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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第16話: 白い宝石

 朝の搾りたての乳は、温かかった。


 村の共同牛舎から木桶に一杯分。カタリナ婆さんが「好きに使いなさい」と分けてくれた乳を、アネリーゼは小屋に持ち帰った。白い液面が揺れるたびに、脂の膜がきらきらと光っている。

 この村の牛は魔法飼料で育っているが、乳そのものには魔法がかかっていない。保存魔法を使う前の、搾りたての生乳。


「師匠、今日は何を作るんすか」


 ルッツが小屋の入口から顔を覗かせた。


「バターです」


「バター? あの——魔法の油の代わりっすか」


「いえ。魔法の油脂合成とは根本が違います。牛の乳に含まれる脂肪の粒を集めて、固めたもの。古文書にはこう書いてある——『乳を攪拌かくはんせよ。されば脂は離れ、白き塊となりて浮かぶ』」


 ルッツの目が光った。


「攪拌って——かき混ぜるだけっすか」


「そう。ただし、ひたすら。長く」




 まず乳を半日置いた。


 井戸水を汲んだ桶の中に乳の桶を浸し、冷やす。気温が下がると脂肪は上に浮く。午後、乳の表面に薄いクリームの層が出来ていた。指で触れると、ぬるりとした感触。


「これが乳脂肪の層です。この部分だけをすくい取ります」


 木匙でクリームを丁寧に掬い取り、別の壺に移した。下に残った脱脂乳は薄い青白色で、飲めばさっぱりとした味がする。


「ルッツ、脱脂乳を味見してみてください」


 ルッツは一口飲んで首を傾げた。


「薄い……。いつもの乳と全然違うっす」


「脂肪を取り除いたから。でもこれはこれで使い道がある。パンの生地に練り込めば、しっとりした焼き上がりになるはず」


 クリームの壺を手に取った。ここからが勝負だ。




 壺に蓋をして、振った。


 両手で壺を抱え、上下に振る。規則的に、力を込めすぎず、だが休まず。

 乳脂肪の粒子は通常、薄い膜に包まれて液中に浮遊している。この膜を物理的に壊すのが攪拌の目的だ。膜が破れれば脂肪同士がくっつき合い、やがて一つの塊になる——古文書の理論はそう説いている。


 だが理論と実践は違った。


 十分経っても、クリームはクリームのままだった。壺の中でちゃぷちゃぷと音がするだけで、何も変わらない。


「師匠、代わるっす」


 ルッツが手を出した。若い腕が壺を上下に振る。勢いがある。だが五分で息が上がった。


「き、きつい……」


「速さより持続です。ゆっくりでいいから、止めないこと」


 交代で振り続けた。二十分。三十分。腕が痺れてきた。壺の中の音が変わらない。本当にこれで合っているのだろうか。古文書には「攪拌せよ」としか書いていない。どのくらいの時間が必要なのか、記載がなかった。


 ——また、書いていないことに突き当たる。


 母の手帳を思い出す。母も薬草の調合で、古い文献に載っていない分量や時間に何度もぶつかった。そのたびに試して、記録して、次の試行に活かした。


 四十分が過ぎた頃だった。


 壺の中の音が——変わった。


 ちゃぷちゃぷという液体の音が、ぼたぼたという重い音に変わっている。


「……ルッツ」


「聞こえたっす! 音が違う!」


 蓋を開けた。


 壺の中に、白い粒が浮いていた。


 クリームだった液体が分離している。薄い乳白色の水分——バターミルク——の上に、黄色みを帯びた白い粒が無数に浮かんでいる。脂肪の粒子が結合し始めた証拠。


「まだです。ここから粒を一つにまとめる」


 木匙で粒を寄せ集めるように、ゆっくりと壺の中をかき混ぜた。粒と粒がくっつく。小さな塊になり、さらに大きな塊へ。バターミルクが押し出され、塊の表面から水滴が滴る。


 五分後——壺の中に、拳ほどの塊が一つ浮かんでいた。


「取り出します」


 手を入れた。


 指に触れた塊は、冷たくて、滑らかで、しっとりと重かった。掌に載せて持ち上げると、表面からバターミルクが流れ落ちる。塊は淡い黄金色をしていた。クリームの白さとは違う、陽の光を閉じ込めたような色。


