第36話 火を消すな
雪に半ば埋もれた奥クレイン村の古びた小屋の中は、吐く息が白く染まるほど冷え切っていた。
猛吹雪と雪崩によって村の薪はとっくに尽き、囲炉裏の灰はすっかり冷たくなっている。
薄暗い部屋の片隅では、幼いリオが高熱で苦しげな呼吸を繰り返し、奥の部屋からは陣痛に耐えるマルタの悲痛な呻き声が響いていた。
「急いで! 《暁鴉》から炉を外して、ここに運び込んで!」
リナリアは凍える手をこすり合わせながら、ノアと共に不時着した機体から一基の《常火》ユニットを強引に取り外し、小屋の中央へと運び込んだ。
すぐに排気用の管を窓の隙間から外へ出し、泥だらけの濁り石を放り込んで魔力を流し込む。
ゴォォォォッという重い駆動音と共に、無骨な鉄の炉に赤い火が灯った。
王都の高級な暖房具のような、部屋中を一瞬で春のようにする圧倒的な熱はない。
だが、《常火》が放つ泥臭く確かな熱は、極寒の小屋の空気をじわじわと温め、凍りついていた人々の身体の芯にまで届き始めた。
「お湯を沸かして! それから、リオ君に薬を!」
リナリアが指示を飛ばす。
同乗してきた治療師が薬箱を開き、素早くリオの脈を診て、持参した特効薬を処方する。
奥の部屋では、村の老婆たちが《常火》で沸かした清潔な湯を使って、マルタの出産の準備に奔走していた。
「リナリア様……。ああ、部屋が、暖かい……」
意識の混濁していたリオが、特効薬を飲み下し、炉の放つ赤い光を見つめながら小さく呟いた。
数週間前、初めて暖房炉を届けた夜と同じように、彼は安心したように目を閉じた。
特効薬と、何よりこの止まらない熱があれば、彼は必ず峠を越えられる。
だが、安堵の息を吐いたのも束の間、外で機体の点検をしていたノアが、顔面を蒼白にして小屋へ飛び込んできた。
「親方! 駄目です……右の翼が岩に激突した衝撃で、外側の炉心が完全に歪んで、魔力回路が断線しています!」
ノアの悲痛な報告に、リナリアはハッと息を呑んだ。
「修理はできないの?」
「俺の腕じゃ無理です。ガスパルさんの工房設備がなきゃ、叩き直せません。……動かせるのは、今、この部屋で燃えている左の一基だけです」
それは、絶望的な宣告だった。
《暁鴉》が山風に乗って再び空へ舞い上がり、この深い雪の谷を越えて帰還するためには、二基の炉による強烈な上昇気流が絶対に必要だ。
無事な一基の炉を機体に戻したところで、出力が足りず、飛ぶことはできない。
かといって、吹雪が収まるまでこの一基の炉を小屋で燃やし続ければ、帰還用の燃料である魔石をすべて使い切ってしまう。
今すぐ炉の火を消して機体に積み込み、天候の回復を待ってわずかな可能性に賭けるか。
それとも、帰還を諦め、村人たちのためにこの火を燃やし続けるか。
「親方……どうしますか。このままじゃ、俺たち、王都の査問に戻れません」
ノアが震える声で尋ねる。
査問の場には、エルネストと工房の仲間たちが、王都の悪意を一身に受けて立っているはずだ。
もしリナリアが期限までに証拠を持ち帰れなければ、公開査問の凍結は解除され、ヴォルクハルト工房は取り潰され、バルテスの完全な勝利で終わってしまう。
経営者として、工房を守るためには、絶対に帰らなければならない。
だが、リナリアは迷わなかった。
前世の彼女は、会社の利益と数字を優先し、現場の痛みに目を背けた結果、すべてを失った。
今世では、絶対に同じ過ちは繰り返さない。
目の前で消えかかっている命を見捨ててまで守るべき利益など、どこにもないのだ。
「火は、消しません」
リナリアは真っ直ぐにノアを見つめ、静かに、しかし揺るぎない決意を込めて告げた。
「帰る方法は作ります。でも、この火は今ここで必要です」
その言葉に、ノアは深く頷き、治療師もまた目の前の命を救う作業に没頭した。
リナリアは炉の前に座り込み、濁り石の不安定な魔力波を『戻し輪』で巧みに循環させ、限られた燃料で細く長く、一晩中燃え続けるように調整を重ねた。
やがて、長く過酷な夜が明けようとする頃。
奥の部屋から、元気な赤ん坊の産声が小屋中に響き渡った。
「生まれたよ……! 元気な男の子だ!」
老婆の歓喜の声に、村人たちが涙を流して抱き合った。
リオの額からは汗が吹き出し、荒かった呼吸もすっかり穏やかな寝息へと変わっている。
峠は越えた。
王都の誰もが諦めた二つの命を、辺境の泥臭い安物炉が、確かに救い出したのだ。
「領主様。私たち奥クレイン村は、この御恩を一生忘れません」
涙で顔をくしゃくしゃにした村長が、震える手で一枚の羊皮紙をリナリアに差し出した。
そこには、村人全員の不器用な署名と、リナリアたちへの深い感謝の言葉が綴られていた。
リナリアはそれを両手で受け取り、大切に胸に抱きしめた。
「ありがとうございます。でも、まだ終わりではありません。私たちは、必ずここから帰らなければならないのです」
リナリアはノアを呼び寄せ、持参していた短距離用の通信魔導具を起動させた。
吹雪の磁気嵐によって音声での通話は不可能だが、短い暗号信号なら微弱に飛ばすことができる。
「ミラに伝えて。救助は成功した。ただし、右の炉が損傷し、自力での帰還は不可能になった、と」
ノアが青ざめながらも、通信機に魔力を打ち込んでいく。
さらにリナリアは、小屋の屋根に上り、《常火》の排熱を上空へと真っ直ぐに逃がすための長い煙突管を設置した。
そして、手元の帳簿に、一晩中の炉の出力データと圧力の推移を詳細に記録し始めた。
「親方、その煙突は一体……?」
「熱標識よ。雪に埋もれて陸路からは見えなくても、上空や遠くの山肌からなら、この《常火》が放つ熱の柱を魔力探知で捉えることができる。……迎えに来てくれる仲間を、信じましょう」
リナリアの顔は煤で汚れ、極度の疲労で立っているのがやっとの状態だったが、その青灰色の瞳は決して光を失ってはいなかった。
彼女は、稼働記録の帳簿と、村人たちの署名をしっかりと懐にしまい込んだ。
一方、その頃。
王都と辺境の中間に位置する通信所で、徹夜で信号を傍受していたミラが、弾かれたように顔を上げた。
「……グランヴェル監査官!」
ミラは震える手で通信記録の紙を握り締め、背後に立つエルネストを振り返った。
「お嬢様たちから、暗号通信が届きました。奥クレイン村の救助は成功。病人も妊婦も無事です!」
その報告に、通信所に詰めていた部下たちが小さく歓声を上げた。
だが、ミラの表情は絶望に凍りついていた。
「しかし……機体が損傷し、帰還用の炉を村の暖房として提供したため、自力での帰還は不可能になったと……。お嬢様たちは、猛吹雪の雪山に、取り残されました」




