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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第15話: 漬ける、待つ

 水が、緑色だった。


 三十分ほど歩いた甲斐があった。緩やかな丘を越えた先——窪地の底に、翡翠色の水面が朝日を受けて輝いている。

 湖というには小さく、池というには大きい。水辺に近づくと、鉄と岩と大地そのものが混じり合った匂いが鼻を満たした。


「すげえ……」ルッツが呟いた。「こんな色の水、初めて見たっす」


「おねえちゃん、綺麗……!」


 リーナの声を背に、アネリーゼは水辺に膝をついた。底が透けて見える。灰色の岩盤に白い結晶が散らばり、そのわずかな緑の粒子が水を染めている。


 指を浸し、結晶を一粒つまんだ。舌に乗せる。


 ——塩辛い。だがそれだけではない。


 舌の裏に広がる、丸みのある甘み。鉄、カルシウム、マグネシウム——大地の微量元素が溶け込んだ、奥行きのある塩。魔法合成の純粋な塩化ナトリウムとは根本が違う。時間をかけて岩盤から染み出した、大地の骨髄。


「素晴らしい」


 声が震えた。

 古文書の記述が脳裏に甦る。——翡翠の塩は、大地の骨髄より湧き出で、緑色に輝く塩湖に沈殿す。


 三人で岩棚に登り、結晶を手で掻き集めた。水に入らずとも、岩の上に堆積した塩が採れる。さらさらと乾いた結晶が麻袋を満たしていく音が、硬質で心地よかった。




 村に戻ったのは夕暮れ時だった。


 畑の脇に塩の袋を下ろし、アネリーゼは小屋に三つの壺を並べた。どれもエルマーの父が残した古い陶器だ。堆肥の一件で和解してから、エルマーは言葉少なに「使っていい」と壺を三つ、小屋の前に置いていった。


 畑の隅で摘んだ野草を洗い、三等分する。名も知らぬ硬くて苦い葉だが、魔法汚染を免れた深層の土から芽吹いた貴重な緑だ。


「三つの壺に同じ量の野草を入れます。違うのは——塩の量だけ」


 ルッツが身を乗り出した。


「なんで三つなんすか」


「どのくらいの塩で漬ければうまくいくのか、わからないから。古文書にはこう書いてある——『野菜の重さの十に一の塩を以て漬くべし』。でも千年前の記録が今の野草にそのまま当てはまるとは限らない。だから三段階で試す」


 アネリーゼは計量秤を取り出した。


「一壺目は塩を少なめに。野草の重さの二十分の一」


 翡翠の結晶をすり鉢で細かく砕き、秤で量る。少量の塩を野草に振りかけ、壺に詰めた。


「二壺目は古文書通り。十分の一」


 倍の塩を振る。白に近い薄緑色の粉が、濃い緑の葉を覆った。


「三壺目は多め。五分の一」


 さらに倍。野草が見えなくなるほどの塩。


 それぞれの壺に木の蓋を被せ、石を重しに載せた。


「重しで野草を押すと、塩の浸透圧で細胞液が引き出される。液が野草を覆えば空気が遮断され、嫌気性の乳酸菌が目を覚ます」


「乳酸菌——果皮の酵母みたいに、野草の表面にいるんすか」


「ええ。自然界のどこにでもいる微生物。塩水の中で糖を食べて乳酸を出す。穏やかな酸味——果実酢とは違う、丸い酸っぱさ」


 三つの壺に布を被せ、日の当たらない小屋の隅に並べた。


「五日。五日待てば、最初の結果が出るはず」


「また待つっすね」


「また待ちます」


 アネリーゼは母の薬草手帳を開いた。黄ばんだ頁の隙間に、自分の字で書き加える。


 ——翡翠の塩。漬物試験。壺一:野草比二十分の一。壺二:十分の一。壺三:五分の一。仕込み日。天候:曇り。気温:肌寒い。


 母エレーナは薬草の効能を試す時、必ず条件を記録していた。「何が効いて、何が効かなかったか。忘れたら同じ失敗を繰り返す」——幼い頃に聞いた声が、今も耳の奥に残っている。