「す——すげえ……」


 ルッツの声が裏返った。


「これが——バター?」


「まだ完成ではありません。中に残ったバターミルクを搾り出さないと、すぐに傷む」


 清潔な麻布の上に塊を置いた。布で包み、両手で押す。ぎゅ、ぎゅ、と白い液が布を通して滲み出る。押すたびに塊が締まっていく。余分な水分が抜け、脂肪の密度が上がる。


 三度、四度と押し搾った。最後に布を開く。


 掌の上の黄金色の塊は、もう水分を出さなかった。表面にうっすらと布の網目が刻まれ、指で押すとほんのわずかに凹む弾力。匂いを嗅ぐと——乳の甘さとは違う、もっと深い、ナッツに似たかぐわしさが鼻を撫でた。


「……美味しい」


 ひとかけを口に入れた瞬間、声が漏れた。


 舌の上で溶ける。体温でゆっくりと溶けて、口の中に広がっていく。魔法の油脂合成で作られた「バター風味の油」とは別の物質だ。乳脂肪の結晶が一枚ずつ剥がれるような口溶け。甘みと塩気が交互に訪れ、最後にほのかな酸味が余韻として残る。


 これが——バター。


「師匠、俺にも!」


 ルッツにひとかけ渡した。口に入れた瞬間、目を閉じた。咀嚼そしゃくが止まり、舌の上で溶かしている。


「……なんすか、これ。油じゃない。油のくせに——味がある」


「乳脂肪には数百種の微量成分が含まれています。脂肪酸の種類ごとに融点が違うから、舌の上で段階的に溶ける。一度に全部溶けるのではなく、順番に溶けていくから——味が時間とともに変化する」


「魔法の油は全部同時に溶けるっすよね」


「ええ。均一だから。でもバターは不均一。場所によって結晶の大きさが違い、成分の比率が違う。だから一口の中に『旅』がある」


 ルッツは二つ目を手に取った。今度は噛まずに、舌の上に置いたまま目を閉じている。




 リーナが来たのは、バターの匂いに誘われてだった。


「おねえちゃん、何この匂い! 甘い? でもパンじゃない」


「バターです。牛のお乳から作りました」


「お乳から?」


 リーナはバターの塊を指で突いた。ぷにっと凹む感触に笑い声を上げる。


「おもしろい! これ食べられるの?」


「もちろん。はい」


 小さくちぎって渡す。リーナが口に入れて——眉を上げた。


「……溶けてく。口の中で溶けてくよ! なんか——甘い? でも甘くない? 不思議……!」


「脂肪の甘み。砂糖の甘さとは種類が違います」


「おいしい! おじいちゃんにも持っていっていい?」


「どうぞ。布に包んで、涼しい場所で渡してあげてください」


 リーナは大事そうにバターの欠片を布に包み、石垣を越えて走っていった。




 午後。畑に砂埃を立てて、見覚えのある荷馬車がフィールデンの道を上ってきた。


 帆布の幌に商品が山と積まれ、馬が疲れた足取りで坂を登る。御者台の上で手を振っている男——丸顔に人懐こい笑み、日に焼けた肌と抜け目のない目。


 フリッツだった。


「やあやあ、お久しぶりですな!」


 石垣の前で馬車を止め、ひらりと飛び降りた。前回より荷が多い。布地、塩、金物、薬草の束——辺境の村々に売る雑貨が所狭しと積まれている。


「フリッツさん。また来てくださったんですね」


「来ると申したでしょう。粉が増えているか確かめに——おや」


 フリッツの鼻がひくついた。行商人の嗅覚だ。


「この匂いは……何です? 乳ではない。乳から何かを取り出した匂いだ」


「バターです。今朝作りました」


 フリッツの目が光った。前回、黄金麦のパンを前にした時と同じ——商人の瞳だ。


「拝見しても?」


 小屋に案内した。棚の上に麻布を敷き、その上に黄金色のバターが鎮座している。隣には漬物の壺。果実酢の瓶。酵母のスターター。畑の小屋が、いつの間にか食品工房のような趣になっていた。


