた。
窯に向き直った時、耳の先が熱くなっているのに気づいた。
窯の熱だ。そうに決まっている。
雨音が、変わった。
屋根を叩く音が、ばらばらという激しさから、さあさあという穏やかな調子に変わった。風が弱まっている。
「……やむか」
エルマーが呟いた。
雲が割れ始めていた。灰色の壁に、一筋の裂け目。そこから差し込む光が、雨粒を銀の糸のように光らせた。
雨脚がさらに弱まる。屋根から落ちる滴の間隔が長くなっていく。
アネリーゼは窯の火を確認した。安定している。石は十分に熱を蓄えた。このまま余熱で保温すれば、夕方にはパンが焼ける。
「窯は——大丈夫そうですね」
「堆肥も覆いがあるから平気だろう」
帰る理由が、できた。
なのに——二人とも、すぐには動かなかった。
雨の終わりを、ただ見ていた。銀色の幕が薄くなり、畑の輪郭が戻ってくる。土が黒く光っている。葉の上に残った水滴が、差し込み始めた光を受けて、小さな宝石のように瞬いた。
エルマーが小屋の入り口に歩いた。
「行くか」
「はい」
アネリーゼは肩の上着を外そうとした。
「……エルマーさん、上着を」
「いい。あとで返せ」
ぶっきらぼうだった。振り返りもしなかった。エルマーはそのまま畑に出て、堆肥の覆いを確認しに歩いていった。赤い髪に残った水滴が、差し込んだ光を反射して小さく光った。
小屋を出たアネリーゼは、空を見上げた。
虹が、出ていた。
雲の裂け目から射す光が、雨上がりの空気に架けた七色の弧。村の向こうの丘から始まって、畑の上を跨ぎ、反対側の森の上に消えている。
その虹の真下——黄金麦の畑に、目が止まった。
穂が出ている。
昨日までは葉だけだった茎の先に、ふっくらとした穂が顔を出していた。嵐の間に——あの激しい雨と風の中で——黄金麦は穂をつけたのだ。
雨に打たれて倒れかけた茎もある。だがほとんどの穂は天を向いて、濡れた穀粒を光らせている。虹の光を受けて、畑全体が淡い金色に輝いていた。
アネリーゼの足が止まった。
三十二粒の種。母の手帳に記された「見えない命」。千年の眠りから覚めた古代品種。この村の土で芽吹き、エルマーの堆肥で育ち、リーナの水やりで伸び、ルッツの草取りで守られ——今、穂をつけた。
二度目の収穫が、近い。
肩に掛けたままのエルマーの上着から、また——あの匂いがした。土と草と日差しの匂い。
アネリーゼは上着の襟をそっと握り直した。返さなくてはいけない。明日の朝、エルマーの家の前に干して返そう。きちんと畳んで。
でも今はまだ——もう少しだけ。
虹の下で、黄金麦が風に揺れていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
バターを「木べらで叩いて作る」シーンを書きながら、実際にやってみたくなりました。生クリームをペットボトルに入れて振り続けると家庭でもバターが作れるんですが(15分くらい)、あの「突然液体が分離して塊が現れる瞬間」は本当に劇的です。ずっと液体だったものが、ある一瞬を境にゴロッと固体になる。物理的な閾値を超えた瞬間の「おおっ」という感動は、アネリーゼたちと共有できるかもしれません。
ちなみに古代シュメール文明(紀元前4500年頃)の遺跡から、バター作りの様子を描いた石板が見つかっています。人類は6000年以上前から「乳を叩いたら美味い脂が出てくる」ことを知っていたわけです。最初に発見した人、天才すぎませんか。
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