第3話 森の中の猫耳少女
南へ進め。
《正解選択》が示した矢印を頼りに、シオンは森の中を歩いていた。
「……便利だな、これ」
木々の間に浮かぶ淡い矢印は、シオンが向きを変えても、ちゃんと進むべき方向を指してくれる。
おかげで、同じような景色が続く森でも迷う心配はなさそうだ。
問題があるとすれば、足元くらいだろうか。
「うわっ、と!」
木の根に足を取られ、危うく転びそうになる。
慌てて近くの幹に手をついた。
「……最強への道、歩きにくいな」
いや、道ですらないんだけど。
シオンは足元を確かめながら歩き出した。
さっき覚えた《ウインド》を試してみたい気持ちはある。だが、風で木の根が消えるわけでもない。
ここは地道に歩くのが正解だろう。
そうしてしばらく進んだときだった。
「――っ!」
遠くから、何かがぶつかるような音が聞こえた。
続いて、甲高い声。
「来ないでっ!」
女の子の声だ。
シオンは足を止め、耳を澄ませた。
草を踏み荒らす音。
低い唸り声。
そして、また女の子の声が響いた。
「もう一体……!?」
「……魔物か?」
声のする方向は、矢印が示す進路から少し外れている。
シオンは木の陰に身を寄せ、そっと様子をうかがった。
少し先に、木々が途切れた場所があった。
そこにいたのは、茶色い毛に覆われた巨大なイノシシのような魔物が二体。
どちらも、シオンの知っているイノシシよりひと回り大きい。
口元から突き出した牙が、陽光を受けて鈍く光っていた。
「うわ……でかっ」
そして、その二体と向き合っているのは、一人の少女だった。
身軽そうな服に、短い剣。
頭には、ぴんと立った三角形の耳が二つ。
腰の後ろでは、細長い尻尾が揺れている。
「……猫耳?」
思わずつぶやいた。
いや、落ち着け。
今は猫耳を見ている場合じゃない。
少女は素早く横へ跳び、突進してきた一体をかわした。
すれ違いざまに短剣を振るう。
刃が魔物の脇腹をかすめた。
だが、浅い。
魔物は勢いを落とさず、地面を蹴って向きを変える。
その隙を狙うように、もう一体が少女へ突っ込んだ。
「くっ……!」
少女は身をひねったが、完全には避けきれなかった。
牙が腕をかすめ、服が裂ける。
少女の表情が歪んだ。
「まずいだろ、あれ……!」
シオンは反射的に飛び出しかけた。
だが、寸前で足を止める。
シオンは魔物と戦ったことがない。
さっき魔法を三つ覚えたばかりだ。
勢いだけで突っ込んだら、助けるどころか二人まとめてやられるかもしれない。
前世と同じ失敗をするな。
頑張る前に、何をすべきか考えろ。
シオンは胸の中で問いかけた。
――あの子を助けるには、どうすればいい?