 二日目。


 蓋を開けて確認した。壺一は水が少しだけ上がっている。壺二も同様。壺三は——塩が多いだけあって、すでに野草が液に浸っている。


 まだ匂いに変化はない。塩と野草の青臭い香りだけ。


 母の手帳に記す。——二日目。壺一:浸水わずか。壺二:半分浸水。壺三:全体浸水。匂い変化なし。




 四日目。


 異変は壺一から始まった。


 蓋を開けた瞬間、鼻をつく不快な匂いが立ちのぼった。腐敗臭——甘ったるく、ねっとりとした、生ゴミが溶けるような匂い。


「——くさっ」ルッツが顔を背けた。


 アネリーゼは眉をひそめたが、壺から目を離さなかった。液面を見る。にごっている。灰色がかった汁の表面に、細かい泡がぶくぶくと浮かんでいる。発酵の泡ではない。腐敗菌が有機物を分解している泡だ。


 指を浸し、液を少量すくって鼻に近づけた。


「……だめ。雑菌が入っている」


 塩が足りなかった。浸透圧が低すぎて野草から十分な水分が出ず、空気に触れた部分から雑菌が侵入した。乳酸菌が酸を作る前に、腐敗菌が先に繁殖してしまった。


 壺一は失敗だ。


 アネリーゼは壺の中身を畑の端——エルマーが石で区切ってくれた実験区画——に捨てた。腐敗した有機物は堆肥になる。失敗しても、土に返せば無駄にはならない。


 母の手帳を開く。


 ——壺一(二十分の一):四日目に腐敗。浸水不足。空気遮断に至らず雑菌侵入。塩濃度が低すぎると防腐力が保てない。


 手が震えなかった。声も震えなかった。ただ、書いた。




 五日目の朝。


 壺二と壺三を確認する。


 壺二の蓋を開けた。匂いを嗅ぐ。

 ——酸っぱい。


 鼻の奥に、穏やかな酸味の香りが広がった。果実酢のあの鋭い酸とは違う。もっと丸くて、柔らかくて、どこか甘い香りを伴う酸味。


 液は薄い黄緑色に澄んでいる。野草は元の濃い緑から少しくすんだ色に変わり、しんなりとして液の中に沈んでいる。


 ——これは。


 心臓が跳ねた。だがまだ確認していない。壺三がある。


 壺三の蓋を開けた。


 匂いがない。


 塩の匂いだけ。野草は液に完全に沈んでいるが、色が変わっていない。仕込んだ時のままの濃い緑。しんなりもしていない。パリッとした質感が残っている。


 指を浸して液を舐めた。


 ——しょっぱい。ただ、しょっぱい。酸味が全くない。


「……塩が多すぎた」


 声が平坦だった。自分でも驚くほど。


 塩分濃度が高すぎて、乳酸菌さえ生きられなかった。塩は雑菌を殺す。それは正しい。だが濃すぎれば、味方の微生物まで殺してしまう。壺一は塩が足りず雑菌に負けた。壺三は塩が多すぎて乳酸菌ごと死滅させた。


 二つの失敗の間にある壺二だけが——ちょうどよかった。


 母の手帳を開く。


 ——壺三(五分の一):五日目。発酵の兆候なし。酸味なし。塩濃度過多により乳酸菌が活動不能。塩の防腐力が微生物全般を抑制。漬物としては不成立。


 書き終えて、手を止めた。三壺中二壺の失敗。成功率三分の一。


 泣きたいとは思わなかった。怒りも湧かなかった。


 ただ——記録したかった。


 母はいつもそうだった。薬草の調合に失敗すると、何が駄目だったかを手帳に克明に書いた。泣かず、怒らず、ただ条件を記す。「次に同じ失敗をしなければ、この失敗は無駄じゃない」。

