第7話 婚約破棄した人の畑も乾く
隣接するラウゼン侯爵領から急報が届いたのは、クレイン村の畑が息を吹き返した翌日のことだった。
セドリックが管理を任されている領地でも、王都製の大型魔導ポンプが魔力詰まりを起こし、完全に沈黙したという。
このまま水が引けなければ、冬越しの作物が枯れ、領民が飢えに苦しむという危機的状況だった。
リナリアが急ぎ国境付近のラウゼン領の農地へ向かうと、干上がった水路の前に見慣れた姿があった。
王都の夜会でリナリアを泥臭いと嘲笑い、一方的に婚約を破棄した元婚約者、セドリック・ラウゼンだ。
王都の流行を取り入れた豪奢な外套を着込んだ彼は、泥にまみれた農民たちに取り囲まれ、ひどく苛立った様子で貧乏揺すりをしていた。
「……まさか、君の方から出向いてくるとはな」
荷馬車から降りたリナリアの姿を認めると、セドリックはひきつった笑みを浮かべた。
その顔には、隠しきれない焦燥と屈辱が張り付いている。
「聞き及んでいるぞ。君のところの工房が、まぐれでポンプを動かしたそうじゃないか。王都の商会は、手配に時間がかかると抜かしおって……仕方がない。君のところに、我が領地のポンプを修理する名誉を与えてやろう」
農民たちの手前、領主としての威厳を保とうとしているのだろう。
頭を下げるべき立場でさえ、彼は上から目線の傲慢な態度を崩さなかった。
後ろに控えていた老工房長ガスパルが、「ふざけやがって」と小さく毒づき、古傷のある右腕を震わせる。他の職人たちも、侮辱に耐えかねて顔を強張らせていた。
だが、リナリアの青灰色の瞳は、ひどく冷ややかで凪いでいた。
あの夜会で投げつけられた言葉を、彼女が忘れるはずはない。
前世で、下請け工場を散々見下し、都合のいい時だけ無理難題を押し付けてきた大企業の人間の顔と、目の前のセドリックの顔が重なる。
「名誉、ですか」
リナリアは一歩前へ出た。
「お断りします。私たちの工房は、あなたがおっしゃった通り『下請けにもならないガラクタ作り』ですので、侯爵家への無料の奉仕などできかねます」
「なっ……! 君、領民が困っているこの状況で、私への私怨を優先する気か!」
セドリックが顔を真っ赤にして怒鳴るが、リナリアは持参した鞄から数枚の羊皮紙を取り出した。
それは、領主の館でミラに清書させてきた、正式な契約書だった。
「私怨ではありません。純粋な取引のお話をしています。私たちが修理を行うための条件は三つです」
リナリアは羊皮紙をセドリックの胸元に突きつけた。
「一つ。適正な修理費と、独自の部品代を全額支払うこと。二つ。作業妨害禁止契約を結ぶこと。私たちの現場の判断に、王都の規格を盾にして一切の口出しをしないと誓約していただきます」
「金を取る上に、私の領地で私に黙っていろというのか!」
「三つ。この書面への署名です」
リナリアは最後の一枚を、セドリックの目の前に広げた。
「夜会でヴォルクハルト工房を愚弄したことに対する、職人たちへの正式な謝罪文です。これらに署名いただけない限り、私たちはただちに引き返します」
セドリックは絶句し、わなわなと唇を震わせた。
「私に……平民の職人ふぜいに頭を下げろというのか! 正気か!」
「ええ、正気です。彼らは泥にまみれて領地を救う誇り高き職人です。彼らの尊厳を守れない相手の仕事は、引き受けられません」
リナリアの声は、晩秋の冷たい風よりも鋭く響いた。
周囲を取り囲む農民たちの視線が、一斉にセドリックへと突き刺さる。
干上がった畑を前に、領主のつまらないプライドのせいで救いの手が遠のこうとしているのだ。彼らの目に浮かぶのは、明らかな失望と怒りだった。
「ラウゼン卿。あなたのプライドと領民の命、どちらが大切ですか」