【《正解選択》】
【魔法で援護する――正解】
「よし!」
シオンは木の陰から一歩踏み出した。
少女は二体の魔物に挟まれかけている。
なら、まずは片方の注意をシオンに向ければいい。
シオンは右手を突き出した。
「《ファイヤー》!」
手のひらの先に小さな炎が生まれ、一直線に飛んでいく。
炎は、少女の背後から迫っていた魔物の横腹に命中した。
「ブゴオッ!?」
魔物が悲鳴を上げ、こちらを振り向く。
少女も驚いたように顔を上げた。
「……人間!?」
「そっちは任せた! こっちの一体は俺が引き受ける!」
「えっ、ちょっと――!」
少女の返事を待つ余裕はなかった。
魔物が、シオンに向かって突進してきたからだ。
「うおおっ! 速い!」
シオンは慌てて横へ跳んだ。
魔物がすぐ脇を駆け抜け、背後の木にぶつかる。
幹が大きく揺れ、葉がばらばらと落ちてきた。
「……あれを食らったら、終わるな」
ナイフ一本でどうにかしようとしなくて、本当によかった。
魔物は首を振り、再びシオンへ向き直った。
さっきの《ファイヤー》が当たった場所には、焦げた跡がある。
効いてはいる。
なら、もう一度。
「《ファイヤー》!」
今度は正面から炎が命中した。
魔物がたじろぐ。
その隙に、シオンはさらに距離を取った。
近づかれる前に攻撃する。
今のシオンにできるのは、それくらいだ。
「《ファイヤー》!」
三度目の炎が、魔物の顔に当たった。
「ブゴオオッ!」
魔物は大きくのけぞり、そのまま地面に倒れ込んだ。
足が何度か動いたあと、ぴたりと止まる。
「……倒した?」
シオンは息を整えながら、慎重に様子を見た。
動かない。
本当に倒せたらしい。
「や、やった……!」
初めて魔物を倒した。
そう実感した瞬間、目の前に文字が浮かび上がった。
【ボアを討伐しました】
【経験値を獲得しました】
【《経験値15倍》が適用されました】
【ジョブレベルが上昇しました】
「おおっ! レベルアップ!」
思わず画面に見入ってしまう。
だが、すぐに少女のことを思い出した。
「そうだ、もう一体!」
振り向くと、少女はまだボアと戦っていた。
動きは速い。
シオンなんかより、ずっと戦い慣れている。
だが、傷を負った腕をかばっているせいか、短剣の動きが鈍っていた。
ボアが突進する。
少女は横へ跳んだが、着地した瞬間に顔をしかめた。
足も痛めているのかもしれない。
「危ない!」
シオンは少女のいない方向へ手を向けた。
「《ウインド》!」
風が吹きつけ、ボアの顔を横から押した。
巨体を吹き飛ばすほどの威力はない。
それでも、突進の向きがわずかにずれた。
少女はその隙に距離を取る。
「今だ!」
「言われなくても!」
少女が地面を蹴った。
低い姿勢でボアの側面へ回り込み、短剣を振るう。
だが、魔物はまだ倒れない。
シオンは少女が離れたのを確認し、手を突き出した。
「《ファイヤー》!」
炎がボアの横腹に命中する。
ボアは悲鳴を上げ、よろめいた。
そこへ少女が駆け込む。
「はあっ!」
短剣が、魔物の首元へ深く突き刺さった。
ボアの巨体が傾き、地面へ倒れる。
今度こそ、動かなくなった。
「……終わった?」
シオンがつぶやくと、少女は短剣を構えたまま、しばらくボアを見つめていた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……終わった、みたい」
その場に膝をつきそうになった少女へ、シオンは駆け寄った。
「大丈夫か!?」
「来ないで!」
「うわっ!」
鋭い声に、シオンは足を止めた。
少女は短剣を握ったまま、こちらをにらんでいる。
猫耳が伏せられ、尻尾がぴんと張っていた。
「……人間が、何の用?」
「何の用って……怪我してるだろ?」
「だから?」
「だから、治そうかと」
少女の目が細くなった。
「……何が目的?」
「目的?」
「助けたんだから金を出せとか、そういう話でしょ」
「いや、別に?」
「……は?」
少女は、ますます怪しむような顔になった。
シオンは困って頭をかく。
助けた理由を聞かれても、困っているように見えたからとしか言いようがない。
それに、腕の傷からはまだ血がにじんでいる。
放っておくのは気になる。
けれど、本人が嫌がっているのに近づくのも違う気がした。
シオンは心の中で問いかける。
――この子の怪我を治したほうがいい?
