第35話 空の上でも、現場対応
白い峰の向こう、奥クレイン村へと続く斜面は、黒く蠢く魔獣の群れによって完全に埋め尽くされていた。
飢えに狂った無数の獣たちが、獲物を求めて雪原を徘徊している。
予定していたなだらかな斜面への着陸ルートは、完全に塞がれていた。
「駄目です、親方! あのまま降りれば、群れのど真ん中に突っ込みます!」
操縦席でノアが悲鳴のような声を上げた。
《暁鴉》は反重力で浮かぶ王都の飛行機ではない。風と熱の力で強引に滑空しているだけの、鉄と革の橇だ。
空中で停止することも、大きく引き返すこともできない。
「着陸ポイントを変更するしかないわ! ノア、どこか他に降りられる場所はない!?」
リナリアは後部の機関部から、猛烈な風の音に負けじと叫び返した。
王都の机上で作られた地図には、あのなだらかな斜面しか道は描かれていない。
だが、ここは現場だ。地図にない道を知っている者が、今この機体の操縦桿を握っている。
「東側です! 予定ルートから大きく東に逸れた、切り立った崖の中腹に、昔の猟師たちが使っていた小さな平地があります!」
ノアが、配達少年としてこの山を駆け回っていた頃の記憶を必死に手繰り寄せる。
「そこなら魔獣も登ってこれません! でも、今の風向きのまま東へ曲がれば、横風を受けて機体がひっくり返ります!」
「なら、強引に機体のバランスを変えるわ。右側の炉の出力を限界まで上げて、左側は下げる! 熱による上昇気流の偏りで、無理やり右の翼を持ち上げるのよ!」
それは、ミラが徹夜で弾き出した安全な重量と推力の計算からは完全に逸脱する、極めて危険な操縦だった。
だが、現場で起きる想定外の事態には、現場で対応するしかない。
前世の町工場でも、完璧なマニュアルが通じたことなど一度もなかった。土壇場で機械の癖を読み、勘と経験で数値をいじる。それが現場のやり方だ。
「いくわよ! ノア、ペダルを踏み込んで!」
リナリアは二基直列に並んだ《常火》の制御弁を、左右で非対称に操作した。
ゴォォォォッという濁った燃焼音が響き、機体の右側だけに猛烈な熱が吹き込まれる。
同時に、ノアが《常火歩行補助具》の装着された左脚で、操縦ペダルを力の限り踏み込んだ。
ガガガガガンッ!
ガスパルが打った鉄の骨組みが、悲鳴のような軋み音を上げた。
《暁鴉》の機体が大きく東へと傾き、横から叩きつける乱気流を強引に切り裂いて進路を変える。
真下では、獲物に気づいた魔獣たちが、鋭い牙を剥き出しにして雪面を蹴り、宙に向かって跳躍していた。
「落ちろ……落ちるなっ!」
ノアが叫び、操縦桿を限界まで引き絞る。
魔獣の爪が、機体の真下をかすめて空を切った。
「そのまま高度を保って! 崖まであと少しよ!」
リナリアは煤にまみれながら、炉の圧力計を睨み据えた。
左右の推力バランスを崩した代償として、右側の《常火》の圧力が赤い限界線を超えようとしている。
『戻し輪』が悲鳴を上げ、これ以上は炉そのものが爆発しかねない。
「親方、崖の平地が見えました! でも、距離が足りない! 岩肌にぶつかります!」
「ぶつけて止めるわ! エッダの縫った革と、ガスパルの鉄を信じなさい!」
眼の前に、切り立った黒い岩肌が迫りくる。
平地へ向かって、機体が斜めに突っ込んでいく。
「今よ! 圧力を抜くわ!」
リナリアは限界に達していた右側の炉の『逃がし爪』を、手動で一気に半開にした。
プシュウゥゥッという激しい音と共に、高圧の魔力が一気に外部へと放出される。
熱を失った右の翼が急激に高度を下げ、機体は岩肌に向かって斜めに滑り落ちていった。
ガリガリガリッ!
短い翼の端が、容赦なく岩肌に激突した。
火花が散り、無骨な鉄の装甲が嫌な音を立てて剥がれ落ちる。
凄まじい衝撃が機体を揺らし、リナリアの身体が安全帯に強く食い込んだ。
しかし、ガスパルが執念で叩き出した骨組みは、決して折れることはなかった。エッダの縫い上げた防寒覆いも、致命的な破れを起こすことなく、三人を衝撃と冷気から守り抜いた。
ドスンッ!
重い衝撃と共に、《暁鴉》は雪に覆われた崖の中腹の平地へと不時着した。
雪煙が舞い上がり、機体が大きく滑ってから、ようやく完全に停止する。
シュー、という炉の排熱の音だけが、静寂の雪山に響いていた。
「……ノア。生きてる?」
リナリアが息も絶え絶えに尋ねると、前の席から弱々しいが確かな声が返ってきた。
「はい……。俺の脚の補助具も、無事です。……着きましたよ、親方」
「治療師さんも、無事ですか?」
リナリアが狭い救護席へ視線を向けると、薬箱を抱えた治療師が、青ざめながらも確かに頷いた。
「……はい。薬箱も、無事です」
リナリアは安全帯を外し、震える手で薬の入った金属箱を抱え込んだ。
機体の扉を蹴り開けると、刺すような冷たい風が頬を打つ。
崖下には魔獣の群れが蠢いているが、この高さまでは登ってこれない。そして崖の向こう側には、雪に半ば埋もれた奥クレイン村の家々が見えた。
「行くわよ。急いで」
三人は傷ついた機体を後にし、深い雪を掻き分けながら村へと急いだ。
ノアが土地勘を頼りに安全な斜面を選び、補助具の力で雪を踏み固めて道を作ってくれる。
やがて、人の気配に気づいた村人たちが、雪まみれの三人を見つけて駆け寄ってきた。
「ノア……!? ノアじゃないか! なんでこんな吹雪の中に……」
「村長! 薬と熱を持ってきました! 病人はどこですか!」
ノアが叫ぶと、村長は涙を流してリナリアの足元に崩れ落ちた。
「領主様……! ああ、神様。どうか、早く薬を……!」
案内されたのは、村の奥にある古びた小屋だった。
その外観を見た瞬間、リナリアはハッと息を呑んだ。
そこは、数週間前、リナリアたちが一番最初に《常火暖房炉》を届けたあの小屋だった。
小屋の中に飛び込むと、あの時設置した無骨な暖房炉の前に横たえられ、荒い息を吐いている小さな子供の姿があった。
「リオ……!」
リナリアが名前を呼ぶと、付き添っていた姉のティナが、泣き腫らした目で振り向いた。
あの時、「今夜は寒くないの?」と笑ってくれた少年が、死の淵を彷徨っている。
そして、その奥の仕切られた部屋からは、苦痛に耐えるような女性の激しい呻き声が響いてきた。
「奥で苦しんでいるのは……」
リナリアの問いに、村の老婆が震える声で答えた。
「エッダの妹の、マルタだよ。陣痛が来たっていうのに、この寒さで体力が持たなくて……」
高熱に苦しむリオと、出産間近で命の危険に晒されているマルタ。
二つの命の灯火が、王都に見捨てられたこの雪深い村で、今にも消えようとしていた。
リナリアは、抱きかかえていた薬箱を床に置き、強く唇を噛み締めた。