 フリッツはバターを一瞥し、漬物の壺を一瞥し、果実酢の瓶を一瞥した。それから顎を撫でた。


「……アネリーゼさん。率直に申し上げてよろしいか」


「どうぞ」


「これは——商品になる」


 前回と同じ言葉。だが今回の声は違った。前回は驚きから出た言葉だった。今回は確信だった。


「パンだけなら珍しい手焼きの品で終わる。だがバターがあり、漬物があり、酢がある。品揃えがある。品揃えがあれば——いちが立つ」


「市……」


「ダルムの街道沿いの村々には、こうした品を求める者が少なからずいます。魔法食品に飽きた者、金はないが物はある者。私が仲立ちして、物々交換という形なら——噂を立てずに回せます」


 物々交換。金を介さない取引なら、帳簿に載らない。辺境管理局の目にも留まりにくい。


 アネリーゼは考え込んだ。


「何と交換するんですか」


「必要なものは何です?」


「……布地。麻布か木綿。壺も足りません。それと——」


「麦の種、でしょうな」


 フリッツがにやりと笑った。


「黄金麦以外にも栽培できそうな古い品種の種子を、私の行商先で探しましょう。辺境の老人たちの納屋には、思いもよらぬものが眠っていることがありますからな」




 石垣の上に、エルマーが座っていた。


 鍬を横に置き、腕を組んで話を聞いていた。フリッツとアネリーゼのやり取りを、一言も発さずに。


 フリッツが「では早速、バターを少々と漬物を一壺——」と言いかけた時だった。


「待て」


 エルマーが立ち上がった。


 石垣から降り、大股でフリッツの前に歩み寄る。琥珀色の目が行商人を真っ直ぐ見据えていた。


「商人。あんた、あの女のもんだけ持っていくつもりか」


 フリッツが面食らった顔をした。アネリーゼも目をしばたたかせた。


「エルマーさん?」


「バターの乳はカタリナ婆さんの牛から出た。漬物の野草は俺が区切った畑から生えた。壺は親父の遺品かたみだ。翡翠の塩を採りに行った時も、半日の荷運びは俺がやった」


 ——そうだった。


 アネリーゼは息を呑んだ。翡翠の塩湖への道中、重い麻袋を背負って岩場を往復したのはエルマーとルッツだった。壺を三つ運んできたのもエルマーだった。毎朝堆肥を管理し、畑の隅を耕し続けているのもエルマーだ。


 この小屋の中にある全ての発酵食品は——アネリーゼ一人の手で作ったものではない。


「俺の取り分はどうなる」


 エルマーの声は低く、静かだった。怒っているのではない。要求している。


 フリッツは一瞬沈黙し、それから行商人らしい切り替えの早さで頷いた。


「もっともなお話ですな。エルマーさん、とおっしゃいましたか。あなたは何をお望みで」


「鍬の替え刃。それと、釘」


「大工仕事を?」


「あんたの次の荷車に積んどけ。バターと漬物の半分は俺の労賃だ。そいつと引き換えだ」


「半分。なるほど」


 フリッツは顎を撫でた。行商人の目で値踏みしている。


「……エルマーさん。バターの半分と漬物の半分、鍬の替え刃と釘三十本。それで?」


「それでいい」


 エルマーは頷いた。短い。交渉は一往復で終わった。


 フリッツがアネリーゼに目を向けた。「よろしいですかな?」


 返事の前に、エルマーが言った。


「取引だ。情けじゃない」


 アネリーゼを見ずに言った。声は低く、だが——硬かった。


「あんたが作ったもんを、俺がただ恵んでもらうのは——筋が違う。俺は労力を出してる。だから取り分を貰う。当然だろ」


 鼻の頭を——掻かなかった。


 今回は癖が出なかった。照れてもいないし、居心地が悪いわけでもない。エルマーは本気で言っている。自分の仕事に対する正当な報酬を求めている。それが、彼の矜持だった。


 ——ああ。


 アネリーゼの胸に、静かな波が立った。


 この人は、助けてくれていたのではなかったのだ。少なくとも、エルマーの中ではそうではない。恩を売っているのでもなければ、善意で手伝っているのでもない。自分の土地で、自分の腕で、自分の仕事をしている。その成果の分け前を求めている。


