第34話 暁鴉、山風に乗る
雪崩によって完全に塞がれた陸路。王都の最新鋭機すらも強風と極寒で起動できない絶対の空白地帯を越えなければ、奥クレイン村の命は救えない。
夜明け前の薄暗い谷間に、山岳救急艇《暁鴉》の重々しい駆動音が響き渡っていた。
極寒の空気が肺を凍らせるような雪原に、鉄と革で作られた無骨な機体が滑走の時を待っている。
操縦席には、片脚の配達少年ノアが座り、緊張に強張る手でレバーを握り締めている。
その後方の機関部では、リナリアが二基直列に配置された《常火》の圧力を極限まで高めていた。
さらに狭い救護席には、領内から急ぎ呼ばれた治療師が、薬箱を抱えて身体を固定している。
「ノア、風の動きはどう?」
「もうすぐ来ます。夜明けと共に、谷の底から一気に吹き上げる強烈な山風が!」
ノアの故郷である奥クレイン村周辺の地形は、彼自身が誰よりも熟知している。
「よし。合図と同時に滑走を開始して。絶対に、この風を捕まえるわよ」
リナリアが泥だらけの濁り石を炉に放り込む。
「風、来ます!」
ノアが叫ぶと同時に、猛烈な突風が機体を後ろから打ち据えた。
「今よ!」
ノアがペダルを踏み込み、滑走板が凍てついた雪面を鋭く削りながら、機体が斜面を下るように急加速していく。
リナリアは炉の弁を全開にした。濁り石の不安定な魔力が生み出す膨大な熱が、ガスパルが叩き出した骨組みと、エッダが縫い上げた防寒覆いの内部に一気に吹き込まれ、機体の中に強烈な人工の上昇気流を発生させる。
ガガガガッ、と鉄の軋む悲鳴が響き渡った。
次の瞬間、《暁鴉》の重い機体が、雪面からふわりと宙に浮き上がった。
それは、王都の貴族たちが愛でるような、反重力ルーンによる優雅で完全な『飛行』では決してなかった。
短い翼で強風を強引に掴んでいるため、乱気流に煽られて機体は激しく揺れ、今にも真っ逆さまに落ちそうに傾く。高度は低く、不安定で、ひどく危うい滑空だ。
「うわぁぁっ!」
ノアが悲鳴を上げながらも、歩行補助具で鍛え上げた左脚でペダルを必死に踏み込み、機体のバランスを保つ。
リナリアもまた、揺れに耐えながら炉の『戻し輪』を操作し、荒れ狂う魔力のムラを抑え込んで強引に出力を一定に保ち続ける。
不格好な鉄と革の塊は、まるで嵐に抗う一羽の鴉のように、泥臭く、しかし力強く宙を這っていた。
だが、その泥臭い翼は、王都の権威が決して踏み込めなかった領域を確かに飛んでいた。
リナリアが小さな窓から眼下を見下ろすと、そこには雪崩によって完全に埋まり、馬も橇も一歩も進めなくなった絶望的な雪の壁が広がっていた。
あの公開査問の場で、王都の最新鋭機が寒さと乱気流に怯えて決して立ち入ろうとしなかった死の空白地帯だ。
高純度魔石の繊細な回路は、この極低温と強風の中では瞬時に凍結し、機能を停止してしまう。
しかし、《常火》は違う。
低品質な濁り石を燃やし、熱と煙を吐き出しながら動くこの安物炉は、どれだけ外気が冷たくとも、どれだけ風が叩きつけようとも、決してその火を落とさない。
《暁鴉》は、誰も越えられなかったその絶対の壁を、風と熱の力だけで確かに飛び越えていく。
「圧力、安定しています。このまま風に乗って!」
リナリアは炉の熱を顔に受けながら、逃がし爪の挙動に目を配り続けた。
手は煤にまみれ、全身の骨が軋むような強烈な振動が絶え間なく襲ってくる。
そのむせ返るような熱と油の匂いの中で、ふと、前世の記憶が鮮明に蘇った。
(あの時も、工場はいつも機械の音と熱に包まれていたわね……)
かつて日本の町工場で女性社長として生きた彼女は、会社の未来と社員の生活を守ろうと必死に駆け回った。
だが、大企業からの理不尽な値下げ要求や、突然の契約打ち切りという巨大な壁を前に、彼女はすべてを一人で抱え込んだ。
社員を不安にさせまいと「大丈夫だから」と嘘をつき、誰にも頼らずに徹夜で働き続けた。
その結果、彼女は過労で倒れ、守りたかったはずの会社は倒産し、大切な社員たちを路頭に迷わせてしまった。
何も、守れなかった。
けれど、今は違う。
彼女の目の前には、故郷の村を救うために必死に操縦桿を握るノアがいる。
この機体の強靭な骨組みには、老工房長ガスパルの誇りと魂が宿っている。
極寒の風を防ぐこの分厚い革には、妹を想うエッダの切実な祈りが込められている。
そして、機体が風に乗れる絶妙な重量バランスは、ミラが徹夜で弾き出した緻密な計算によって守られているのだ。
さらに地上では、エルネストが王都の悪意を断ち切るために監査官として公的な戦いを繰り広げ、父アランが領主としてすべての責任を背負ってくれている。
前世では、孤独の中で一人で潰れた。
けれど今世では、仲間たちの技術と想いが、この泥臭い鉄の鳥となってリナリアを空へと押し上げている。
もう、一人ではない。
(今度は、絶対に守り抜く。私たちの手で、辺境の命を)
リナリアは、熱く燃える炉の側面に触れ、前世の悔恨を振り払うように決意を新たにした。
「親方! 見えました、あの山の向こうが俺の故郷、奥クレイン村です!」
ノアの弾んだ声に、リナリアは視線を前方に向けた。
朝日が差し込み始めた白い峰の向こう側に、雪に埋もれかけた小さな村の影が確かに見えた。
あの場所に、薬と熱を待っている命がある。
「風向き良好。一気に滑空して降りるわよ」
「了解です!」
だが、《暁鴉》が最後の稜線を越え、村へ向けて高度を下げようとした、まさにその時だった。
「……ッ!? 親方、あれを見てください!」
ノアが悲鳴のような声を上げ、操縦桿を強く握り直した。
リナリアが窓から外を覗き込むと、奥クレイン村へと続く真っ白な斜面の上に、黒い染みのようなものが無数に蠢いているのが見えた。
異常な寒波と雪崩によって住処を追われ、飢えに狂って山を降りてきた、凶暴な魔獣の群れだった。
王都が見捨てたその雪原で、無数の獣たちが、孤立した村を今まさに包囲しようとしていたのだ。