【《正解選択》】
【《ヒール》で治療する――正解】
「……よし」
「何が、よし、なの?」
「怪我を治す。動かないでくれ」
「ちょっ、勝手に――」
シオンはその場から手をかざした。
「《ヒール》!」
淡い光が少女の腕を包み込む。
「……え?」
少女が目を見開いた。
裂けた皮膚が、ゆっくりとふさがっていく。
腕の傷が消えたところで、シオンは足元にも光を向けた。
「足も痛めてるだろ?」
「……どうして、わかったの?」
「さっき、着地したときに痛そうな顔してたから」
少女は黙り込んだ。
やがて光が消えると、恐る恐る足を動かす。
立ち上がり、その場で軽く跳ねた。
「……痛くない」
「よかった!」
シオンが笑うと、少女は慌てて顔を背けた。
「……頼んでないし」
「そっか」
「お礼なんて、言わないから」
「うん。別にいいよ」
「……っ」
なぜか、少女はさらに不機嫌そうな顔になった。
難しいな、異世界の女の子。
いや、前世でも女の子の気持ちはよくわからなかったけど。
シオンは倒れた二体のボアへ目を向けた。
「さて、こいつらどうしようか」
「……どうするって?」
「持って帰れば、売れるのかな?」
少女の耳がぴくりと動いた。
「売れるけど……まさか、二体とも持っていくつもり?」
「いや、一体は君の分だろ?」
「……え?」
「君が戦ってたんだし。そっちの一体は君が倒したようなもんだろ」
シオンは少女が最後に短剣を突き刺したボアを指さした。
「俺はこっちをもらうよ」
「でも、あんたが来なかったら……」
「それはそれ。君だって戦ってたんだからさ」
少女は何か言いかけて、口を閉じた。
シオンは自分が倒したボアの前にしゃがむ。
かなり大きい。
普通なら、これを街まで運ぶのは大仕事だろう。
でも、今のシオンには便利なものがある。
「《ストレージ》!」
ボアの体に手を触れる。
すると、巨体が一瞬で消えた。
「……は?」
背後から、間の抜けた声が聞こえた。
振り返ると、少女が口を開けたまま固まっていた。
「……今、何したの?」
「収納した」
「収納!?」
「うん。《ストレージ》っていうスキルで」
「そんなスキル、聞いたことない……」
「えっ、そうなの?」
神様からもらった特別なスキルだから、珍しいのかもしれない。
少女はシオンの手と、ボアが消えた場所を交互に見ている。
シオンは少し気まずくなって、話題を変えた。
「そういえば、名前を聞いてなかったな。俺はシオン」
「……名前?」
「うん。君は?」
少女は少し迷ったあと、小さな声で答えた。
「……リュナ」
「リュナか。よろしく!」
「……別に、よろしくするつもりはないけど」
「そっか」
シオンは笑って立ち上がった。
そろそろ街を目指さないと、日が暮れてしまう。
「じゃあ、俺は行くよ」
「……え?」
「街に向かってるんだ。まだ場所もよくわからないし」
シオンは《正解選択》の矢印を確認した。
ちゃんと南を指している。
「それじゃ、リュナ。怪我が治ってよかったな!」
手を振って歩き出す。
「ちょ、ちょっと待って!」
背後から声が飛んできた。
シオンは振り返る。
「ん?」
「……本当に、それだけ?」
「それだけって?」
「だから……お金とか、何か要求しないの?」
「しないよ。ボアも一体もらったし」
「……そう」
リュナは視線を落とした。
猫耳が、わずかに揺れる。
何か言いたそうだったが、結局、何も言わなかった。
「じゃあな!」
シオンはもう一度手を振り、森の奥へ歩き出した。
しばらく進んでから、ふと思う。
「……そういえば、猫耳って本物だったな」
ぴくぴく動いていた耳。
感情に合わせて揺れる尻尾。
あれは、間違いなく本物だ。
「異世界、すげえ……!」
シオンは一人で感動しながら、南へ進んだ。
◇
シオンの姿が木々の向こうへ消えたあとも、リュナはその場に立ち尽くしていた。
「……変な人間」
助けてくれた。
怪我も治してくれた。
ボアも一体、置いていった。
それなのに、何も要求しなかった。
人間に助けられたことがないわけではない。
けれど、そのあとで何かを求められることには慣れていた。
だから、最初から警戒していたのに。
「……シオン、か」
リュナは小さく名前をつぶやいた。
それから、自分の腕を見下ろす。
さっきまであった傷は、跡形もなく消えていた。
「……借り、できちゃったじゃない」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやく。
リュナは残されたボアを見つめ、短く息を吐いた。
「次に会ったら……何か、返さないと」
猫耳が、ぴくりと動いた。