 対等だった。


 宮廷にいた頃、アネリーゼの周りにいたのは上か下かのどちらかだった。命令する者と命令される者。評価する者と評価される者。恩を着せる者と着せられる者。対等な協力者は——いなかった。


 エルマーは、そのどちらでもない場所に立っている。


「……わかりました」


 声が少し震えた。


「バターと漬物の半分は、エルマーさんの取り分です。フリッツさん、そのように」


「承知いたしました」


 フリッツは帳面を取り出して何かを書き込んだ。それから二人を交互に見て——行商人特有の人懐こい笑みとは違う、少し柔らかい表情になった。


「……良い商いの形ですな。これは」




 夕方、フリッツが出発の支度を始めた。


 荷馬車にバターを半分と漬物の壺を一つ積み込み、代わりに布地の束と空の壺を二つ降ろした。鍬の替え刃と釘は次回持ってくるとのことだった。


「アネリーゼさん」


 御者台に登ったフリッツが、手綱を取る前に振り返った。行商人の顔から笑みが消えていた。


「前回と同じように、一つだけ旅人の義務を果たさせてください」


「何でしょう」


「ダルムの街で——ギルドが動き出しました」


 空気が変わった。


 石垣に寄りかかっていたエルマーが、腕組みを解いた。


「ギルドとは」


 エルマーが聞いた。短い二語。


「魔法料理ギルドです。ダルムに支部がありましてな。フィールデンで魔法を使わない食品を製造している者がいるという噂が——どこからか漏れたようです」


 アネリーゼの指先が冷たくなった。


「……どの程度の情報が」


「まだ名前は出ていません。だが——『辺境の村で、失われた食品製造法を復活させている女がいる』という話がギルド支部長の耳に入った。それだけは確かです」


 フリッツは帽子の鍔を直した。


「今すぐどうこうなるとは思えません。ギルド支部は動きが遅い。だが——半年、一年の話ではなくなった。いずれ正式な調査が入る可能性がある」


 ルッツが拳を握った。「師匠を——」


「ルッツ」


 アネリーゼが制した。声は冷静だった。いや——冷静にした。胸の中は波打っている。


「フリッツさん。情報をありがとうございます」


「私も商売ですからな。この取引が潰れては困る」


 フリッツはようやく笑った。だがその笑みの奥に——旅人の真実味が一瞬覗いた。


「お気をつけなさい。ギルドが嗅ぎつけたということは——王都にも、いずれ届く」


 手綱が鳴った。馬が歩き出す。荷馬車の車輪が乾いた道を軋ませていく。フリッツが御者台から手を上げた。


「次は二十日後に参ります。替え刃と釘、忘れませんぞ!」


 砂埃が道に舞い上がり、荷馬車が丘を越えて見えなくなった。




 夕暮れの畑。


 アネリーゼとエルマーとルッツが、石垣の前に残されていた。


 沈黙を破ったのはエルマーだった。


「ギルドか」


「ええ。魔法料理の権威を守る組織です。私が宮廷にいた頃——彼らが自然料理を排斥する動きは、何度も見てきました」


「あんたが追い出された原因か」


「直接には宮廷侍従長ですが……ギルドの圧力がなかったとは言えません」


 エルマーは石垣に腰を下ろした。鍬を膝の上に載せて、遠くを見ている。


「なら——やめるか」


「……え?」


「バターも漬物も。やめて、大人しくしてれば、ギルドも来ねえだろ」


 アネリーゼはエルマーの横顔を見た。夕陽が琥珀色の目を照らしている。瞳の奥に、問いかけがあった。やめろと言っているのではない。どうするか聞いている。


「やめません」


 即答だった。


「やめるわけがないでしょう。やっと——バターが作れたんです。漬物が成功したんです。果実酢が完成し、酵母が安定し、黄金麦が根を張った。ここにあるものは全部、時間と微生物と——」