農民たちの無言の圧力に耐えきれなくなったセドリックは、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
彼にはもう、選択肢など残されていなかった。
「……書けばいいのだろう、書けば!」
ひったくるようにペンを受け取ると、セドリックは羊皮紙に乱暴な署名を書き殴った。
それを受け取ったリナリアは、ガスパルたちに向かって静かに頷いた。
「契約は成立しました。ガスパル、お願いします」
「おうよ、お嬢様。……いや、親方」
ガスパルはニヤリと笑うと、職人たちに指示を飛ばした。
彼らはもはや、萎縮した下請けの顔ではなかった。正当な対価と謝罪を勝ち取り、自分たちの技術を売り込む誇り高き職人の顔だ。
ラウゼン領のポンプもまた、クレイン村と同じく王都式の過剰な安全装置が魔力詰まりを起こしていた。
ガスパルたちは手際よく美しい金細工の装飾を剥がし、内部の制御部品を迂回させると、持ち込んだ小型魔導炉《常火》を強引に組み込んだ。
泥だらけの不格好な鉄の塊が、洗練された王都の機械に寄生するような異様な光景だった。
「なんて無骨で醜いんだ……。王都の技師が見たら卒倒するぞ」
セドリックが忌々しげに吐き捨てる。
リナリアは泥で汚れた手袋を直しながら、元婚約者へ向けて冷ややかに言い放った。
「現場で動かない魔導具に、価値はありません」
リナリアが魔力を流し込むと、ガガッ、という重い駆動音が鳴り響いた。
辺境の濁り石の不安定な波を《常火》がしっかりと受け止め、細く長く燃やし続ける。
やがて、吐水管から勢いよく水が噴き出した。
「おおおっ! 水だ!」
「出たぞ! 畑が助かる!」
ラウゼン領の農民たちが歓喜の声を上げ、泥水にまみれながら水路へ駆け寄っていく。
それは、セドリックが嘲笑った泥臭い技術が、彼の領地を確実に救った瞬間だった。
セドリックはぐうの音も出ず、顔を真っ赤にしてその場に立ち尽くすしかなかった。
「修理は完了しました。後の運用は、契約書に記載した手順に従ってください」
リナリアが事務的に告げ、引き上げる準備を始めたその時だった。
「あの……ヴォルクハルトの令嬢様」
一人の若い農民がおずおずと進み出て、リナリアの前に膝をついた。
彼はセドリックを一瞥してから、すがるような目でリナリアを見上げた。
「隣の村の畑も、ポンプが止まって枯れかけているんです。どうか、俺たちの村にも来てもらえないでしょうか。村会名義で正式な修繕契約を結びます。代金は、村の皆で必ず集めますから」
その言葉を皮切りに、周囲の農民たちが次々と口を開き始めた。
「うちの村の暖房具も、王都の商会に修理を断られて困っているんです!」
「領主様を通してでもいい! 村会名義で正式な修繕契約を結ぶから、俺たちの村にも来てくれねえか!」
それは、領主であるセドリックの面子にすがるのではなく、正式な手続きを踏んででも助けを求める、現場の人間からの悲痛な、そして確かな信頼の声だった。
セドリックの顔色から、今度こそ完全に血の気が引いていく。
リナリアは、前世で初めて新規の顧客から直接発注を受けた時の、あの身の引き締まるような喜びを思い出していた。
けれど、今のヴォルクハルト工房は、まだ王都商会連合の認可を受けた一般販売業者ではない。
第六話で監査官の判断を得られたのは、あくまで領内公共設備の修繕だからだ。
リナリアは泥だらけの手で農民の手を握り返し、しっかりと頷いた。
「現時点では、一般向けの直接販売はできません。ですが、既存設備の修繕、または村会・領主名義の公共契約としてなら、正式にお受けできます」
農民たちの顔に、ぱっと希望の光が灯った。
ラウゼン領の村会名義で、ヴォルクハルト工房への正式な公共修繕契約の申し出が入った。