 あの頃はわからなかった。母の冷静さが、どこから来るのか。

 今ならわかる。記録するという行為そのものが、感情の居場所になる。悲しみも悔しさも、文字にすれば壺の中に収まる。蓋をして、重しを載せて——次に進める。


 手帳を閉じた。


 壺二がある。壺二は、生きている。




「師匠」


 ルッツが小屋の入り口に立っていた。壺一の腐敗臭と壺三の無反応を見ていたはずだ。顔が強張っている。


「壺二は——」


「匂いを嗅いでみてください」


 ルッツが壺二に顔を近づけた。目を閉じ、鼻先を壺の口に寄せる。


 表情が変わった。


「……酸っぱい。けど、腐った匂いじゃない。果実酢ともちがう。もっと——やさしい?」


「乳酸の匂いです。乳酸菌が野草の糖を食べて出した酸。果実酢の酢酸より角がなくて、まろやか」


 ルッツはもう一度深く息を吸い込んだ。


「なんか、懐かしい気がするっす。食べたことない匂いなのに」


「それは——あなたの身体が覚えているのかもしれない。乳酸は母乳にも含まれている。生まれて最初に口にする酸味が、乳酸なんです」


 ルッツの目が見開かれた。


 アネリーゼは壺から野草を一枚引き上げた。しんなりと柔らかくなった葉を、そのまま口に入れた。


 噛む。


 歯ごたえが変わっている。あの硬くて苦い野草が、しなやかで、ほのかに酸っぱくて——噛むほどに甘みが出てくる。苦みは消えていない。消えてはいないが、後ろに退いている。酸味と塩味が手前に立ち、苦みはその奥で深みを支えている。