 言葉が詰まった。


「——この村の人たちの力で、作り上げたものです」


 エルマーは鼻の頭を掻いた。今度は癖が出た。


「……そうか」


 それだけ言って立ち上がり、鍬を肩に担いだ。


「なら——替え刃が届くまでに、この鍬を研いでおく」


 背を向けて歩き出す。大股の、迷いのない歩き方。畑の向こうに堆肥の山が夕陽に照らされ、白い菌糸の上に翡翠色の菌糸が広がっている。


 アネリーゼはその背中を見ていた。


 取引だ。情けじゃない。


 あの言葉が、まだ胸の中で鳴っている。エルマーはこちらを助けているのではない。対等に、自分の仕事として、ここに立っている。


 宮廷で「宮廷料理長殿」と持ち上げられた時よりも。父に「伯爵家の長女として」と扱われた時よりも。今日のエルマーの「取引だ」のほうが——ずっと、嬉しかった。


 嬉しい?


 自分の感情に首を傾げた。嬉しいのとは少し違う。認められた、というのとも違う。もっと静かで、もっと確かな——安堵に似た何か。自分一人で全てを背負わなくていいという、当たり前のはずなのに初めて感じる感覚。


「師匠」


 ルッツが隣に立っていた。


「エルマーさん、かっこよかったっすね」


「……そうですね」


「で、ギルドのことは——どうするんすか」


 アネリーゼは夕陽に染まった畑を見渡した。石窯。堆肥の山。酵母の壺が並ぶ棚。漬物の壺。果実酢。そして今日生まれたバター。


「まずは、作り続けること。ギルドが来る前に——この村で作れるものを、もっと増やします」


「もっと?」


「バターの次は——チーズ」


 古文書の一節が脳裏に浮かぶ。乳を温め、酸を加えれば凝固する。その凝固物を圧搾し、塩を振り、時間をかければ——千の味を持つ白い石になる。


 だがチーズは、バターよりずっと難しい。凝固の条件が繊細で、古文書にも不明瞭な箇所が多い。失敗は確実にある。何度も。


「ルッツ。明日から、チーズの下調べを始めましょう。古文書の乳加工の章をもう一度精読します」


「了解っす!」


 夜が降りてきた。


 小屋に戻り、棚の上のバターに布を被せた。黄金色の塊は冷えて少し硬くなっている。明日の朝、パンに薄く塗って食べてみよう。酵母のパンにバター。それだけで——それだけで、食卓が一段と豊かになる。


 母の薬草手帳を開いた。今日の記録を書き加える。


 ——バター製造。搾乳→半日冷却→クリーム分離→攪拌約四十分→脂肪粒結合→バターミルク排出→圧搾。淡い黄金色。口溶けは段階的。収量は乳一桶分からバター拳大一つ。


 ——フリッツ来訪。物々交換の開始。布地・壺を入手。次回、鍬替え刃・釘。


 そして最後に一行。


 ——ダルムの魔法料理ギルド支部が、フィールデンの噂を嗅ぎつけた模様。


 ペンを止めた。手帳を胸に抱いた。母の手帳の表紙は擦り切れて、角が丸くなっている。この手帳に書かれた全ての記録は——失敗も成功も警告も——次の一歩のためにある。


 窓の外で風が吹いた。畑の方から堆肥の温もりがかすかに漂ってくる。壺の中では酵母が泡を立て、漬物の乳酸菌が酸を作り、果実酢の酢酸菌が眠っている。


 そして今日から——バターが、仲間に加わった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


エルマーの「婆さんが台所に壺を持っていた」というエピソードを書いている時、日本のぬか床のことを思い出しました。ぬか床も同じ乳酸発酵で、何世代にもわたって「育てて」引き継ぐ文化があります。京都には300年以上続くぬか床を持つ漬物屋もあるそうで。でもその一方で、核家族化やライフスタイルの変化で、ぬか床を受け継がなくなった家庭も多い。三世代で途絶えるという話は、実はファンタジーではなく現実に起きていることなんですよね。


「パンと漬物を一緒に食べて泣く」って書いていて正気かと思いましたが、実際に手作りのサワードウパンと自家製ザワークラウト(キャベツの乳酸発酵漬け)を合わせて食べると、びっくりするほど美味いです。騙されたと思って試してみてください。


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