 味が、重なっている。


「……美味しい」


 自分の料理を食べて呟く、あの癖が出た。


 ルッツにも一枚渡した。噛んだ瞬間、目が大きくなった。


「え——これ、あの苦い草っすよね? 同じ草?」


「同じです。塩と乳酸菌と五日間が変えた」


「嘘でしょ……こんなに変わるんすか。酢をかけた時とも全然違う。味が——中から来る感じがする」


「酢は外から酸味を加えるもの。漬物は野草自身の中で酸味が生まれるもの。同じ酸味でも、成り立ちが違えば味も違う」


 ルッツは二枚目を食べた。三枚目。無言で噛んでいる。咀嚼のたびに、目の色が変わっていくのが見えた。




 壺二の蓋を開けたまま、小屋の窓辺に置いた。


 風が匂いを運んだのだろう。


 最初に気づいたのはリーナだった。畑の向こうから走ってきて、小屋の入り口で立ち止まった。鼻をひくひくさせている。


「おねえちゃん、何この匂い? 酸っぱいけど——なんか、いい匂い」


 次にエルマーが来た。鍬を肩に担いだまま、小屋の横を通りかかって足を止めた。


「……何の匂いだ」


 壺を覗き込む。眉をひそめたが、鼻は離さなかった。


「漬物です。翡翠の塩と野草で作りました」


「漬物?」


「塩で野菜の水分を引き出し、微生物の力で味を変える保存法です。五日かかりました」


 エルマーは壺の中を見つめていた。薄い黄緑色の液に沈んだ、しんなりとした野草。


「……親父が」


 言いかけて、口を閉じた。鼻の頭を擦る。

 それから——低い声で、ぽつりと。


「親父が、塩で漬けた肉を食わせてくれたことがある。ガキの頃だ。匂いが——似てる」


 アネリーゼは息を呑んだ。エルマーの父は発酵食を知っていた世代の最後の一人。あの塩漬けの肉の記憶が、今——この壺の匂いと結びついた。


「食べてみますか」


 エルマーは返事の代わりに、壺に手を伸ばした。野草を一枚つまみ上げ、そのまま口に入れた。


 噛んだ。咀嚼が一度止まった。


「……」


「どうですか」


「不味くはない」


 いつものぶっきらぼうな言い方だった。だが——もう一枚、手が伸びていた。




 夕方、ハンスが杖をつきながら畑に来た。リーナが駆け寄って老人の手を引く。


「おじいちゃん、おねえちゃんがまたすごいの作ったよ!」


「また変なもんか」


「変なもんじゃないよ。酸っぱくて美味しいの。前の酸っぱい水とは違うの」


 ハンスは孫に引かれるまま小屋に来た。壺の前に立つ。匂いを嗅いだ瞬間——杖を持つ手が震えた。


「——この匂い……」


 老人の目が遠くなった。あの果実酢の時と同じだ。だが今回は——もっと深いところに触れたのかもしれない。


「……知らんはずじゃ」


 声が低く掠れている。


「知らんはずなのに——この匂いは。婆さんの婆さんが——台所の壺に、こんな匂いのするものが入っておったと」


 アネリーゼの心臓が締まった。また——口伝が繋がった。果実酢の時は「酸っぱい水」。今度は「台所の壺」の別の記憶。


 ハンスは壺に手を伸ばし、野草を一枚摘んで口に入れた。噛む。目を閉じる。


 しわだらけの顔が、ほんのわずかにほどけた。


「……酸っぱい。だが、あの酸っぱい水とは違う。もっと——やわらかい」


「乳酸の酸味です。果実酢は酢酸。種類が違います」


 ハンスは目を開けた。アネリーゼを見た。それから——壺の中の、薄い黄緑色の液を見た。


「婆さんが言っとった。『漬けた野菜は冬を越す』と。冬の食い物がなくなっても、壺の中のものだけは食えたと」


「保存食です。塩と乳酸が雑菌の繁殖を抑えるから、何週間も——条件が良ければ何ヶ月も保つ」


「魔法なしで、か」


「魔法なしで」


 ハンスは鼻を鳴らした。杖で地面を一つ叩いた。リーナがぎゅっと老人の手を握っている。


「……パンと、酸っぱい水と、今度はこれか。あんたは次から次へとよう作る」


「失敗も多いです。今回も三つの壺のうち二つは駄目でした」


「知っとる。朝、畑の端にぶちまけた匂いがしとった」


 ハンスは口の端だけで笑った。


「だが——残った一つが、これか」


「はい」


「……悪くない」


 老人は壺からもう一枚取って、ゆっくり噛んだ。目は閉じていなかったが——遠くを見ていた。婆さんの婆さんの台所を、見ているのかもしれなかった。




 夜。


 小屋の窓辺に並んだ壺の前で、アネリーゼは母の手帳を開いていた。今日の記録を書き終え、頁を捲る。母の字と自分の字が交互に並んでいる。


 ——壺一(二十分の一):失敗。浸水不足による雑菌侵入。

 ——壺二(十分の一):成功。五日目に乳酸発酵確認。穏やかな酸味。

 ——壺三(五分の一):失敗。塩過多による乳酸菌死滅。


 古文書の「十に一」は正しかった。千年前の記録が、そのまま通用した。

 だがそれを確かめるには、失敗する壺が二つ必要だった。一壺目の腐敗が「少なすぎる」の証拠。三壺目の無変化が「多すぎる」の証拠。二つの失敗に挟まれた一つの成功。


 母ならこう言っただろう。「失敗は条件の確認よ。次に同じ道を通らなければ、失敗した甲斐があるわ」


 手帳の最後に一行書き加えた。


 ——次回、十分の一を基準に、八分の一と十二分の一で追試する。


 まだ終わりではない。一つの正解が見つかっても、その周辺を探れば、もっと良い比率があるかもしれない。探求は続く。


 窓の外で風が吹いた。畑の方から、堆肥の温もりがかすかに漂ってくる。あの堆肥の中からは、先日見たこともない色の菌糸が伸び始めている。エルマーが夜通し拡張してくれた区画から。


 アネリーゼはふと顔を上げた。窓辺の壺たちが並んでいる。酵母スターター。果実酒の澱。果実酢。そして——漬物。


 四つの発酵が、呼吸している。


 五つ目の壺を置くのは、そう遠くない。塩があれば——乳がある。乳があれば——バター、チーズ。古文書のあの一節。翡翠の塩を乳に溶かせば、白き塊と透きたる水に分かれる。


 だが今夜は、これでいい。


 壺の蓋を確認し、重しを少しだけ調整して、手帳を胸に抱いた。母の手帳の表紙は擦り切れて、角が丸くなっている。追放の日に持ち出した、唯一の私物。


 今日、この手帳に三つの壺の記録を書き加えた。失敗二つと、成功一つ。母の字の隣に、自分の字で。


「……お母様。私の舌は、まだ宝物ですか」


 返事はない。だが壺の中で——乳酸菌は、今夜も静かに酸を作り続けている。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


翡翠色の塩湖というのは完全にファンタジーですが、実は現実にも緑色の塩湖は存在します。オーストラリアのヒリアー湖(ピンク色ですが)や、ボリビアのラグーナ・ベルデ(緑色)など。色の原因は藻類やミネラルの含有で、アネリーゼの世界では地下水が溶かし込んだ銅やマグネシウムのイオンが緑色の正体、という設定です。


「天然塩」と「精製塩」の味の違いを書いていて思い出したのですが、フランス・ブルターニュ地方のゲランドの塩は、海水を天日で蒸発させて作る伝統的な塩田製法で、ミネラルが豊富なことで世界的に有名です。精製された塩化ナトリウム99%の食卓塩とは、文字通り次元が違う味がします。一度食べ比べてみると、アネリーゼの感動が少しわかるかもしれません。


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